「平和の主と共に歩もう」
2017年02月26日 聖書:ヨハネによる福音書14章25~31節
いつ頃からでしょうか、クリスチャンの手紙やメールの、挨拶として、「主の平和」、という言葉が、使われだしました。
手紙やメールにおける、クリスチャンの挨拶は、「主の聖名を賛美いたします」で始まり、「主にあって」で終る。これが定番でした。今でも、これが、最も多く使われていると思います。
しかし、最近、これに加えて、「主の平和」、という言葉を、使う人が増えてきました。
この言葉は、始めの挨拶として、使われることもあれば、結びの言葉として、使われることもあります。
この「主の平和」、という挨拶の、聖書的な根拠となっているのが、27節の御言葉です。
『わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな』。
これは、主イエスが、訣別説教の中で、語られた言葉です。この世を去るに当たって、主イエスは、弟子たちに、形見分けのように、何かを残して、行かれようとされました。
一体、主イエスは、弟子たちに、何を残そうと、されたのでしょうか。
主イエスの、形見分け。それは、物ではなく、「平和」でした。
主イエスは、平和を残していく、と言われたのです。私は、あなた方に、平和を与える、と約束されたのです。では、主が与える平和とは、どのような平和なのでしょうか。
国と国とが、戦争をせずに、仲よくする、ということでしょうか。国内の治安が、保たれている、ということでしょうか。或いは、家庭が円満である、ということでしょうか。
家族が、和やかに食事をし、柔らかいベッドで、寝ることができる、ということでしょうか。
それが、主イエスが、与えられる、平和なのでしょうか。
勿論、最終的には、それらが実現するのですが、主イエスが、ここで言われている平和。
ここで、主イエスが、一人一人に約束されている、「主の平和」というのは、それらとは、意味が違うようです。
この後、主イエスに、送り出されて、弟子たちは、福音宣教のために、出て行きました。
しかし、弟子たちの誰一人として、家族団欒の食事を楽しみ、柔らかいベッドで寝る、というような平和を、知ることはなかったと思います。
弟子たちは、旅から旅を続け、海を越え、山を越えて、困難に耐え、迫害され、獄に入れられ、辱められ、そして、その多くは、殉教の死を、遂げたのです。
しかし、その弟子たちに、主イエスは、言われています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない」。
これは、約束です。主の平和が、必ず与えられるという、約束です。
ですから、弟子たちにも、「主の平和」が、与えられた筈なのです。
皆さん、私たちは、無意識のうちに、主イエスが、ここで、約束してくださっている、平和について、錯覚しては、いないでしょうか。
困難や、試練に遭って、心が騒ぐ時、なぜ神様は、平和を与えて、くださらないのだろうか。
そのように、呟くことは、無いでしょうか。いつの間にか、主イエスが、約束された平和と、この世が一般的に言う平和を、混同していることは、ないでしょうか。
そして、教会は、この世の平和を、与えてくれない、と失望していることは、ないでしょうか。
誤解しないで、頂きたいのですが、この世の平和を求めることが、悪いと言っているのではありません。勿論、この世の平和を、求めて良いのです。求めるのが自然なのです。
でも、大切なことは、主イエスの、与えてくださる平和を、先ず求める、ということなのです。
主イエスの、与えてくださる平和を、第一に求めることを忘れて、この世の平和のみを、必死になって、追い求めてしまう。そういうことが、ないようにしなさい、ということです。
主イエスの平和。それは、この世が与えるような、ものではありません。
これさえあれば、もう何も要らない、という満ち足りた平和なのです。そんな平和は、主イエスしか、与えることができません。
それは、主イエスが、共にいることによる平和です。どんな時にも、主イエスが、共にいてくださる、ということによって、与えられる平和なのです。
「わたしは、あなたを、決して、みなしごにはしない」。この御言葉が、生み出す平和です。
私たちを、極みまで、愛し抜いてくださった、主の愛から生まれる平和です。
更に、それは、罪から解放された、喜びがもたらす平和です。
ですから、それは、主イエスの、十字架によってしか、実現することのない平和なのです。
この時、弟子たちには、そのことが、分かりませんでした。主イエスが、去って行かれることへの、不安と恐れで、心が騒ぎ、おびえていたからです。
その弟子たちに、「主の平和」が、与えられたのは、聖霊が注がれた時でした。
ペンテコステの日に、弟子たちに、聖霊が下ったとき、弟子たちは、主イエスの十字架の意味を、初めて、理解することができたのです。
あの十字架は、主イエスを裏切って逃げた、私たちを、赦すためのものであった。
あの十字架の上にこそ、無条件の愛、無制限の愛が、余すところなく、示されている。
その愛によって、私たちの、背きの罪は、赦されているのだ。
赦されているという、喜びがもたらす平和。それが、弟子たちを、恐れや不安から、解き放ち、立ち上がらせたのです。罪の赦しとは、それほど大きな、喜びをもたらすものなのです。
ある牧師が、アメリカの墓地を、訪ねた時のことです。きれいに並んだ墓石には、故人を偲んで、短い言葉が、様々に刻まれていました。
その多くは、故人が歩んだ人生を、一言で言い表すような、言葉でした。
「彼は、家族を愛し、人々を愛して生きた」、とか「彼は、神と人から愛された」、というような、言葉が刻まれていました。
その牧師は、それらの墓標を、一つ一つ眺めながら、そこに眠っている人のことを、あれこれと想像しながら、歩いていました。
しかし、ある墓標の前に立った時、それを、じっと眺めて、佇んでしまいました。
そこには、たった一言、「赦された!」、英語で「Forgiven!」、と大きく刻まれていたのです。
あぁ、きっとこの人の人生は、「赦された」、という喜びによって、支えられていたのだろう。
自分人生を、一言で言い表すなら、それは赦された喜びに、生かされた人生であった。
だから、それを墓標にと、願ったのだろう。その牧師は、そう思ったそうです。
「赦された」、ということは、それほど大きな喜びを、与えてくれます。
それは、私たちに、まことの平安を、与えてくれます。どんなに、恵まれた環境にいても、誰かから、赦されていない、という思いが、心の奥底にあるなら、まことの平安はありません。
作家の三浦綾子さんが、子どもの頃、友達の女の子と喧嘩して、その子を泣かせてしまいました。「あァ、悪いことをした」、と思った綾子さんは、「ごめんね、赦して」、と謝りました。
でも、その子は、「いや、赦してあげない」、と言って、泣きながら、行ってしまいました。
綾子さんは、その後、毎日、重苦しい思いで、過ごしました。
「自分は赦されていない」。この思いが、ずっと心の底に、ずっしりと、残っていたからです。
何日か経って、その子と会った時、綾子さんは、思い切って尋ねました。
「ねぇ、私のこと、まだ怒っている。まだ赦してくれない」。すると、その子は、明るく、「怒ってないよ。赦してあげる」、と言いました。
その時、綾子さんは、全身から、力がスーと抜けるような、開放感を感じたそうです。
その時の嬉しさは、大人になってからも、ずっと忘れることがないほど、大きなものであったそうです。赦される、ということは、それほど、嬉しいことなのです。
逆に言えば、赦されないままでいる、ということは、それほど辛いことなのです。
赦されていない時には、まことの平安はありません。
主イエスは、弟子たちの、そして私たちの罪を、どこまでも赦してくださいます。
そういうお方として、主イエスは、私たちに、ご自身の「平和」を、与えてくださるのです。
それは、罪の赦しがもたらす、心の平和です。ですから、世が与える平和とは、全く違うのです。この世は、罪に対して、根本的な解決を、与えることが出来ません。
よく、修業や善行によって、罪が償えるかのように、教える宗教があります。
しかし、そのようなことからは、真の平安も、喜びも生まれません。罪を解決しないまま、いくら修業を積み、善行を施しても、それは一時的な、逃避にしか過ぎません。
千円の盗みをして、後で、一万円の寄付をすれば、盗みの罪は、帳消しになるでしょうか。
たとえ、10倍、100倍の寄付をしたとしても、千円を盗んだ、という罪は無くなりません。
なぜなら、罪とは、相手が「赦す」と、言ってくれない限り、消えないからです。
主イエスの十字架によって、自分の罪が赦され、神様との間に、平和が造り出される。
すると、同じように、罪を赦されている、お互い同士として、人と人との間にも、平和が造り出されます。それが、まことの平和です。
この世が作り出す平和。それは、力による平和です。強い力が、弱い力を、抑え付けることによって、保たれている平和です。或いは、また、力の均衡の上に、辛うじて、保たれている平和です。均衡が破れれば、直ぐにでも崩れ去るような、一時的なものです。
しかし、主イエスの平和は、力による平和ではありません。
それは、愛と赦しによる、平和です。お互いが、主に足を洗って頂いた者同士として、足を洗い合うことによる、平和です。
この時、弟子たちの心には、自分は、主イエスを、裏切るのではないか、という思いが秘められていました。どこまで主イエスに、ついて行けるのかという、不安と恐れがありました。
主イエスは、弟子たちの、そんな心の内を、ご存じの上で、尚も弱い弟子たちをも受け入れ、彼らを、この上なく、愛し抜かれたのです。
この主イエスの、愛と赦しに、生かされた者同士として、お互いに愛し合い、赦し合う。
これが、主イエスが、与えてくださる平和です。
主イエスは、弟子たちが、この平和に、生きることを、心から願っておられました。
ですから、復活された主イエスが、弟子たちに、真っ先に語られたのも、「あなた方に平和があるように」、という言葉でした。
20章19節~21節の御言葉は、こう語っています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように』」。
復活の主が、弟子たちに、語られた、第一声。それは、「あなたがたに平和があるように」、というお言葉でした。
あなた方の、罪は、私の十字架によって、もう赦されている。あなた方は、赦されているのだ。だから、私が与える、平和を受けなさい。復活の主は、そう言われたのです。
復活の主が、先ず、仰ったのは、宣教命令でもなく、教会を立てあげなさい、という指示でも、ありませんでした。
まして、弟子たちの、裏切りに対する、非難の言葉、などではありませんでした。
弟子たちが、主イエスの与える、平和に生きて欲しい、という願いであったのです。
この主イエスに、拠りすがっていく時に、私たちの心の内に、平和が実現します。
私が知っている牧師は、持病を持っていました。それは、かなり、深刻な病でした。
ところが、この牧師は、一向に、それを気にすることなく、毎日、飛び歩いて、伝道・牧会に、専念していました。見るに見かねた信徒が、「先生、もっと、ご自分の体を、心配してください」、と苦言を呈しました。
すると、その牧師は、「心配すれば、病気が治るなら、いくらでも心配します。でも、心配しても、何にも変わらないのなら、心配することは、無駄なことです」。
そう言って、「主にすがる我に 悩みはなし 十字架の御許に 荷を降ろせば♪」、と明るく歌っていました。この牧師の内には、「主の平和」が、見事に証しされていました。
この平和なくしては、私たちは、信仰者として、生きていくことが出来ません。
私たちは、この平和をいただくために、礼拝に来ます。ですから、寒さの中でも、これだけの方が、ここに集まるのです。ここで、主が、平和を与えてくださるからです。
主イエスの、お言葉は、尚も続きます。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」。
もう、あなた方と、語る時間は、あまり残されていない。世の支配者が来るからだ。
しかし、彼は、私をどうすることもできない。
世の支配者とは、ここでは、サタンを指しています。でも、サタンは、主イエスに、何もできないのです。主イエスに、手を出すことは、できないのです。
なぜかと言えば、主イエスのお心の中には、父なる神様がおられ、それでいっぱいになっているからです。父なる神様の御心で、満たされているからです。
サタンの付け入る隙も、サタンの居場所もないのです。
私たちも、サタンが、私たちの心に住み、私たちの心を、支配しようとした時、「申し訳ありませんが、もう一杯なのです。あなたの居場所は、どこにもありません」、と言えるような者でありたいと願います。
27節に、「心を騒がせるな、おびえるな」という言葉があります。この時、おびえていたのは、十字架に向かわれる、主イエスでは、ありませんでした。
弟子たちの中に、恐れや不安が、あったのです。主イエスが、捕らえられる。主イエスとの、別れが来る。弟子たちは、そのような恐れを、漠然と感じていました。
そのような弟子たちに、「さあ一緒に出て行こう」、と主イエスは、呼び掛けられました。
私たちにも、信仰生活を続けて行く中で、様々な恐れや、不安があります。
そのような思いを、抱えながら、私たちは、毎聖日の礼拝に出席します。
そして、そこで、主の御言葉を聴き、御言葉に励まされて、再び、それぞれが置かれている場へと、遣わされていきます。
礼拝において、私たちは、「さあ、立て、ここから出かけよう」、という主イエスの、お言葉を聞きます。このお言葉によって、それぞれの場へと、送り出されるのです。
礼拝の終わりに、「祝梼」が祈られます。この祝梼は、祝福を求める、祈りであると同時に、「派遣の言葉」でもあります。
礼拝を献げた人たちが、この世の中に、遣わされて行く。その派遣の言葉です。
祝梼において、牧師は、祝福を祈ります。そして、同時に、「主イエスが、共に行かれるから、安心して行きなさい」、という思いを込めて、皆さんを、送り出します。
主イエスが、皆さんと一緒に、行ってくださいます。主イエスは、ここに残られて、「さあ、皆、しっかりやって来なさい」、と見送ってくださるのではないのです。
そうではなくて、共に行ってくださるのです。
ですから、どうか安心して、行って下さい。そういう思いを込めて、牧師は、祝梼を祈ります。
しかし、今回、この箇所を黙想していて、思わされました。
「そうではない。主イエスが、共に行かれるのではなくて、主イエスが、先立って、行ってくださるのだ。私たちは、その後をついて、礼拝の場から、この世に出て行くのだ」。
そうなのです。私たちが歩む道に、主イエスが、ついて来てくださるのではないのです。
主イエスが、先立って、行ってくださるのです。私たちは、その後を、ついていくのです。
「さあ、立て、ここから出かけよう」と、主イエスが呼び掛けてくださり、先立って行ってくださるのです。
主イエスは、私たちが、礼拝において、暫しの平安を、得るだけではなくて、この世に、出て行くことをも、求めておられます。
しかし、私たちが、出て行く先には、戦いがあります。恐れや不安があります。
主イエスは、そのことも、よく知っていてくださいます。
ですから、主イエスが、先立って、行ってくださるのです。私たちは、その主に励まされ、その主の後について、出て行くのです。
主イエスしか、与えることのできない、平和の内を、歩んで行くのです。
愛する兄弟姉妹。この朝も、恵みに押し出されて、平和の主の後に従って、出て行きましょう。この世に、主の平和を、証しするために、ご一緒に、手を取り合いながら、励まし合いながら、出てまいりましょう。
主イエスは、今朝も言われています。「さあ、立て。ここから出かけよう」。