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過去の礼拝説教

「キリストを愛する香り」

2013年06月16日 聖書:マルコによる福音書 14:3~9

先ほど、マルコによる福音書の14章3節から9節までを読んでいただきました。

この箇所は、有名な「ナルドの香油」の物語です。

この出来事が起ったのは、主イエスが、十字架に架かられた金曜日の、二日前の水曜日の夜のことでした。

その日、主イエスが泊まられたのは、重い皮膚病の人シモンの家でした。

恐らくこれは、かつて重い皮膚病の人であった、という意味だろうと思います。

その病を、主イエスによって癒された人だったのでしょう。

当時、ユダヤでは、重い皮膚病に罹った人は、「神に捨てられた人」であるとされ、厳しい差別と、偏見の中に置かれていました。

病が治ったといっても、恐らくシモンは、かつて「神に捨てられた人」であったという差別と偏見の中に、その後も、ずっと置かれ続けていたことだろうと思います。

主イエスは、そのように人々から差別され、阻害されていた人の家で、地上での最後の静かな夜を過ごされたのです。

最後の最後まで、阻害され、差別されている人と、共にいようとされたのです。

このシモンの家で、主イエスが食事をしておられた時に、突然、一人の婦人がやって来て、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を壊して、その香油を主イエスの頭に注ぎかけました。

この突然の出来事に、誰もが驚いてただ呆然と見ていました。

男性優位の社会で、しかも当時、神聖とされていた食事の場所に、突然、女性が許しも無く入り込んできて、主イエスの頭に、極めて高価な香油の、壺一杯分全部を注ぎかけたのです。誰もが驚きました。非常識な行為、愚かな行為であると、皆が思いました。

確かに、この婦人のしたことは、非常識で、理解に苦しむようなことでした。

しかし、そこには、押さえ難い愛の爆発がありました。

暫くして、その異常な出来事から我に帰った人たちが、この婦人に憤慨して言いました。

「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

1デナリオンというのは、当時の労働者の一日分の給与に相当するお金です。ですから、三百デナリオンは、労働者の一年間の収入に、ほぼ匹敵する額のお金になります。

それだけのお金があるなら、それを貧しい人のために用いた方が良いではないか、と言ってこの婦人を厳しくとがめたのです。

この批判は、人間的に見れば、正論のように聞こえます。まことにもっともな意見であると思われます。しかし、ここから、様々な議論が生じてきます。

教会は、貧しい人への愛の実践をすることを第一とすべきで、礼拝や、伝道や、教会堂のためにお金を使うことは、主イエスの愛の教えに沿っていない。

教会にパイプオルガンを入れるお金があるなら、それを慈善の業に使ったほうが良い。

そのような意見が、現代の教会においても語られ、しばしばそれが正論となります。

しかし、そのような正論を持ち出す時、私たちは、信仰者の心にある、神様へのひたすらな愛の思いを、正しく読み取ることが、できなくなっているのではないでしょうか。

藤木正三という牧師がこんな言葉を語っています。「正論とは、道理は通っているが人間に届いていないせっかちさです。反対に、道理は通っていないが人間に届いているゆるやかさ、それを愛と言います」。これは、まさに名言だと思います。

愛とは、時として、道理を超えた、なりふりかまわない行動へと私たちを押し出すものなのです。そして、それが人の心に届き、人を動かすのです。

考えてみれば、そもそも、慈善の業をすることと、神様を愛することを、二者択一のように考えること自体が、既に間違っているのです。

そのような議論を、この聖書の箇所から導き出すこと自体が意味がないのです。

神様を信じる者は、慈善行為をしなければならない。この考え方が、間違っている訳ではありません。

しかし、それがいつの間にか、慈善行為をすれば、神様を愛したことになる、というようにすり替えられてしまうことがあります。

神を愛する者は、人をも愛する。これは真理です。しかし、そこから一歩ずれてしまうと、人を愛しさえすれば、神を愛したことになる、という考えに陥っていく危険性があります。

そうしていく内に、礼拝や祈りの大切さが次第に薄れていって、信仰そのものが人道主義・ヒューマニズムに置き換えられてしまう。

そのようなことが、現代の教会においても、現実に起こっているのです。

もともと、私たち人間は、他人を心から愛するような真実な愛など、持ち合わせていないのです。しかし、そのような私たちを、まず神様が愛してくださり、私たちの罪を一方的に赦してくださいました。

その神様の愛に応えて、神様を愛するようになった時に、私たちは、初めて真実に人を愛する歩みの第一歩を、踏み出すことができるのです。

神様の愛で満たされ、その愛が溢れ出る時にのみ、私たちは、真実に人を愛することができるのです。

そのように、神様を愛することを知った人は、貧しい人が傍らにいた時に、「私は、あなたのことは知らない。神様に皆あげてしまったから、あなたにあげるものは、もう残っていない」、などということは言えない筈です。

神様に愛されている人は、同じように神様の愛の対象である、貧しい人を愛さずにはいられない筈なのです。

マザー・テレサは、路上に倒れている人の中に、キリストのお姿を見て、「オー、病めるキリスト」と言って、ひたすら愛を注ぎました。

彼女の中では、神様を愛する事と、貧しい人を愛する事は、一つの事であったのです。

マザー・テレサが、たった一人で、カルカッタの町の、何十万、何百万という貧しい人々のために献身しようとした時、多くの人がそれに反対しました。

もっと他に、賢い方法がある筈だ。一人でやるなど非常識だ、愚かなことだ、と言って止めさせようとしました。しかし、マザー・テレサは、そうせざるを得なかったのです。

何としてでも、主イエスの愛に応えたかったのです。

ナルドの香油を注いだ婦人も同様です。それが、賢いことか、愚かなことか。常識的か、非常識か。そのようなことは考えなかったのです。

主イエスの愛に応えて、できる限りのことをしたい。そのような、ひたむきな思いをもって、夢中で香油を注いだのです。

パウル・ティリッヒという神学者が、この婦人について、このように述べています。

「この女の浪費は計算が成り立たない、勘定ずくでない愛である。もともと計算ずくで、人を愛する愛は、愛ではない」。

信仰の世界は、なりふり構ってはいられないのです。この婦人は、それが、賢いか、愚かか、などという計算はしなかったのです。

しかし、この婦人のしたことを、主イエスは最大級の言葉をもってお褒めになりました。

「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

主イエスは、この婦人が、主イエスに対して、「良いことをしてくれたのだ」と言われました。この「良いこと」という言葉は、しばしば「美しいこと」と訳されます。実際に、そう訳している翻訳もあります。この婦人のしたことを、主イエスは、美しいことだと、言われたのです。

単なる慈善とは違って、美しいのです。なぜ、美しいのでしょうか。

この婦人は、主イエスを心から愛していました。人は、自分の愛する人のことについては、敏感に感じるものです。その心を感じ取ることが出来るものです。

彼女が、主イエスの死の意味を、どれだけ深く理解していたかは、分かりません。

しかし、主イエスが歩まれようとしている十字架への道筋を、彼女は、その心の中に漠然としてですが感じ取っていたに違いありません。

宗教改革者カルヴァンは、こう言っています。「この婦人は、御霊の息吹に導かれて、キリストへの義務を果たさない訳にはいかなくなったのだ」。美しい言葉です。

この婦人は、十字架へと向われる主イエスの、悲しみ、苦しみを、その鋭い感性で、感じ取っていました。ここに愛がある。愛そのものがある、という事を感じ取っていたのです。

そして、その思いは、自分が持っている最も高価なものを注ぎだすことによってしか、表すことができなかったのです。そこには、ひたむきな献身の美しさがありました。

主イエスは、この婦人の行為の中に、限りない美しさを見ておられました。

そして、弟子たちにも、この美しさが見えるようになることを、求められたのです。

更に、主イエスは、語られました。

「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

この時、主イエスが十字架に架かられるということを、弟子たちでさえも誰一人、現実のこととして受け止めていませんでした。

しかし、この婦人だけがそれを感じ取って、葬りのための用意をしたのです。

主イエスの御生涯は、初めから終りまで、十字架を目指して歩まれた御生涯でした。

人間は、何かをなすために生まれてくるものですが、初めから死ぬことを目的として生まれてきた人は、後にも先にも主イエスただお一人です。

私たちの救いのために、主イエスが十字架に架かってくださることが、絶対に必要であったのです。それ以外に、人間が救われる道はなかったのです。

この婦人は、主イエスの中に、このことを感じ取っていました。

主イエスが、十字架の死をもって救いをもたらそうとされた。その愛の業に、自分の業を重ねることができた人がいた。たった一人でも、そのような人がいた。

このことは大きな慰めです。

しかも、弟子たちではなく、この名もない婦人が、そのことをしたのです。

後になって、弟子たちが、主イエスの十字架と復活の証人として、礼拝で説教するたびに、彼らは自らを恥じながら、この婦人のしたことを話しただろうと思います。

しかし、また同時に、その恥ずかしい思いに勝って、弟子たちは、大きな喜びをもって、この婦人のことを語ったことだろうと、思うのです。

あの婦人が、私たちが非難したにも拘わらず、立ち往生して、困惑しながらも、香油を注ぎ切ってくれた。

そのことを、後になって、本当に深い感謝をもって思い起こしたに違いありません。

私たちが考えもしなかったことを、非難されながらも、やり遂げてくれた人がいた。

私たちに代わって、やり遂げてくれた人がいた。

弟子たちは、思い起こすたびに、その婦人に感謝したことであろうと思います。

主イエスは、そのことをも、既にご存知でした。

ですから、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と、ここで言っておられるのです。

一人の名も無い婦人が、高価な香油を、全部ぶちまけてしまうような、愚かなこと、異様なことをした。しかし、そのことが、主イエスの十字架の福音に、全く相応しいこととして、世界中で語り伝えられる、と主イエスは、言われました。なぜでしょうか。

それは、主イエスのなさったこともまた、同じように愚かなこと異様なことであったからです。パウロも言っているように、十字架の言葉は、世の人にとっては愚かなのです。

すべてを支配されておられる神が、御自分に背き続ける人間を、その命を犠牲にしてまで、救おうとされる。そんなことは、ばかげた話です。

そんな人間は滅ぼしてしまえば良いのです。なのに、命を懸けてまで救おうとされる。それは愚かな事です。

しかし、その愚かな出来事の中に、限りない主の愛を感じ取った婦人は、もはや、なりふり構わず、愚かと言われることをも省みず、自分が献げることが出来る最高のものを、惜しげもなく献げたのです。

そして、主は、それを受け入れられ、喜ばれたのです。

アナトール・フランスという、20世紀前半に活躍したフランスの小説家の、「聖母の曲芸師」という小説があります。主人公は、バルナベという貧しい一人の曲芸師です。

彼は、六個の玉や、十二本の出刃包丁を操って、曲芸をして人々を喜ばせていました。 貧しかったけれども、信仰深く、正直に生きていました。そんなバルナベの素直さに感動した修道院の院長が、バルナベを修道院に招きました。

修道院では僧侶たちが、難しい神学書を書いたり、美しい讃美歌を作ったり、聖書の物語を清らかな絵に描いたりしていました。

そのような僧侶たちの姿を見て、バルナベは自分の無学さを嘆きました。

「ああ!神様。 私は愛するあなた様のために、何もすることが出来ないのです。同僚たちのような才能を持っていないのです。ああ! 私は粗野で、無能な男なのです。

私は、何も出来ないのです。ああ!」
バルナベは、次第に落ち込み、涙に暮れる日々を過ごしました。

ところが、ある日、彼は御堂の方に駈けて行って、その中で一人で一時間あまりも過ごしました。 そして夕食のあと、また御堂に入っていきました。

その時から、バルナベは、誰も御堂にいない時を見計らっては、御堂に入り、長い時間を、そこで過ごすようになります。 彼はもう泣くことも嘆くこともなくなりました。
僧侶たちは、どうしてバルナベが毎日、あんなに頻繁に御堂に入り、そこで長い時間を過ごすのか、不思議に思い始めます。 一体彼は何をしているのか。

そこで、院長と二人の長老が、バルナベが御堂で何をしているのかを覗きにいきました。 そして、彼らが、そこで見たものは、聖母マリアの像の前で、逆立ちをして、六個の玉と十二本の出刃包丁をもって、一心に曲芸をしているバルナベの姿でした。

二人の長老は、「バルナベは神を冒涜している」と叫びます。

院長は、バルナベが無垢な心を持っていることを知っていました。しかし、バルナベが御堂で曲芸をしている様子を見て、彼は頭がおかしくなってしまったのだ、と思いました。

三人は、バルナベを引きずり出そうと、御堂に入っていきます。

するとそのとき、彼等は見たのです。聖母マリアが祭壇の階段を静かに降りてきて、水色の上着の袖で、バルナベの額の汗を優しく拭ってくださるのを。

その姿をみて、院長は床にひれ伏して言いました。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

二人の長老たちも、同じように床にひれ伏して言いました。「アーメン」。

バルナベは、自分にできる最高のものを聖母マリアに献げたのです。

そして聖母マリアもまた、それを喜んで受け入れ、ベルナベを祝福しました。

聖母の像の前で、曲芸をしても意味がない。愚かなことである。

そのように言ってしまえば、それまでです。しかし、それなら、主イエスの頭に、高価な香油を注ぐことだって、同じことであると言えます。

同じように、ばかばかしいことであるかもしれません。

しかし、自分の出来る限りを尽くして主イエスを愛すということ。

それは、たとえ、人にはどんなに愚かしく見えても、ばかばかしいことではありません。

主は、そのような愛を必ずお喜びになると信じます。

私たちも、自分の持っている最良のものを、主に献げていきたいと思います。

たとえ、人から見て、愚かしいものであっても、「イエス様、これが私の持っている、最良のものです」、と言って献げていく者でありたいと願います。

主は、それを、「美しいね」と言って、ほめてくださると信じます。