「ここに愛がある」
2017年06月18日 聖書:ヨハネの手紙一 4:1~12
「ここに愛があります」。10節の御言葉は、そう語り掛けています。心が躍るような、素晴らしい言葉です。「ここに愛がある」。
でも、今、私たちの周りには、「愛」という言葉が、溢れています。歌の歌詞にも、小説の題にも、テレビや映画のタイトルにも、「愛」という言葉が、頻繁に出て来ます。
ですから、何も、「ここにあります」と、わざわざ教えてくれなくても、探すのに、苦労はしないように、思えます。
しかし、御言葉は言うのです。「ここに愛がある」。「ここにこそ、真実の愛がある」。
ということは、ここ以外には、真実の愛はない、ということです。
もし、そうであるなら、聞き流す訳には、いきません。愛はここにしかない、というのです。
それでは、「ここ」とは、一体どこなのでしょうか。ここにしか、真実の愛はない、というなら、それがどこなのか、どうしても知らなくてはなりません。
御言葉は、7節、8節で、その問いに対する、答を語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
真実の愛は、神から出る。愛は、神の内にある。なぜなら、神は、愛そのものだからだ。
御言葉は、そう言っているのです。
今、巷には、愛という言葉が溢れています。でも、実際には、人々は、真実の愛に、飢え渇いています。真実の愛を、切に求めています。誰もが、愛を欲しています。
「愛なんて、必要ない。私は、自分一人で、生きていける」。こんなことを言う人は、余程のへそ曲がりか、偏屈な人です。本当は、誰もが、愛を必要としています。
ところが、「愛は、必要だ。愛は欲しい」、という人も、「神様なんて、必要ない」、と言います。愛は必要だけれども、神様は必要ない、というのです。
しかし、これは、矛盾しています。まことの愛は、神様の内にしか、ないからです。
聖書は、「神は愛です」、と言っています。「愛が欲しいと思うなら、神様を知りなさい。そうしなければ、愛を見出すことはできません」。聖書は、そう教えているのです。
「神は愛です」。この有名な言葉を語ったのは、この手紙を書いた、使徒ヨハネです。
ヨハネは、若い頃は、主イエスから、「雷の子」、と呼ばれていました。
恐らく、直ぐに、カッとなるような、激しい気性の、持ち主であったのだと思います。
しかし、この手紙を書いた、晩年には、口を開けば、「神は愛です」、と繰り返して語る、「愛の人」、となっていました。何故、「雷の子」が、「愛の人」に、なっていったのでしょうか。
ヨハネは、様々な迫害や、困難の中で、ひたすらに、福音を宣べ伝えて、ここまで生きて来ました。他の使徒たちは、皆、殉教の死を、遂げました。しかし、不思議にも、ヨハネ一人が、生きながらえて、主イエスの、十字架と復活を、語り続けて来ました。
その長くて、厳しい、福音宣教の旅路において、ヨハネは、人の思いを、遥かに超える、神様の御業を、何度も体験してきました。
迫害や困難から、奇跡的に救い出される、という体験を、何度も重ねて来ました。
ヨハネは、そのような信仰体験を通して、自分が、いかに無力であるかを、知らされました。
そして、神様の愛の大きさ、神様の愛の尊さを、身をもって、悟っていったのです。
ですから、「神は愛です」、という言葉は、ヨハネの体験から生まれた、信仰告白なのです。
私たちは、この信仰告白を、感謝したいと思います。
もし、ヨハネが、長い信仰の歩みの末に、「神は怒りです」、などという告白に達したなら、私たちには、希望は無かったでしょう。
しかし、ヨハネは、心から、「神は愛です」と言っているのです。まるで、それしか、言葉を知らないかのように、その思いに、満たされているのです。
今までに、何度か、お話ししましたが、新約聖書が書かれている、ギリシア語には、愛を表す、代表的な言葉が、四つあります。
まず、恋愛に見られる愛は、エロース。次に、友人の間の愛は、フィリア。家族の間の愛は、ストルゲー。そして、神様の、人間に対する愛は、アガペー。この四つです。
男女間の愛を表す、エロースの愛。これは多分に、本能的な愛です。
それだけに、激しい愛です。この愛からは、相手を、独占したい、という思いが、生じます。
そして、それが、かなわないと、嫉妬や、恨みに変わるという、危険性を秘めています。
友情を表す、フィリアの愛。この愛は、ちょっとしたきっかけで、なくなることがあります。
相手に失望したり、裏切られたりした時、この愛は、雪が解けるように、消えていきます。
ちょっとした意見の相違で、堅いと思われていた、友情の絆が、簡単にほころびてしまう。
そして、遂には絶交してしまう。そういうことも、よく耳にします。
家族間の愛である、ストルゲー。この愛は、血縁関係によって、裏付けられています。
ですから、とても強い愛です。特に、母の子に対する愛は、とても深いものです。
しかし、自分の子供のように、他人の子も愛せるかというと、それはなかなかできません。
また、家族に対する愛にも、やはり、限界はあります。
これらに対して、神様の、人間に対する愛は、限界のない愛です。無制限、無条件の愛です。たとえ相手が、自分を裏切っても、自分に敵対しても、尚も愛する愛です。
初めの三つの愛、エロースの愛、フィリアの愛、ストルゲーの愛。これらは、ずべて、理由があるから、愛する愛です。
私は、あなたを、エロースの愛で、愛する。なぜなら、あなたが、女性として、或いは男性として、素晴らしいから、魅力的だから。
私は、あなたを、フィリアの愛で、愛する。なぜなら、あなたは、友だちとして、私に良いことをしてくれるから。
私は、あなたを、ストルゲーの愛で、愛する。なぜなら、あなたは、血を分けた家族の一員だから。
これら三つの愛に、共通しているのは、なぜなら、という理由があることです。
私は、あなたを愛する、なぜなら… と続くのです。I love you, because… と続くのです。
ですから、これらの愛は、「だからの愛」、「because の愛」、ということができます。
その理由が、なくなると、愛も消えてしまうのです。これが、私たち、人間の愛です。
それに対して、神様の愛、アガペーの愛は、理由なしに、愛する愛です。
あなたは、私を裏切り、私に敵対し、私を苦しめる。それでも、私は、あなたを愛する。
私は、あなたの、弱さも、汚れも、醜さも、罪の深さも、すべて知っている。それでも、私は、あなたを愛する。これが、アガペーの愛です。言ってみれば、「それでも」の愛です。
「だからの愛」に対する、「それでもの愛」です。「because」の愛に対する、「still」の愛です。
「それでも、私は、あなたを愛する」。「Still, I love you」という愛です。
これを、敢えて、「だからの愛」に、置き換えるならば、「私は、あなたが、あなただから、愛する」、ということになります。「I love you, because you are you」、なのです。
「あなたが、どのような者であっても、私は、あなたが、あなたであるが故に、愛する」、ということです。そのまま、ありのままの、あなたを愛する、というのです。
「だからの愛」は、相手の中に、愛する価値を、探す愛です。愛する価値が、全くないなら、愛することはできません。ですから、この愛は、価値追及の愛、と言われています。
これに対して、「でもの愛」は、愛することによって、相手の人の内に、価値を造り出す愛です。価値創造の愛です。
例えば、千利休が、道端に転がっていた、ただの石ころを、拾い上げて、床の間に飾ったとします。ただの石ころです。
でも、利休が、これを愛して、大切にしていた、ということだけで、その石に価値が生じます。
神様は、私たちのことを、「私の目には、あなたは高価で、尊い。私は、あなたを愛している」、と言ってくださいました。
天地を創造された神様が、私のことを、高価で尊い、と言ってくださり、愛してくださった。
土の塵から、造られた者であるにも拘らず、そう言って、愛してくださった。
ですから、私たち一人ひとりは、高価で、尊い存在と、されているのです。なぜなら、神様が、私たちを、愛してくださっているからです。
そのように、神様の愛は、愛する対象に、価値を生じさせる、価値創造の愛なのです。
それに対して、私たち人間の愛は、価値追及の愛です。これは、自己中心的な愛です。
いや、そんなことはない。世の中には、自分のためではなく、人のために、熱心に尽くす、愛の人が、いるではないか。そう言って、反論される方も、おられるでしょう。
しかし、どんなに志の高い、立派な慈善家であっても、その根底には、自分の思いを、達成したい、という願いが、あるのではないでしょうか。自己実現のために、愛の業をする。
或いは、心の奥底に、私は、こんなに、あなたのために、尽くしているのですよ、という思いがある。もし、そうであるなら、これは、やはり自己中心の愛である、と言えます。
そう考えていきますと、私たちの内には、真実の愛は、ないということが、分かってきます。
私たち人間の内には、真実の愛はない。それなのに、真実の愛を期待すると、傷つく。
だから、人とは、適当な距離をもって、付き合った方が良い。これが、この世を生きる、究極の知恵だ、ということになります。確かに、そうかもしれません。
でも、私たちは、そのような、自己中心的な愛ではなく、真実の愛を求めています。真実の愛を、必要としています。ところが、残念なことに、それは、私たちの内には、ないのです。
しかし、皆さん、聖書は、「ここに愛がある」、と言っています。
「ここに愛がある」。神様の内に、真実の愛がある、というのです。
当然のことですが、愛というものは、一人では持てません。必ず、愛する対象を、必要とします。では神様の、愛の対象とは、誰でしょうか。
それは、今、ここにいる、私たち一人ひとりです。私であり、あなたなのです。
私たち一人ひとりは、神様の、愛の対象として、造られたのです。私たちは、神様の愛を、受け取る存在として、今、ここにいるのです。
私たちが、生かされている目的。それは、何ができるかとか、何を成し遂げたかとか、ではありません。私たち一人ひとりが、この「神様の愛」を、受け取る存在として、今、ここにいる。
そのこと自体が、私たちが、生かされている、目的なのです。
神様は、どうか、この私の愛を、受け取って欲しい、と願われているのです。
神様は、全知全能のお方です。本来は、私たち人間の、助けなど必要とされないお方です。
でも、その神様は、ただ一つのことにおいて、私たちの協力を、必要とされています。
全能の神様が、私たちの助けを、必要としている、ただ一つのこと。それは、この私の愛を、受け取って欲しい、ということなのです。
私たちが、神様の愛に、応答することを、神様は、求めておられるのです。
私たちは、神様の愛に値する、何物も持っていません。それどころか、いつも、神様に、背いています。でも、そんな私たちを、神様は、ただ一方的に、愛してくださいました。
その神様が、私たちに、求めておられるのは、ただ一つだけなのです。
どうか、この私の愛を、受け取って欲しい。このことだけなのです。
では、その神様の愛は、どこに顕れたのでしょうか。10節の御言葉は、言っています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
神様の愛は、御子イエス・キリストの、十字架の贖いにおいて、完全に顕れている、と言っています。神様の愛は、どこにあるのか、などと探す必要はない。
あそこに、あるではないか。あのゴルゴダの十字架に、神様の愛が、完全な形で、顕れているではないか、と言っているのです。
御子なる神様が、人間となって、この世に来てくださり、背き続ける、私たちの罪を、すべて代わって、負ってくださり、私たちの身代わりとなって、十字架に死んでくださった。
あの十字架にこそ、神様の愛が、完全な形で、顕されている。御言葉は、そう言っています。しかし当時、そのことを、信じない人たちがいました。いえ、今も、信じない人たちがいます。
初代教会の人たちは、生ける神の御子が、人となって、この世に来られ、私たちの罪の贖いとなって、十字架に死んでくださり、そして、三日目に復活された、と大胆に語りました。
でも、多くの人たちは、神が、人となって、この世に来られたことを、信じなかったのです。
そんなこと、あり得ない、と言ったのです。
イエスの教えは、素晴らしいと思う。でも、どんなに素晴らしくても、あのナザレの大工の息子が、人となった神だなんて、信じられない、と言ったのです。
「聖なる神が、卑しい肉体を持って、この世に来たというのか。そんなことはあり得ない。
たとえ、目に見える形で、来たとしても、それは、一時的に、肉体をまとっていただけだ。
だから、それは、実体ではなく、幻なのだ。仮の姿なのだ」。
教会の外だけではなくて、教会の中にも、そう言って、人々を惑わす人たちが、いたのです。今朝の御言葉の、1節~6節で、ヨハネは、そのような人たちによって、教会が混乱していることを、心配しています。
そして、「どの霊も信じるのではなく、霊を確かめなさい」、と言っています。
主イエスが、肉体を伴ったお姿で、この世に来てくださった。そのことを、公に言い表さない霊は、「反キリストの霊」である、と言っているのです。
この反キリストの霊は、神から出ていない。しかし、キリストは、人となられた神であることを、正しく告白する霊は、神から出ている。ヨハネは、そう言っています。
聖書には、様々な、主イエスの奇跡が、記されています。病人を癒した。死人を生き返らせた。水の上を歩かれた。五つのパンと2匹の魚だけで、5千人の人々を、満腹にさせた。
どれも、信じられないような、奇跡です。しかし、主イエスがなされた、最大の奇跡。
それは、神であられるお方が、人となって、この世に来てくださった、ということです。
これは、まさに、天と地が、ひっくり返るような、奇跡です。
この奇跡が、信じられるなら、その他の、全ての奇跡は、問題なく、受け入れられます。
キリスト者とは、この驚くべき奇跡を、受け入れ、信じる者のことです。
御言葉は、4節で、こう言っています。
「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」。
キリストが、人となられた、神であることを、正しく告白する者は、神に属する者であるから、この世に打ち勝つことができる、というのです。なぜなら、この正しい信仰に生きる時、主イエスが、私たちの内に、住んでくださるからだ、というのです。
この言葉は、私たちに勇気を与えてくれます。自信を与えてくれます。私たちの内に住んでくださる、主イエスというお方は、どんなものよりも、強いお方だ、というのです。
ですから、たとえ、どんなものが襲ってきても、大丈夫なのです。
私たちは弱くても、私たちの内におられる、主イエスは、強いお方だからです。
先程、ご一緒に賛美した、讃美歌484番、「主われを愛す」、の歌詞の通りです。
ですから、私たちは、最終的には、勝利することが、できるのです。
12節の御言葉は、更に、素晴らしいことを、約束してくれています。
主イエスが、私たち、一人一人の、内にいてくださるだけでなく、私たちが、互いに愛し合う時、神様は、私たちの交わりの中にも、いてくださる、というのです。
この世にあって、人々が、神様を見ることが出来る、唯一の場所。それは、お互いに愛し合っている、教会の中なのだ、と言っているのです。
ある人が、「互いに愛し合おうと思うなら、顔を見つめ合うのではなくて、顔を同じ方向に向けなさい」、と言いました。同じ方向とは、神様の方向に、他なりません。
人を愛そうとする時に、人だけを見ていたら、愛は生まれて来ません。なぜなら、私たちの愛は、欠けているからです。不完全な愛だからです。
しかし、共に、神様の方に、顔を向けていれば、お互いの間に、愛が生まれます。
なぜなら、神は愛だからです。
愛は、神様を礼拝し、神様を愛する生活から、生まれて来ます。
教会は、その愛の交わりを通して、この世において、神様を指し示す務めを、託されているのです。この尊い務めを、しっかりと、果たしていきたいと思います。
茅ヶ崎恵泉教会を訪れた方が、思わず、「ここに愛がある」、と呟くような群れを目指して、共に歩んでまいりたいと思います。