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柏牧師:過去の礼拝説教

「神はすべてをご存知です」

2017年06月11日 聖書:ヨハネの手紙一 3:19~24

私が、かつて、ある銀行の本店に、勤務していた時のことです。

本店の正面入り口には、お客様用の立派なドアーがあり、その脇に、行員が出入りするための、小さな通用口がありました。

そこには、常時警備員が立っていて、行員は、身分証明証を提示しなければ、中に入れませんでした。ある時、その銀行の会長が、その通用口から、入ろうとしました。

普段は、会長室から、地下の駐車場直通の、エレベーターで降りて、待機している車に、さっと乗り込んで、外に出て、帰ってきた時も、駐車場の役員専用のエレベーターから、会長室に直行します。ですから、一般の行員用通用口から、出入りすることは、滅多にありません。

仮に、通用口から出入りするとしても、通常は、お付の秘書が、「この方は会長です」、と説明して、通っていました。

でも、このときは、珍しく、会長は一人で、外から帰ってきました。慣れていない会長は、そのまま通用口を、通り過ぎようとしましたが、警備員に止められて、身分証明証の提示を、求められました。会長が、身分証明証は持っていないけれど、私はこの銀行の会長です、と言いましたが、任務に忠実な警備員は、通してくれません。

会長が困っているところに、私が通りかかりました。会長が、「おい、柏くん、困ったよ。どうにかしてくれよ」、と言うので、私が、「この人は、この銀行の会長さんで、怪しい人ではありません」、と言って、何とか通ることができました。

私は、このことを通して、自分が何物であるか、ということを、信じてもらうのは、なかなか難しいものなのだ、ということを、知りました。

さて、もし、皆さんが、「私はクリスチャンです」、と言ったとき、「あなたが、クリスチャンなんて、信じられません。あなたが、クリスチャンなら、クリスチャンとは、どういう人なのか、説明してください」、と言われたら、皆さんは、どう答えられるでしょうか。

今朝の御言葉は、クリスチャンとは、どういう者であるか、そして、どのような特徴を持っているか、ということを、教えてくれています。

クリスチャンとは、キリストに属する者、或いは、キリストの僕、という意味の言葉です。

この呼び名は、元々は、教会の外の人々が、キリスト者につけた、あだ名です。

教会の信徒たちが、自分たちのことを、そう呼んだのではありません。

初代教会の信徒たちは、何かというと「キリスト、キリスト」、といつも言っていました。

それを見て、周囲の人たちが、半ば呆れて、「あの人たちは、キリストに属する者、キリストの僕だ」、と言ったのが、キリスト者の呼び名になっていったのです。

クリスチャンという英語は、キリストという言葉、英語ではクライストですが、その後に、所属や、特徴を示す、ian(イアン)という語尾がついて、出来ている合成語です。

ミュージックに、ianがついて、ミュージシャン、テクニックに、ianがついて、テクニシャンとなっているように、キリストの後に、ianがついて、クリスチャンとなっているのです。

ある人が、この言葉をもじって、こう言いました。キリストが、先ず初めに来て、その後にianが来る。キリストが第一、そして、ianと続く。このianは 、I am noting 、私は何者でもない、という言葉の頭文字を、表している。

つまり、キリストが第一で、私は何者でもない、と告白するのが、クリスチャンなのだ、というのです。勿論、これは、こじつけですが、なかなか良く出来た、こじつけだと思います。

御言葉を読みましょう。19節、「わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」。「私たちは、真理に属している」、と言っています。

聖書において、真理とは、キリストを意味します。主イエスご自身も、「私は道であり、真理である」、と言われています。

ですから、19節の御言葉は、「わたしたちは自分がキリストに属していることを知り」、と読み替えることが、許されると思います。

御言葉も、クリスチャンとは、キリストに属する者である、と言っているのです。

では、どうすれば、キリストに属する者、となることが、できるのでしょうか。

19節の御言葉は、「これによって」、という言葉で、語り始めています。

「これによって」。明らかに、この言葉は、直前の18節を受けています。

18節の御言葉は、私たちが、「言葉や口先だけでなく、行いをもって、誠実に愛し合う」ことを、勧めています。

もし、私たちが、誠実に愛し合っていくなら、これによって、私たちは、キリストに属する者、とされていく、というのです。

私たちが、キリストに属する者とされるか、それとも、サタンに属する者となるか。

これは、私たちにとって、決定的に重要な事柄です。

もし、私たちが、誠実に愛し合うなら、私たちは、キリストに属する者とされる。

御言葉は、そう言い切っています。なぜ、そんなことが、言えるのでしょうか。

それは、キリストの本質が、愛であるからです。私たちが、誠実な愛に、生きていく時、私たちは、愛そのものである、キリストに属する者とされていく、というのです。

それでは、キリストに属する者となると、何が変わるのでしょうか。クリスチャンの特徴とは、何なのでしょうか。

御言葉は、「神の御前で安心できる」、と言っています。平安が与えられる、というのです。

クリスチャンの特徴の一つは、平安に生きられる、ということだ、と言っているのです。

私が、このように、さらっと言いのけると、恐らく、多くの方が、心の中で、首をかしげて、呟かれると思います。

また牧師は、きれいごとを言っている。建前を言っている。確かに、平安に生きられるのが、クリスチャンの特徴だ、と言われれば、反論はできない。お説ご尤も、と言わざるを得ない。

でも、実際に、自分の心の中を、覗いてみると、平安とは、ほど遠い。

私の心という「海」は、少しでも、苦難という風が、吹き付けると、直ぐに、不安や怒りの大波が生じて、荒れ狂ってしまう。

私は、それほど、弱い者なのだ。いつも、平安に生きている訳ではない。

そうなると、私は、クリスチャン失格なのか。そんな、呟きが、聞こえて来そうです。

でも、そのように、呟く私たちに、20節の御言葉は、語り掛けます。「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」。

この御言葉で、私たちは、ホッとします。神様の御前で、安心できるのは、私たちが、強いからではない。私たちに、罪がないからではない。

私たちは、救われても、尚も、弱い者なのだ。尚も、罪の中にいるのだ。しかし、神様は、そんな私たちの、弱さも罪も、すべてご存知なのだ。御言葉は、そう言っているのです。

聖書を読む時l、私たちは、量り知ることのできない、神様の大きな恵みに、迫られます。

でも、その大きな恵みと、だらしない自分の姿とを比べて、落ち込むことがあります。

そして、自分を、責めてしまいます。

「どうしてお前は、そんなに弱いのか。どうして神様の恵みに、相応しく生きられないのか」。

私たちの心の中には、自分を責める声が、聞こえてきます。

20節の御言葉を、黙想していた時、私の心に、裁判の場面が、浮かんできました。

登場人物は、3人です。私の心が、原告。私自身が被告。そして、神様が、裁判官です。

そして、原告である、私の心が、被告の私を、責めます。

「お前は、どうして、神様の恵みに、相応しく生きられないのか」。

私を責める、その声は、正しいのです。ですから、被告である私は、反論できません。

ただうなだれて、聞いているだけです。

でも、その時、裁判官が言うのです。「私は、被告人の弱さも、罪も、汚れも、全て知っている。被告人が気づいていないことまでも、知っている。でも、私は、被告人を罰しない。被告人を無罪にする。なぜなら、被告人の罪は、全て、私の息子に、肩代わりさせたからだ。」

この裁判官の判決を聞いて、私たちは、初めて、安心することができるのです。

どんなに、心に責められることがあっても、尚も、神様の御前で、安心できるのです。

なぜなら、神様は、私たちの心よりも、遥かに大きいお方だからです。

それなのに、私たちは、私たちの方で、神様のお心を、勝手に、小さなものに、してしまっていることが、多いのです。

私たちの小さな心の中に、神様のお心を、押し込めてしまっていることが、多いのです。

20世紀の偉大な聖書学者、J・B・フィリップスの著書に、「あなたの神は小さすぎる」、という本があります。その本の中で、フィリップスは、こう問い掛けています。

「どうして、ある人にとっての神様は、いつも厳しいだけで、またある人にとっては、裁くだけの神様で、またある人にとっては、ただ優しいだけの神様なのか」。

あなた方は、自分の小さな箱の中に、偉大な神様を、閉じ込めている、というのです。

神様は、私たちの思いを、遥かに超えた愛で、私たちを、捕えていてくださるのに、私たちの方が、限界のある、人間の脳みその中に、神様を押し込んでいる、というのです。

皆さんが、よくご存知の、あの「放蕩息子の譬え」を、想い起こしてください。

放蕩に身を持ち崩して、父親の財産を、すべて浪費してしまった息子も、父親の愛を、小さなものと、思い込んでいました。

ですから、せめて使用人にしてください、と言おうと思って、帰って来たのです。

しかし、息子が、そんなことを言い出す前に、父親は、もう息子を、抱き締めていたのです。息子に、何も言わせずに、ただただ喜んで、受け入れたのです。

私たちは、神様の愛を、自分を基準にして、考えてしまいます。ですから、「あなたの神は小さすぎる」、と言われてしまうのです。

こんな私を救うために、たった一人の御子を、十字架にかけてくださった、神様の愛。

神様は、そこまでしてくださるのです。それほどまでに、神様のお心は、大きいのです。

その神様のお心の大きさを、勝手に小さくして、自分を責めて、苦しんではいけない。

御言葉は、そう言っているのです。

神様は、私たちの弱さも、至らなさも、全部ご承知の上で、尚も、救ってくださったのです。

私たちが、失敗したり、期待を裏切ったり、したからと言って、途中で、切り捨てるようなことは、なさらないお方なのです。

神様は、全てを知っていてくださる。私たちの、弱さや、汚れだけではなくて、私たちの、苦しみも、悲しみも、すべて知っていてくださる。

だからこそ、私たちは、神様の御前で、安心できるのです。平安でいられるのです。

神様が、全てを、知っていてくださる、ということを、なかなか信じられない人がいました。

かつて共産党による、一党独裁政治が行なわれていたチェコ。そのチェコが、民主化された後に、一人の宣教師が、伝道に行きました。

各地で伝道集会を開き、多くの人々の心に、救いのメッセージを届けました。

その宣教師には、政府から派遣された、通訳がつきました。この通訳は、ずっとこの宣教師に同行し、各地を回りました。

ある晩のこと、伝道集会は大成功で、多くの人が、キリストを受け入れる、決心をしました。

伝道集会を終えて、喜びの中にいた宣教師に、その通訳が、厳しい顔をして、言いました。

「先生、私は、あなたの通訳をしながら、ずっと腹が立って、腹が立って、仕方がなかったのです。とりわけ、今日は、最も腹が立ちました。」

「えっ、それは、どうしてですか」、と宣教師が尋ねました。通訳が答えます。

「私の両親は、キリストを信じるクリスチャンでした。そのために、共産党政権によって、激しく弾圧され、獄に入れられ、とうとう二人とも、獄中で死にました。

先生、あなたは、神様は、私たちのことを、何もかもご存知だ、と繰り返して言われました。

でも、幼くして両親を失った私が、どれほど悲しみ、どれほど苦しんだか、絶対に分かる筈がない。神様が、私の悲しみ、苦しみを、すべて分かっているなんて、嘘っぱちだ。

だから、そんなことを、ありがたそうに、語るあなたに、私は、腹が立って、腹が立って、仕方がないのです。」 彼は、吐き捨てるように、そう言いました。

その晩、その通訳の家では、娘さんの誕生日祝いの、パーティーが開かれることになっていました。ですから、彼は、ケーキを買って、家に帰りました。

でも、心の中には、まだ怒りの嵐が、吹き荒れていました。家に帰っても、その怒りは、収まりませんでした。ドアーを開けると、目の前に、主イエスの十字架像がありました。

亡くなった母親が、彼がキリストを信じる者となるように、と願って遺したものでした。

彼は、怒りに任せて、買ってきたケーキを、その十字架像めがけて、投げつけました。

十字架のキリストに、クリームがべったりとつきました。

そして、そのクリームが、主イエスの頭から、顔から、手から、ポタポタと、滴り落ちました。

彼は、その姿を見て、突然、そこに釘付けになりました。

彼の目の前に、十字架につけられた、主イエスのお姿が、浮かんできたのです。

頭からも、顔からも、手からも、血を流しながら、尚も、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか、知らないのです」と叫ぶ、主イエスのお姿が、目に浮かんできたのです。

十字架の主イエスの言葉が、自分のための、執り成しの言葉として、迫ってきたのです。

そうなのだ、私は、自分が何をしているのかさえも、知らないのだ。

でも、イエス様は、私のすべてを、ご存知なのだ。その上で、こんなに頑なな私のために、十字架にかかってくださったのだ。そのことが、初めて分かったのです。

その時、彼の心に、安心が生まれました。それは、生まれて初めて経験する、平安でした。

皆さん、これが、クリスチャンの特徴である、平安に生きるということなのです。

さて、23節に、クリスチャンの特徴が、更に、もう二つ書かれています。

一つは、信じることです。そして、もう一つは、互いに愛し合うことです。

この二つは、クリスチャンの特徴というより、教会の二本柱です。教会の基盤です。

これが崩れると、教会は、教会でなくなってしまいます。

教会は、信じる者の群れであり、愛し合う者の群れなのです。

御言葉は、「イエス・キリストの名を信じ」、と言っています。名を信じるとは、この人の名前は、イエスだということを、信じるということではありません。

ここでの「名」とは、「本質」を表わしています。主イエスの本質。それは、「愛」です。

ですから、「イエス・キリストの名を信じる」とは、主イエスを通して示された、神様の愛を信じる、ということです。十字架に示された、愛の御業、救いの御業を、信じるということです。

そして、その愛の御業が、この私にために、なされたことを、信じたなら、今度は、私たちが、互いに愛し合うのです。

主イエスは、このことを、最も大切な教えとして、遺言として残されました。

ヨハネによる福音書13章34節で、主イエスは、こう言われました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

信じることと、愛すること。この二つは、教会にとって、最も大切なことです。

そして、それは、一人ひとりのキリスト者にとっても、同じです。

信じることと、愛すること。この二つは、クリスチャンに与えられた、大切な仕事なのです。

「仕事」、と聞いて、思い出す詩があります。人生最後の1年余りを、この茅ケ崎で過ごした、クリスチャン詩人、八木重吉の「仕事」という題の、短い詩です。

仕事  八木重吉:

『信ずること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし出来るかぎり愛すること/それを私の一番よい仕事としたい』

29歳の若さで、この世を去った八木重吉は、23節の御言葉に生きることを、何よりも願って生きた人でした。

『信ずること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし出来るかぎり愛すること/それを私の一番よい仕事としたい』

私たちも、この詩にあるように、キリストを信じることと、人を愛することを、最も大切な仕事として、生きていきたいと、願わされます。

クリスチャンとは、キリストが第一、私は何者でもありません、と告白する者のことです。

すべてをご存知の、神様の御前で、平安に生き、キリストを信じ、キリストの愛をもって、お互いに愛し合うことを、最も大切な、仕事として、生きる者のことです。

キリストに属する者には、そのように生きることが、求められているのです。

いえ、そのように生きることが、許されているのです。