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過去の礼拝説教

「注がれる愛」

2014年02月16日 聖書:エレミヤ書 31:1~3、31:20

終戦直後、中国東北部に、多くの日本人の子供たちが残留孤児として残されました。

これから、中国大陸を歩いて南下し、何とか引き上げ船まで辿り着ければ日本に帰れる。

しかし、その旅は恐らく地獄のような困難の連続だろう。

大人であっても、耐えられないような苦しみが、待ち構えていることは分かっている。

まして、幼い子どもにはとても無理だろう。もし、連れて行けば、皆が共倒れになってしまうかもしれない。

そう思った多くの親が、身を引き裂かれるような思いで、幼い子どもたちを現地に残して、旅立ったのです。

そんな中に、ある4人の家族がいました。両親は、少しは体力のある息子だけを連れて帰り、娘を置き去りにしていきました。そうせざるを得なかったのです。

ところが、娘は幸いにも、現地の日本人に拾われ、数ヵ月後に帰国し、夢にまで見た我が家に辿り着くことが出来たのです。その時のことを振り返って、彼女はこう言っています。

「青ざめて言葉にならなかった母の顔を今でも忘れない。やっと遭えた嬉し涙を、私は遂に流すことが出来なかった」。

彼女は、幼少期、思春期を通じて、ずっと親を憎み続けて過ごしました。

娘を捨てた母。その時は、確かに已むを得なかったのかもしれません。しかし、捨てられた娘の気持ちとしては、仕方がなかったと言って済ませることなど出来ません。

親を憎み、さげすむ気持ちから解放されないままに、彼女は苦しみました。

勿論、親も、彼女以上に苦しんだと思います。

取り返しのつかないことをしてしまった。娘に何を言われても、返す言葉もないのです。

どうすれば、赦してもらえるか、苦悶する日々が続いたと思います。

自ら招いたこととはいえ、本当に辛い、苦しい日々が続いたと思います。

さて、イスラエルの人たちにも、同じように辛い、苦しい経験がありました。

もっとも、イスラエルの人たちが味わったのは、娘を捨てた苦しみはなくて、神様を捨てた苦しみでした。

イスラエルは、神様から特別に選ばれ、宝の民とされた民族でした。神様は、イスラエルの人たちに約束されました。「もし、あなた方が、私を唯一の神として、心を尽くして仕えるならば、私は、あなた方を祝福し、幾千代にも亘って繁栄をもたらそう。」

イスラエルの人たちは、この神様の約束を信じて、この約束に従って生きるべきでした。

たとえ目の前の現実が、どんなに困難な様相を呈していても、この神様の約束を信じて、そこにしっかりと立ち続けるべきだったのです。しかし、彼らはそうしませんでした。

ダビデ王、ソロモン王の時代に、空前の繁栄を遂げたイスラエルでしたが、ソロモン王の死後、王国は分裂し、北と南に分かれてしまいます。

そして、北王国も、南王国も、生き残るために周辺の国々の様々な宗教を取り入れるという過ちを犯しました。

主なる神様から離れ、様々な異教の神々に頼る過ちを犯したのです。

神様は、そのようなイスラエルの国をご覧になって、どんなに悲しまれたことでしょうか。

あなたたちを、エジプトの奴隷の家から救い出したのは、この私ではないか。

荒れ野で、食べ物がないときに、天からマナを降らせ、岩から水を出して、あなた方を養ったのは、この私ではないか。あなた方をこのカナンの地に導き、住まわせたのは、この私ではないか。あなた方は、その事を忘れてはいない筈だ。

それなのに、なぜあなた方は、他の神々に頼ろうとするのか。なぜ、私に信頼しないのか。

神様は、悲痛な叫びをもって、イスラエルの民に何度も語り掛けました。

しかし、神様のこの悲痛な叫びにも拘らず、イスラエルの民は、神様を裏切る罪を犯し続けたのです。

先ほど、エレミヤ書の御言葉を読んでいただきました。

エレミヤが預言者として活躍したのは、紀元前7世紀の終わりごろから、6世紀の初めごろまでの約40年間だと言われています。

その頃、既に、北王国は、アッシリアに滅ぼされていました。残った南のユダ王国も、新たに起こった超大国バビロニアの圧迫を受けて、まさに風前の灯といった有様でした。

そういう中で、エレミヤは、エルサレムの陥落、南王国ユダの滅亡を預言するようにと、神様から命じられます。

自分の民族の滅亡を預言することは、辛いことです。誰も、そんなことを語りたくありません。しかし、神様は、それを預言するように、エレミヤに命じられたのです。

イスラエルの罪は、もうどうにもならないほどに深刻になっていたのです。

ですから、神様は、イスラエルを裁かざるを得ない。

裁きは必ず来る、ということをエレミヤは預言しなければならなかったのです。

「敵に降伏すべきだ」、さもなければ、「エルサレムは必ず廃墟となる」、そして「ユダ王国は必ず滅ぼされる」。

エレミヤは、このような預言を神様から託され、その通りに語りました。

当然、人々は、そんな言葉は聞きたくありません。エレミヤに対して激しく怒りました。

エレミヤは、売国奴として非難され、しばしば生命の危険にさらされました。

しかし、エレミヤは、どんなに人々が嫌がろうと、どんなに人々から嫌われようと、神様から託された言葉を、語らない訳にはいかなかったのです。

自分の民族の滅亡を預言し、そのために人々から怒りを受け、生命の危険にもさらされる。

そのような重くて、辛い使命に、エレミヤは何度も涙したことでしょう。

ですから、エレミヤは、「涙の預言者」と呼ばれています。

エレミヤ書は、1章からずっと神様の怒りと、裁きについて語っています。

イスラエルの罪を指摘し、それに対する神様の怒りと裁きについて語り、それだからこそ、主に立ち帰るべきだと、繰り返して語っています。

しかし、30章、そして特に今日読みました31章に入りますと、突然のようにガラッとトーンが変わっています。大転換が起こっているのです。

今までの裁きの言葉が消えて、慰めに満ちた愛のメッセージが、語られているのです。

この31章は、エレミヤ書のクライマックスとも言える箇所です。いえ、エレミヤ書だけではなくて、旧約聖書全体のクライマックスである、とも言うことができます。

愛と慰めのメッセージは、31章の最初から語られていますが、特に3節に、真に心に響く言葉が語られています。

「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。」

遠くから主は現れた、と語られています。これは、ユダ王国の主だった人たちが、既にこの時、捕囚として、バビロンに連れて行かれていたことを示しています。

バビロンに連れて行かれた人たちのところに、主が、遠く離れたエルサレムの神殿から、わざわざ来てくださったというのです。

そして、「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」と語りかけてくださったのです。慰めに満ちた、素晴らしい御言葉です。

しかし、よく考えてみますと、少し変ではないでしょうか。

神様の裁きの結果として、人々はバビロンに捕囚として連れてこられたのです。

すべては、神様のなさったことの筈です。

それなのに、遠く離れたその人たちのところに、わざわざ行って、「とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」、と語られているのです。

そんなことをなさるなら、初めから滅ぼさなければよかったのに、という思いがしないでもありません。

ご自分で裁きを下しておいて、今度は慰めと愛を語る。矛盾しているように思われます。

しかし、そこに、まさに、そこにこそ、神様の限りない愛と、その愛ゆえの苦しみがあるのです。それが、もっとはっきり語られているのが、同じ31章の20節です。

「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。」

エフライムと言うのは、イスラエルの別の呼び方です。

この20節で、神様は、イスラエルの民を、かけがえのない息子、喜びを与えてくれる子であると言っています。

そして、そのかけがえのない息子であるイスラエルを退けるたびに、神様は一層深く、イスラエルのことを御心に留められる、と言うのです。

罪を犯し続けるイスラエルを、裁かなければいけない。

しかし、裁けば裁くほど、イスラエルに対する思いは更に深まる、というのです。

そして、「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」と言われています。

ここで、「胸は高鳴り」、と訳された言葉に、注目したいと思います。

「胸は高鳴り」、と聞きますと、何か良いことの為に、胸がどきどきするような状態を、思い浮かべますが、どうもここではそうではないようです。

ヘブライ語の原語は「ハーマー」という言葉ですが、この言葉は、「音を出す」とか、「響く」と言う意味の言葉です。胸が音を出す、とはどういうことでしょうか。

宗教改革者のマルティン・ルターは、この箇所をドイツ語に訳していますが、それをそのまま英語に直訳しますと、「my heart is broken」 となります。

「私の心臓は張り裂けた」と訳しているのです。これは、明らかに喜びに胸が高鳴っている、というような状態ではありません。

悲しみ、苦しみに、胸が張り裂けるように、きりきりと痛む。そのような状態を表している言葉です。日本語で、一番それに近いのは戦前の文語訳聖書です。

そこでは、「わがはらわた痛む」と訳されていました。

また、新改訳聖書では、「わたしのはらわたは、彼のためにわななき」、と訳しています。

裁きを行う神様ご自身が、そのことのために、はらわたを痛めておられる。

はらわたが、わななくほどに苦しんでおられる。

裁かれる者ではなく、裁く神様の方にもっと大きな痛みがある、と言っているのです。

この訳に従って、20節を言い換えてみます。

「イスラエルよ、お前は私のかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子なのだ。

その愛する子であるお前が、罪を犯して、私に背き、私から離れている。

あぁ、私は、そんなお前を裁かざるを得ない。

しかし、裁くたびに、私のお前に対する思いは、ますます深まっていく。

お前のために、私の心は張り裂けるばかりに痛む。

私は、お前を憐れまずにはいられない。」

これは、主なる神様のイスラエルに対する、なりふり構わないラブコールです。

そして、これはまた、私たち一人一人に対して、今、語りかけてくださっている、神様のラブコールでもあります。

神様は、罪を犯して、裁きを受けなければならない、弱い私たちを、どうしても見捨てておくことが出来ないお方なのです。

神様は、私たちに、いえ、あなたに、このように語ってくださっています。

「あなたは、私のかけがえのない子です。喜びを与えてくれる子なのです。

でも、そのあなたは、私の愛から離れて、罪の中にいる。

私は、そんなあなたを裁かざるを得ない。

でも、あなたを裁こうとすればするほど、私のあなたへの思いは深まっていく。

あなたのことを思うと、私の心は、張り裂けるほどに痛む。

あなたのことを、憐れまずにはいられないからです。」

神様は、私たち一人一人に、このように語りかけておられます。

そして、その心の痛みを、実際に引き受けてくださいました。

それが、主イエスの十字架です。主イエスの十字架は、裁かなければいけない者を、赦すために、神様が負ってくださった痛みなのです。

まさに、あの十字架において、神様の御心は、張り裂けるばかりに痛まれたのです。

しかし、その神様の痛みのゆえに、私たちの罪は、赦されたのです。

十字架とは、神様の愛が、ご自身の裁きを克服した場所です。

神様が、ご自身の怒りを克服した、究極の愛が、顕わにされた場所です。

私たちは、このような激しい愛によって、滅びから救われたのです。

初めにお話した、中国残留孤児の話を、思い起こしてください。

捨てた娘が帰ってくる。その時、親は、全く語るべき言葉を持っていません。

どんな言い訳も役に立ちません。

しかし、そこで、もし娘に、「お母さん大丈夫よ。気にしないで。私、今でもお母さんを愛しているわ。お母さんもわたしを抱きしめて」、と言われたらどうでしょう。

エレミヤ書31章20節で、イスラエルの民は、神様からそう言われたのです。

そう言われて、神様に抱きしめられたのです。

どうしてあなたを見捨てることが出来ようか。そう言って、抱きしめられたのです。

恵みが圧倒しているのです。そして、その同じ恵みが、今、私たち一人一人に迫っているのです。

カトリック作家の遠藤周作の、晩年の作品に「深い河」という小説があります。

この小説の中に、大津という一人の学生が出てきます。

生真面目なクリスチャンで、今どき珍しく学生服を着て、放課後はチャペルでお祈りをする、ちょっと変わった男でした。

このうだつの上がらない大津という男を、悪い友達が何とかしてからかおうとします。

悪い友達は、美津子というお金持ちで、美人で、人気者の女子大生に、大津のことを誘惑して、からかうように勧めます。

美津子は、初めのうちは気が進まなかったのですが、大津が、あまりに真面目なので、何とかして、その真面目さを引き剥がしてみたい、という誘惑に駆られます。

そこで、ある時、大津を飲み会に誘います。

大津も、はじめて飲み会に誘われたので、酒が飲めないにも拘らず、参加します。

その飲み会で、美津子は大津に迫ります。「本当に神なんか棄てたら。棄てるって約束するまで酒飲ませるから。棄てるんだったら、これ以上飲むのを許してあげます」。

「さぁ、どっちを選ぶの。飲むの、やめるの」、そう言って美津子は大津に迫ります。

大津は、飲めない酒を懸命になって飲みますが、とうとう気持ちが悪くなって、トイレに駆け込んでしまいます。

出てきた大津が水を飲もうとすると、美津子が「水でなくて酒を飲みなさい。それでなければさっきの約束どおり、神なんか棄てなさい」と、なおも迫ります。

もう飲めない、神を棄てざるを得ない。そんな状況で大津が泣きそうな声で言います。

「でも……」。「でも、何よ」

「僕が神を棄てようとしても…神は僕を棄てないのです」

「僕が神を棄てようとしても…神は僕を棄てない」

この言葉こそ、今日の御言葉エレミヤ書31章20節が、私たちに伝えたかった神の恵みです。「僕が神を棄てようとしても…神は僕を棄てない」

いえ、神様は、私たちを棄てることができないのです。

それ程までに、私たちに対する神様の愛は深いのです。

それ故に、神様は苦しまれるのです。

はらわたが痛み、わななくような苦しみを味わってくださるのです。

十字架の恵み。それは、私たちのことを棄てることができない、神様の心の痛みです。

その痛みの故に、私たちは罪赦され、永遠の命の恵みに与れるのです。

私たちは、ただその恵みを「ありがとうございます」、と言って受け取るだけでいいのです。

ただ受け取るだけで救われる。そんなうまい話はあり得ない、と思われるかもしれません。

しかし、本当に大切な物は、お金で買うことが出来ません。

主イエスの救いの恵みは、私たちが、何かをしたからといって、手に入れられるようなものではありません。

もし値段をつけようとするなら、それは、とてつもなく高価なものなのです。

その高価な恵みが、私たちに、ただで、無条件で、無制限に与えられているのです。

ですから、何かをしなくてはいけないのではないか、などと思う必要はありません。

問題は、私たちが、その恵みを受け取るかどうかなのです。

主イエスは、私たちの人格を無視して、無理やり押し入ろうとはなさいません。

ただ戸の外に立って、「わたしの愛する子よ。どうか、わたしをあなたの心の中に迎え入れてください」、と戸を叩き続けておられます。

私たちが、心を開いてお迎えするなら、主イエスは私たちの心の中に来てくださり、新しい命を注いでくださいます。

この主イエスを、心にお迎えして、愛と希望に満ちた人生を、共に歩ませていただこうではありませんか。