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過去の礼拝説教

「主イエスの昇天」

2013年05月05日 聖書:使徒言行録1:6~11

今週の木曜日、5月9日は主イエスの昇天日です。主イエスは復活されてから、度々弟子たちに復活のお姿を現され、弟子たちに神の国の奥義について教えられました。

そして、この地上における使命をすべて為し終えて、復活されてから40日後に天に帰られました。

主イエスのこの世における御業は、その誕生に始まり、昇天によって完成したのです。

クリスマスが、主イエスの地上における御業の始まりの日であるならば、昇天日はその完成の日です。

一般的に私たちは、この昇天日をあまり重視しない傾向にあります。

しかし、始まりの日が大切であるならば、完成の日も同じくらい大切である、ということができるのではないでしょうか。

今朝は、この昇天日の意味について、ご一緒に御言葉から聴いてまいりたいと思います。

先ほど使徒言行録の1章6節から11節までを読んでいただきました。

その少し前の1章4節には、40日目の日に、つまり主イエスが天に帰られる日に、主イエスが弟子たちに「エルサレムを離れず、父なる神の約束である、聖霊が授けられるのを待ちなさい」と命じられたことが記されています。

主イエスは、あなた方に約束されている聖霊が与えられるから、それを待ちなさい、と最後に言われたのです。

この「待つ」ということは、キリスト教信仰の大切な特徴の一つであると思います。

旧約聖書の詩編を見ますと、「私の魂は沈黙してただ神を待ち望む」とか、「わたしはあなたを一日中待ち望んでいるのです」、というような言葉がたくさん出てきます。

イザヤ書にも、「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼を張ってのぼる」という有名な御言葉があります。

また、新約聖書の最後も、「マラナタ、主よ、来たりませ」という、主を待ち望む言葉で締め括られています。

このように、キリスト教とは「待ち望む宗教」である、と言ってもよいと思います。

「待つ」と言いますと、何もしないでただ待っている、という消極的な言葉として受け止められがちです。

しかし、聖書において「待つ」ということは、そのような消極的な意味ではありません。

神様の約束を待つということは、必ずそれが実現するということを信じて、望みをもって備えていく、という積極的な生き方なのです。

私たちは、神様の約束を、どれほど確かなものと信じて、望みをもって待っているでしょうか。主の約束は必ず実現すると、どれほど堅く信じているでしょうか。

今一度、自らに問い掛けてみたいと思います。

主イエスは、「父の約束されたものを待ちなさい」と言われました。父なる神様が約束された聖霊の力に覆われる時、あなた方は神の国の奥義を理解できるようになる。

その時、私の十字架の意味が初めて本当に分かる。そして、私がもたらす救いを、自分のものとすることができる。主イエスは、そう言われたのです。

しかし、このお言葉を受けた後、弟子たちは6節で、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねています。

弟子たちは、聖霊が授けられると聞いて、自分たちの人間的な願いがもうすぐ叶えられると勘違いしてしまいます。

ですから弟子たちは、イスラエル国家の再興は近いのですか、と主イエスに尋ねました。

40日間に亘って、主イエスから、神の国について教えられていたにも拘わらず、未だ弟子たちは神の国について、誤った理解を持っていました。

彼らにとって神の国とは、イスラエルの独立、ダビデ王朝の再建を意味していました。

そして、聖霊が下る時、それが実現すると考えたのです。

しかし、主イエスは、弟子たちの思い込みに満ちた問いを、全面的に否定もされず、また、彼らが最も知りたがっている「いつ」についても明らかにされませんでした。

なぜなら、弟子たちが知りたがっていた「いつ」とは、神の国が完成する終末の時であり、それは父なる神様の領域に属することだからです。

ですから、主イエスは、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と、言われました。

弟子たちが抱いていた、ダビデ王国再建への甘い期待を主イエスは退けられました。

代って主イエスは「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける」と言われました。

ダビデ王国再建などという思いを捨てて、聖霊による力を受けなさい。

その力を受けて、あなた方に委ねられた使命を果たしなさい、と言われたのです。

その使命とは、「エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、キリストの証人となる」ということです。と

主イエスは、神の国の宣教という大切な使命を、このように、鈍くて、信仰も薄い弟子たちに委ねられました。

そのような弟子たちを用いて、神の国の宣教という、最も大切で、尊いご計画を進められようとされたのです。

この弟子たちの姿は、私たちの姿と重なります。私たちも同じように鈍く、信仰薄い者です。神の国の宣教という、光栄ある使命に相応しい者ではありません。

しかし、この尊い使命は、弟子たちに託され、更に代々の教会に引き継がれています。

教会に連なる私たち一人ひとりに、引き継がれているのです。

主は、このように欠けの多い私たちを敢えて選ばれ、用いてくださいます。

だからこそ、私たちには、聖霊の力が必要なのです。聖霊の力なくしては、この務めを果たすことは出来ないのです。欠け多き教会が、聖霊の力を頂いて宣教の業に用いられていること。これは、本当に大きな恵みであり、栄誉です。

私たちは聖日礼拝毎に使徒信条を唱えています。その中に、「(我は)聖なる公同の教会(を信ず)」とあります。この言葉によって、私たちは一体何を告白しているのでしょうか。

教会を信じる、とはどういうことでしょうか。

教会は人間の集まりです。ですから、教会それ自体が信仰の対象となる訳ではありません。「教会を信じる」とは、この地上の教会という目に見える存在を通して、聖霊の御業がなされていく、ということを信じるという意味です。

教会は聖霊が働かれる場です。どんなに立派な会堂を持っていて、どんなに多くの教会員がいたとしても、そこに聖霊の御業がなされていないなら、それは教会とは言えません。

主イエスは、教会に聖霊を与えられるために、弟子たちから離れ、天に帰られたのです。

主イエスの昇天なしには、教会に聖霊の力は与えられず、聖霊が与えられなければ、宣教の業も進まなかったのです。

弱く、信仰の薄い私たちを、主は敢えて選ばれ、宣教の御業をなす器として用いようとしておられるのです。ですからそれは、私たちに与えられた大きな恵みなのです。

もし、私たちがこの恵みに応答していかなければ、主のご計画は進みません。そして、主イエスの十字架は無駄になってしまいます。

数年前に、ある集会でアメリカから来た宣教師が語った、「天国でのエピソード」という譬え話はとても印象的でした。それは、天国での主イエスと、天使との会話です。

主イエスと天使との質的相違を表すために、天使の言葉は敢えて関西弁でお話します。

ある日、天国で散歩をしていたイエス様は天使と会います。「イヤー、イエス様、随分久しぶりでんなー。チイーとお顔みんかったけど、どこ行かはれてました。」

「実は、地上に行っていたのだよ。」「へー、あの汚らわしい地上に。そりゃまー、物好きなことで。ほいで、何しに行かはったんだす。」

「すべての人間を救うために行ったのだよ。」「へー、あの罪深い人間のすべてを救うため。そりゃまー、えろうしんどい話でんな。でも、さすがイエス様でんな。こんな短い間に、すべての人間を救って来られたんだすか。」

「いや、それは出来なかった。」「はー、そうでしょうな。いくらイエス様でも、すべての人間を救うことは、そう簡単ではございませんでっしゃろ。ほいで、諦めて帰ってこられたん?」

「いや、私は決して諦めてはいないよ。」

「へー、それではどないしはりますの?」

「私は、弟子たちを残してきた。弟子たちにその使命を託してきたのだよ。」

「へー、お弟子さんたちにねー。でも、もし、そのお弟子さんたちが、イエス様のご命令を実行せんでしたら、どないしはります?」 主イエスは静かに言われました。

「その時には、もう他に方法はないのだよ。」 このような譬え話でした。

主イエスは、弟子たちに、そして、それに続く教会に福音宣教の全権を委任されたのです。他に選択肢は持っておられないのです。あなた方にすべてを委ねると言われているのです。従って、伝道とは、してもしなくても良いというものではありません。主イエスは、「あなた方は、聖霊の力を受け、地の果てに至るまで、私の証人となる」と言われました。

この言葉は、未来形です。ギリシア語の未来形は命令の意味を含んでいます。

ですからこの言葉は、「地の果てまで、私の証人となりなさい」というご命令です。

それ故、キリスト者は、人が耳を傾けようと、傾けまいと、全世界の人々に福音を宣べ伝えなければなりません。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても、悪くても励みなさい」とある通りです。

では、私たちは何を伝えるのでしょうか。主は、「私の証人となる」と言われました。「証人」とは事実を証する人のことです。私たちは事実を伝えるのです。

主イエスの十字架と復活の事実を伝えるのです。そして、また、主イエスによって救われた、自分自身に起こった出来事を伝えるのです。

「事実を事実として伝える」ことは、一見易しそうですが、時には命を賭けなければならない時もあります。

特に、「ローマ皇帝は主である」と宣言することを強制されている時代に、「イエスは主である」と証言することは命懸けの行為でした。

もともと「証し」とか「証人」を意味する言葉であった「マルテュリア」というギリシア語は、その後「殉教」をも意味する言葉になっていきました。

「証人」となることは、「殉教」を覚悟しなければならないような状況がそこにあったのです。

現代においても、伝道に命を賭けている宣教師の先生方がおられます。

かつては、エスキモーといわれていた人々のことを、現在はイヌイットと呼びますが、カナダのイヌイットへ伝道のために北極圏へ出かけて行かれた宣教師が多くおられました。

その中に、日本人の婦人宣教師がいました。鈴木教子(のりこ)と言う先生です。

先生が67歳になられたとき、所属する教団は、ご高齢を理由に引退を強く勧めましたが、鈴木宣教師は、「それでは教団の支援なしに、一人で行きます」と言って、再び極寒の地に単身で赴任されました。まさに、命懸けの伝道です。

このイヌイット伝道を最初に始めた一人の宣教師の物語を読んだことがあります。

その宣教師が赴任して数年経った時、その地方にひどい飢饉がありました。

現地の人々は、その宣教師のところにやってきてこう言いました。

「こんなに魚や鯨が取れなくなったのは、お前がやって来て外国の神を伝えようとしているからだ。それで、この土地の神様が怒って、魚を下さらないのだ。お前の神に魚や鯨が取れるように祈れ。もし、それでも取れなかったら、そんな神を伝えたお前が悪いのだから、お前を崖から突き落として、この土地の神様への生贄にする。」

こう言って、彼らは、次に来るまでの時間を区切って帰っていきました。この宣教師は、必死になって祈りましたが、魚は取れませんでした。

とうとう期限の日が来て、彼らはその宣教師を崖に連れて行き、そこから突き落としました。そして、彼らが宣教師の死体を捜しに崖の下まで降りてみると、そこに巨大な鯨が一頭、打ち上げられていたそうです。彼らは、その鯨の骨で十字架を作り、こぞって洗礼を受け、クリスチャンになったということです。

『殉教者の血は教会の種子である』と言う言葉がありますが、まさにその通りです。

伝道の難かしさ。主イエスは、それを知っておられたからこそ、「自分の力に頼らず、聖霊の力を得るまでエルサレムに留まっていなさい」と言われたのです。

聖霊の力を得なければ、「誰もイエスは主です」と告白できないからです。

さて、聖霊が弟子たちに降るために必要なことがありました。それは、主イエスの昇天です。ヨハネによる福音書16章7節にはこのように書かれています。

『しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなた方のためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。』

ここで、弁護者といわれているのは、聖霊のことです。聖霊を送るために、主イエスは弟子たちから離れ、去って行かなければならなかったのです。

そして、父なる神の御許から、約束された聖霊を弟子たちに送られたのです。

主イエスの昇天なしには、聖霊の力は与えられず、聖霊が与えられなければ、宣教も進まなかったのです。

主イエスは、教会を見捨てたのでもなく、教会から取り去られたのでもありません。

教会に力を与えるために天に昇られたのです。

10節に「イエスが離れ去って行かれるとき」とありますから、それは、ある意味では別離である、と言うことができるでしょう。

しかし、それはただの別離ではありませんでした。そのことは、ルカによる福音書で、主の昇天の後、弟子たちが「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあることでも分かります。

別離の嘆きや悲しみは記されていないのです。主の昇天は、悲しみの別離ではなく、大きな喜びの出来事だったのです。

主イエスは、天に昇り、父なる神様の右におられ、「見える形」ではなく、「見えない形で」私たちを守っていて下さいます。天に昇られたことで、「いつでも」そして「どこででも」、私たちと共にいてくださるお方になられたのです。

「天に昇られた」ことで、主イエスは「世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるお方」になられたのです。

弟子たちは、主イエスが昇って行かれた天を見ていました。すると、二人の天使がそばに立って、弟子たちに話しかけました。

「イエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」。

この言葉は、どういう意味でしょうか。同じ有様とは、どのような有様なのでしょうか。

9節には「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と書かれています。

旧約聖書でも、新約聖書でも、雲は神のご臨在の徴しとされています。もっと具体的に言えば、神の栄光と力を表しています。

「雲に覆われて見えなくなった」という表現は、新約聖書ではこの箇所と、主イエスの「山上の変容」の場面だけに出てきます。

山上の変容でも雲は、栄光と力の表現として用いられています。そうしますと、9節の御言葉は、主イエスが栄光と力に包まれて、天に昇られた、と語っていることになります。

それならば、「同じ有様で、またおいでになる」とは、栄光と力に満ち溢れて、またおいでになられる、という意味だと解釈することができます。そうかもしれません。

しかし、私は、このことを黙想していました時に、もう一つのことを示されました。

使徒言行録とルカによる福音書は、同じ著者、「医者ルカ」によって書かれています。

この二つの書物は、ワンセットの書ですので、重ね合わせて読むことによって、より深い意味を読み取ることができます。

ルカによる福音書の24章にも、主イエスの昇天の記事が記されています。

その中の、51節はこのように語っています。

『そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた』。

この御言葉を覚えつつ、「同じ有様で、またおいでになる」主のお姿を心に描き出してみると、どうでしょうか。

再びおいでになられる主イエスは、私たちを「祝福しながら」おいでになられるのではないでしょうか。

「再臨の主は、私たちを祝福されるために来てくださる」。そのことを示された時、私の心に、言いようのない喜びが湧き上がり、大きな恵みに包まれたことを覚えています。

主イエスの昇天。それは、悲しい別離ではなく、教会に力を与えるためでした。

そして主は、私たちを祝福するために再び来てくださる。この約束を信じつつ、主の証人としての使命を果たしていくお互いでありたいと思います。