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過去の礼拝説教

「限りなく尊い愚かさ」

2013年12月22日 聖書:マタイによる福音書 2:1~12

クリスマスおめでとうございます。

皆様と共に、クリスマス礼拝を献げられる恵みを神様に感謝いたします。

希望、平和、喜びのろうそくに続いて、アドベント・クランツの四本目のろうそく。愛のロウソクに火が灯されました。

先日も申し上げましたが、このアドベントという言葉は、ラテン語のアドヴェントゥスという言葉から来ていて、元々は「やって来ること」、つまり「到来」を意味します。

英語で冒険を意味するアドベンチャーという言葉も、同じアドヴェントゥスという言葉から派生しています。

ある人が、神の御子の到来・アドベントとしてのクリスマスは、また同時に、神の冒険・アドベンチャーとしてのクリスマスでもある、と言っています。

主イエスは、罪と滅びの中にいる私たちを救うために、僕の姿をとってこの世に来てくださいました。それはひたすらに十字架を目ざす道でした。

それによって、どれだけの人間が主に立ち帰るか、何の確証もないままに、ただ私たちを愛する、ひたむきな愛のゆえに、主は危険な冒険を冒して来て下さったのです。

まさに、クリスマスの出来事は、一人でも多くの人を救いたいと願われた、神様の命懸けの冒険であったのです。

そうであるなら、この神様の命懸けの冒険を無駄にしないために、私たちも、神様の冒険に、精一杯応えていくことが、求められているのではないでしょうか。

そうなのです。私たちも、神様の冒険に応えて、自らを神様に献げる冒険へと、招かれているのです。神様に、自らを献げる冒険。

言い換えれば、それは、最も大切なものを、主に献げていく生き方であると思います。

今朝は、主の命懸けの冒険に対する、私たちのなすべき応答について、与えられた御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

今朝の御言葉は、東の方から、占星術の学者たちが、エルサレムにやって来た場面から始まっています。

彼らは、救い主・メシア誕生の場所を捜し求めて、はるばる旅をして来たのです。

この占星術の学者たちは、クリスマスの代表的な登場人物なのですが、どのような人たちであったのか、詳しいことは分かりません。

ただ、この学者たちが、遠い東の国からやって来た異邦人であることは確かです。

興味深いことに、この学者たちについては、この後、聖書の中で一言も語られていません。

彼らは、東の方から、はるばるやって来て、幼な子主イエスをひれ伏して拝み、そして帰って行きます。

と言うことは、彼らは、この「拝む」ということだけのために、はるばるとやって来たのです。

そして、拝んだ後は、彼らは、すべてをなし終えた人物として、静かに退場しています。

彼らは、ただ救い主を拝むためだけに、はるばるやって来て、持てる最上の物を献げたのです。そして、それだけでもう十分に満たされ、表舞台から消えていきました。

私は、これこそが、本当のクリスマスの祝い方だと思います。

私たちを救うために、命懸けの冒険を犯して、来てくださった神様に対して、私たちにできることは、ただ礼拝することしかないのではないでしょうか。

しかし、このような学者たちの姿は、ヘロデ王やエルサレムの住民に、不安を呼び起こしました。新しい王が生まれるのであれば、それによって世の中が変わってしまうのではないだろうか。そう思って不安になったのでしょう。その不安は、よく分かります。

しかし、果たして、それだけだったでしょうか。彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らの感じた不安は、実は、もっと奥深いものだったと思います。

人間が感じる最も恐ろしい不安。それは、不信仰が、神の現実に触れる時に起こります。

彼らは、この時、この不安を感じたのです。

「なぜこの人達はこんなにまでして、救い主を礼拝しに来たのだろうか。私たちは、何もしないでいて良いのだろうか」。

この時、ヘロデ王も、エルサレムの人々も、そのような不安を抱いたのではないでしょうか。

こんなにまでして、真剣に救いを探し求めている人がいる。それなのに、私はこのままでいいのだろうか。そういう不安に襲われたのではないでしょうか。

翻って、私たちが献げている礼拝はどうでしょうか。周りの人たちに、このような不安を呼び起こしているでしょうか。周りの人たちの心を、揺り動かしているでしょうか。

「なぜあの人たちは、あんなに嬉々として、礼拝に行くのだろうか。せっかくの日曜日なのに、なぜ何物にも優先して礼拝に行くのだろうか。私たちは行かなくても良いのだろうか」。

そのように、周りの人たちが不安を覚えるほどに、礼拝に命を懸けているでしょうか。

もし、私たちが、毎聖日の礼拝において、真実に神様に出会っていて、それが私たちの生き様に、活き活きと表れているなら、それは周りの人たちに何らかの不安を投げ掛ける筈です。周りの人たちが、無視し続けることができなくなる筈です。

私たちは、そのような礼拝生活を生きていきたいものだと、願わされます。

さて、学者たちは、救い主のおられる家へ、星に導かれて進みました。

彼らは、星に導かれて、自分たちの国を出発し、ただ星の導くままに、はるばる旅をして来ました。神様から示された星が無ければ、彼らと救い主を結ぶものは、何も無かったのです。

ところが御言葉を読みますと、どうやら彼らは、旅の途中で、星を見失ってしまったようです。ユダヤ人の王として生まれるお方なら、宮殿におられるに違いない。彼らは、そのように、勝手に思い込んで、自分たちの判断で、ヘロデの宮殿に行きました。

今まで、自分たちを導いてきた星から、目を逸らして、自分たちの智恵に頼るという、間違いを犯したのです。恐らく、その時、彼らは、星の導きを見失ったのだと思います。

しかし、ヘロデの宮殿において、彼らは、聖書を通して、再び神様の導きを得ました。

そして、聖書の御言葉に従って、ベツレヘムへと歩みだしました。

その時、またあの星が現れて、彼らを導いたのです。

彼らは、その星を見て、喜びに溢れた、と書かれています。

この箇所は、原語では、「非常に大きな喜びを喜んだ」、という表現になっています。

学者たちの喜びが、どんなに大きなものであったかが分かります。

彼らの喜び。それは、一度見失った神様の導きを、聖書を通して再び与えられた喜びでした。彼らは、その大きな喜びのうちに、幼な子主イエスに出会いました。

一方、聖書を調べて、メシアはベツレヘムに生まれることを明らかにした律法学者たちは、なぜか主イエスを拝みに行こうとはしませんでした。

ベツレヘムは、エルサレムから僅か8キロしか離れていません。それなのに、誰一人として、礼拝をしに行こうとは、しなかったのです。

彼らは、確かに不安を感じたのです。だから一生懸命に聖書を読みました。そしてメシアはベツレヘムに生まれることになっている、ということを知ったのです。

けれども、その聖書の御言葉によって、動かされることはなかったのです。

御言葉が、実際の生活に繋がっていなかったのです。

クリスマスが、本当のクリスマスになるということ。それは、キリスト誕生の御言葉が、私たちの生活を動かすということです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、自分の生き方に変化が生じることです。

キリスト誕生のメッセージとは、それが本当に分かったなら、私たちの生き方を変える筈です。そして、それは、礼拝を生み出す筈です。

占星術の学者たちは、非常な喜びの中で、幼な子主イエスを礼拝しました。

11節にはこう書かれています。「彼らはひれ伏して幼な子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。

ここに、彼らが献げた三つの贈り物が記されています。「黄金、乳香、没薬」です。

これらの贈り物は、その贈り物の受け取り手である主イエスが、どのようなお方であるかをよく表わしています。

主イエスは、黄金、乳香、そして没薬を贈られるに、相応しいお方であるというのです。

黄金。それは、この贈り物の受け取り手が、王であることを示しています。

主イエスは、王としてお生まれになられました。ですから、黄金を献げるというのです。

クリスマスに主イエスにお会いし、ひれ伏して拝むということは、主イエスを「わたしの王」として受け入れるということです。

今までは、自分自身が、自分の人生の「王」であったのです。でも、王が入れ替わるのです。

自分自身を、王座から引きずり下ろして、主イエスを自分の人生の王として受け入れ、その方に従って生きるのです。黄金は、そのことを表しています。

次に、乳香ですが、乳香というのは、祈りのしるしです。そして、それは、祭司の持ち物とされていました。祭司は、私たちと神様とを結び付ける、仲保者の働きをする人です。

神様に対して道を開く人です。ですから、主エスは、ただ単に王であるだけではなく、私たちと神様との間の、道を開くお方でもある、というのです。

私たちは、主イエスによって、初めて神様に近づくことが出来るのです。

そして、最後は没薬です。生まれたばかりの幼な子に、没薬が献げられたということは、極めて異常なことです。なぜなら没薬というのは、死体を葬るために使われるものだからです。クリスマスの献げ物の中に、没薬があったということは、主イエスの誕生の中に、既に十字架の死の準備があった、ということを示しています。

このお方は、十字架で死なれることを目的として、生まれて来られたお方なのです。

没薬は、そのことを示しています。

人は、それぞれ目的を持ってこの世に生まれてきます。しかし、初めから、死ぬことを目的として生まれた人は、主イエスだけです。主イエスのこの世における歩みは、その初めから、終りまで、十字架を目指した歩みであったのです。

このように、三つの贈り物は、私たちに、主イエスのお姿を、明らかにしています。

主イエスは、私たちの「まことの王」です。また、私たちを神様と結び付ける仲保者です。

そして、私たちのために、十字架の死を引き受けられたお方なのです。

ところで、最近、これら三つの贈り物に関して、大変興味深い解釈が出されています。

その解釈によりますと、これらの贈り物は、もともと学者たちが、仕事の時に用いていた商売道具であった、というのです。

もしそうであれば、それは、仕事をキリストに献げたということを意味します。つまり、彼らは、仕事を変えたのです。或いは、そこまでしなくても、仕事の意味が変わったのです。

自分のためにする仕事から、キリストのためにする仕事へと変わったのです。

彼らは、今まで自分たちの生活を支えてきた、掛け替えのない物。自分が最も大切にしていた物。持っている最高の物を、惜し気もなく献げたのです。

この学者たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。

御存知の方も多いと思いますが、O.ヘンリーという人が書いた、「賢者の贈り物」という短編小説です。物語は大変簡単です。

ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。

とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。

一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。

もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとします。

けれども、何しろ貧しくて、どうにもなりません。

デラは、ジムの懐中時計に付ける、プラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。

そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋さんに売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。

それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。

ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかし、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。

ジムとデラのことを、「一番大切な宝物を、最も賢くない方法で、お互いに犠牲にした、愚かな、幼稚な人たち」と、この小説の作者は言っています。

しかし、その「愚かな、幼稚な人たち」こそが、「もっとも賢い」というのです。

その最も愚かな贈り物こそが、最も尊いのだ、というのです。

ジムとデラは、クリスマスを迎えた者として、最も相応しいことをした、と言うのです。

この作家は、明らかに、二人の贈り物を、学者たちの贈り物と、重ね合わせています。

学者たちの贈り物も、この世の尺度で見れば、最も大切なものを、最も愚かな方法で犠牲にした、賢くない行為だと見られると思います。

なぜなら、彼らが礼拝している、幼な子主イエスには、メシアであることを示すような姿は、全く見られないからです。

圧倒するような威厳に満ちたメシアの姿は、どこにも見られません。

聖書が語る幼な子主イエスは、全く何もしていません。何も語っていません。

彼らの目の前には、ただ粗末な布に包まって、貧しい若夫婦に抱かれている赤子がいるだけです。

彼らが、目にしたのは、貧しさと、弱さと、無力さの象徴のような、一人の赤子でした。

遠い国からはるばる旅をしてきた彼らに、その苦労をねぎらう言葉の一つさえも、掛けることが出来ない無力で弱い存在であったのです。

こんな赤子に、掛け替えのない贈り物をして、その上、自分の生き方さえも変えようとすることは、愚かなことです。気違い沙汰だと言われても、仕方がないと思います。

しかし、人の目には愚かとも見えるそれらの贈り物こそが、実は最も尊い贈り物なのです。

これこそが、クリスマスに最も相応しい贈り物なのです。 なぜでしょうか?

それは、父なる神様が、最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げて下さったからです。それがクリスマスの出来事だからです。

ご自身に背き、その御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を犠牲にしてくださった。それは愚かな事です。賢くありません。

しかも、そこまでされたからと言って、人間が神様に立ち帰るという保証は何もないのです。

もしかしたら、主イエスがこの世に生まれてくださり、十字架に死んでくださったことが、全く無駄になってしまうかもしれないのです。十字架の死が、無駄死にとなってしまうかもしれないのです。

それなのに、最愛の独り子をこの世に与えるということは、賢くありません。愚かです。

人間同士のことを考えてみてください。自分に逆らい、自分に敵対し、恩を仇で返すような相手に、わざわざ自分の一番大切な物を与える人がいるでしょうか。

そんなことは考えられません。

しかし、神様は、その愚かな行為を、敢えてしてくださったのです。

なぜそこまでされたのでしょうか。

それほどまでに、私たちを愛してくださっているからです。ただそれだけなのです。

クリスマスの出来事。

それは、神様の、この「限りなく尊い愚かさ」が、実現した出来事です。

私たちは、その神様の、限りなく尊く、そして限りなく愚かな行為によって、救われたのです。

ですから、私たちが、最も大切なものを、最も愚な方法で献げることは、正しいのだと聖書は教えているのです。

それが、クリスマスに相応しい、尊い行為なのだ、と言っているのです。

クリスマスは、独り子を与えてくださった神様の恵みに、どう応えていくかを、私たちに問い掛けます。

今日、このクリスマス礼拝の恵みの中で、私たちは、イエス様のご生涯のすべてが、限りなく尊く、また限りなく愚かな、十字架の愛に向っての歩みであったことを、今一度覚えたいと思います。

そして、それぞれの遣わされた場にあって、新たなる献身の思いへと押し出されていきたいと願います。