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柏牧師:過去の礼拝説教

「赦せない者を赦す愛」

2016年12月11日 聖書:コロサイの信徒への手紙 3:12~17

アドベントクランツの、3本目のロウソク、「喜び」のロウソクに、火が灯されました。

「喜び」、で想い起すのは、昨年、この会堂で、3組の結婚式が、執り行われたことです。

この会堂以外の会場でも、1組ありました。ですから、昨年は、全部で、4組の結婚式の、司式をさせて頂きました。

これは、最近では、珍しいことで、教会も、私自身も、大きな喜びに満たされました。

私は、この4組の結婚式において、同じ聖書の御言葉を、読ませていただきました。

そして、その御言葉を、忘れることなく、しっかりと握り締めて、これからの結婚生活を歩んでください、と心を込めて、語らせていただきました。

今朝、この礼拝にも、昨年、この会堂で、結婚式を挙げられた方が、出席しておられます。

よもや、忘れては、おられないと思いますので、どこの聖書箇所だったか、ここで質問しても良いのですが、たまたま思い出せない、ということもあり得ますので、そういう意地悪な質問は差し控えます。

結婚式では、聖書を3ヶ所読ませて頂きました。その中でも、最も多くの時間を用いて、語らせて頂いたのは、今朝の御言葉、コロサイの信徒への手紙3章12節~15節です。

『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。』

結婚しておられる方は、今朝、改めて、この御言葉を、聴き直して頂きたいと思います。

いえ、結婚されている方、だけではありません。家庭生活、社会生活、そして教会生活を営んでいる、私たち全てが、この御言葉を、改めて、聴き直すことが、必要なのです。

ここには、私たちが、幸いな人生を、生きる秘訣が、凝縮して、語られています。

夫婦の間は勿論のこと、すべての人間関係において、最も大切なことが、語られています。

12節は、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」と語り出しています。

パウロは、手紙の中で、いつも、神様の恵みが、まず先にある、ということを語っています。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」。この恵みが、既に、与えられている。

だから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」、と言っているのです。

ここに、「御霊の実」、ともいうべき、五つの徳目が、述べられています。

神様が、私たちを選んでくださり、聖めてくださり、愛してくださっている。

その恵みに、心から感謝し、本当に生かされる時、私たちの内に、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という、御霊の実が、実ることになる。御言葉は、そう言っているのです。

頑張って、努力して、これらの御霊の実を、獲得しなさい、と言っているのではありません。

本当に、恵みに迫られた時、このような、御霊の実が、あなた方の内に、実ることになる、というのです。

ここに、「寛容」という言葉が、出て来ます。「寛容」と聞くと、私たちは、「心が広い」、という意味だと、考えます。

コリントの信徒への手紙一の13章。いわゆる「愛の賛歌」、と呼ばれる箇所でも、この「寛容」という言葉が、出てきます。そこで、パウロはこう言っています。

「山を移すほどの信仰があっても、もし愛がなければ、無に等しい」。

私たちに、山を移すような、信仰があっても、もし愛がなかったなら、何にもならない。

また、もし私たちが、自分の体を、焼かれるために、渡したとしても、そこに愛がなかったならば、無益なのだ、とも言っています。

そう語った後に、「愛は寛容であり、愛は情け深い」、と続けています。

山を移すような、偉大な愛。自分を犠牲にするような、尊い愛。そのような愛とは、何よりも、寛容な生き方において、示される、と言っているのです。

このことから、聖書が言っている、寛容とは、ただ心が広い、ということではない、ということが分ります。もともとの言葉は、二つの言葉が、結び合って、できている言葉です。

「長い道」という言葉と、「苦しみを受ける」という言葉。この二つが、結び合って、できている言葉なのです。ですから、これは、ただ心が広い、ということだけではなく、長い苦しみに耐える、という意味を、含んでいる、言葉なのです。寛容とは、長い苦しみに、耐えること。

自分に敵対するような人、或いは、あらぬ中傷や、攻撃を加えてくるような人に対しても、長い期間に亘って、耐え忍ぶ。それが、「寛容」という言葉の、本当の意味なのです。

そのように、まことの意味で、寛容であるということ。

それが、一番求められるのは、最も身近なところで、一緒に生活をしている人との、関係においてではないかと思います。

たまたま出会った人に、一度だけ、心を広く持つ、ということではないのです。

いつも身近にいて、不快な思いを、与える人に対して、長く耐えていく。それが、聖書が語る、寛容なのです。一時だけのことではないのです。

ですから、これは、家庭生活、社会生活、或いは教会生活という、日常のただ中で、示して行くべきものなのです。

いったい、そのような寛容が、私たちの中に、あるのでしょうか。そういう寛容を、自分自身で、造り出すことが、できるでしょうか。

御言葉は、「寛容を身に着けなさい」、と勧めています。

この「身に着ける」という言葉は、先週ご一緒に読みました、10節にもありました。

そこでは、「新しい人を身につけなさい」、と言っています。

寛容は、私たちの中に、もともとあるのではなくて、身に着けるものなのです。

新しい人を着るように、外から着るものなのだと、御言葉は言っているのです。

このことは、私たちにとって、とても大きな慰めではないでしょうか。

無いものねだりを、されることぐらい、辛いことはありません。自分にないものを、「出せ、出せ」、といわれても、私たちは、出すことができません。

そうではなくて、寛容を身につけなさい、それを着なさい、と御言葉は、言っているのです。

寛容だけではありません。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和。それらは、皆、私たち人間の、中にあるものではなくて、神様のものなのです。

私たちは、それらを、着ることが許されている。いや既に着せられている、というのです。

もし、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を、自分で、造り出しなさい、と言われたなら、私たちは、この言葉に、耐えることができません。

でも、本来、神様のものである、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を、私たちは、もう既に、着せられている、と御言葉は言っているのです。

言い換えれば、それは、主イエスを、着せられている、ということです。主イエスは、憐れみ、慈しみ、謙遜、柔和、寛容、そのものだからです。その主イエスを、この身に、覆っている。

新しくされた私たちは、新しい衣を着せられた。主イエスという、新しい衣を、着たのです。

私たちの、古い、汚れた衣と、主イエスの聖い、真っ白な衣とを、交換したのです。

私たちの、汚れ切った衣を、主イエスが引き取ってくださり、代わりに、主イエスの、聖い、真っ白な衣を、私たちが、着させて頂いたのです。

何とも、都合のいい話です。私たちにとっては、うますぎる話です。

でも、そんなうまい話が、あり得ないような、都合のいい話が、実際に起こったのです。一体、どこで、起こったのでしょうか。あのカルバリの丘の、十字架において、起こったのです。

あの十字架において、私たちの、汚れた衣が、主イエスに着せられ、代わって、主イエスの、聖い、真っ白な衣が、私たちに、かけられたのです。

これを着るが良い。この私の衣を、ぜひ着ておくれ。お前の、汚れた衣は、私が引き取ろう。

この交換を成し遂げるために、私は、ここで、私の命を、献げよう。ここで、私の体を引き裂き、血を流そう。それが、この交換の対価なのだ。主イエスは、そう言ってくださったのです。

私たちにとって、こんなうまい話は、ありません。主イエスにとって、こんな、損な話はありません。でも、皆さん、それが、実際に起こったのです。

私たちのために、主イエスが、それを為してくださったのです。

私たちが、愛されている者、聖なる者とされている、ということは、そういうことです。

私たちは、主イエスという衣を、着せていただいたのです。汚れた、灰色の私たちを、聖い、真っ白な衣が、覆い包んだのです。

その衣から、主イエスの愛が、主イエスの思いが、ジワーっと、染み込んできます。

主イエスの憐れみ、慈しみ、謙遜、柔和、寛容。それらが、私たちに、ジワーっと、染み込んでくるのです。灰色の私たちを、聖い、真っ白な衣が、覆っているからです。

そうであるなら、その衣に相応しく、私たちも、少しでも、白くなりたい、と願わないでしょうか。少しずつでも、外側の衣に、近づきたいと、願うのではないでしょうか。

そこから、私たちの歩みが始まります。上に着せられた、主イエスの憐れみ、慈しみ、謙遜、柔和、寛容が、少しずつ、体に染み込んで、少しずつ変えられていく。その歩みが、始まるのです。

そのような、歩みへと、一歩踏み出した、私たちに対して、御言葉は語ります。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」。

御言葉は、互いに赦し合いなさい、と言っています。しかも、相手に責めるべきことが、あったとしても、赦しなさい、と勧めています。

先程の、まことの寛容に生きなさい、長く耐え忍びなさい、ということ。それを超えて、更に一歩先に、進んでいます。

たとえ相手に、明らかに、責めるべきことが、あったとしても、赦しなさい、というのです。

でも、ただ闇雲に、「赦しなさい」、と言っているので、ありません。私たちには、赦す根拠があるのです。いえ、赦さなければならない、根拠があるのです。

その根拠とは、「主があなたがたを赦してくださった」、ということです。

先ず、主が、あなたがたを、赦してくださった。背き続けるあなた方を、主が命懸けで、赦してくださったではないか。

あなた方は、もう既に、赦されている。あの十字架において、赦されている。

だから、そのように、あなた方も、赦し合いなさい。相手に、責めるべきことが、あったとしても、赦しなさい。御言葉は、そう言っているのです。

そのような生き方は、世間的に見れば、「損な生き方」、「お人好し」な生き方である、と見られます。しかし、御言葉は言うのです。

「あなた方は、敢えて、お人好しでいなさい。損と思われるような、生き方をしなさい」。

なぜなら、あなた方は、キリストによって、無条件に、無制限に、赦されているのだから。

背き続けるあなた方のために、キリストは十字架にかかってくださって、あなた方の罪を、代って負って、くださったではないか。

そんな、桁外れのお人好しによって、あなた方は、赦されているのです。しかも、その大きな恵みを、“ただ”で頂いているのです。だからあなた方は、とんでもなく得をしているのです。

その様な者として、「赦しに生きる」という、損な生き方を、してご覧なさい。それでも尚、有り余るほどの、お釣りが来る筈だ。御言葉は、そう言っているのです。

皆さん、主の赦しがあってこそ、私たちは、赦すことが出来るのです。そうでなければ、私たちの内には、赦す力はないのです。

更に14節では、私たちの信仰生活の、要になるような、御言葉が語られています。

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。

この御言葉は、私たちが、いつも心に、蓄えておくべき御言葉です。

すべてを完成させる、絆である、愛を欠いたなら、どんな善い行いも、空しいと言っているのです。たとえ、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を、身につけたとしても、もし愛がなければ、一切は無益であり、空しいというのです。

絆と訳された言葉は、他の聖書では、帯と訳されています。どんなに善い着物を、身につけていても、帯がないと、着物が身体から離れて、バラバラになってしまいます。そのように、愛という帯がなければ、信仰も、知識も、善い業も、身体から離れて、身に着きません。

愛の帯で結ばれていないと、形だけの「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」となってしまいます。愛を欠いた赦し、愛を欠いた憐れみ、愛を欠いた謙遜、柔和、寛容。

それらは、知らず知らずの内に、自分中心の、行いになって行きます。

そして、いつしか、それを誇りとする、傲慢な心へと、繋がっていきます。

そうではなく、十字架の主イエスを、見上げつつ、愛をもって、全てのものを、結び合わせなさい。御言葉はそう言っているのです。

そして、その時に、「キリストの平和が、あなたがたの心を、支配するように」なる、というのです。私たちは、皆、平和を求めています。まことの平和を、願っています。

まことの平和。それは、力の均衡ではなく、愛という帯によって、結び合された、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容によって、もたらされるのです。

そのためには、キリストの言葉を、私たちの内に、豊かに、宿していなければなりません。

このような時、まことの平和を実現するために、愛の主、平和の主なら、どうなさるだろうか。その問いに対する答えは、聖書の御言葉の中にあるからです。ですから、答えがいつでも与えられるように、聖書の御言葉が、いつも豊かに、心に宿っていることが、大切なのです。

私たちは、お金持ちになる必要はありません。尤も、先程のように、損な生き方をしていると、お金持ちにはなれません。でも、私たちは、あり余るような宝物を、持つことはできます。

御言葉という、極めて高価な財産を持つ、資産家になることはできます。そして、その方が、お金持ちよりも、豊かで、幸いな人生を生きられるのです。

他のものが、入り込む余地が、ないほどに、主イエスのお言葉で、心が満たされている。

もし、私たちが、そういう者であるなら、争いと憎しみではなく、平和と赦しに、生きることが出来る筈です。

スコットランドのある大学の教授は、いつも笑顔を絶やさず、温和そのものでした。

不思議に思った学生が、「先生には、悩みは無いのですか」、と質問しました。

ところが、その教授は、「そんなことはありません。私は罪人の頭です」、と答えたのです。

「では、どうして、いつもそんなに笑顔で、平和でいられるのですか」。

その教授が答えました。「私は、誘惑に会った時に、いつも『もう満員です』と言っています」。私たちの心に、争いの誘惑が迫り、平和が脅かされる時、この教授のように、いつも心が、主イエスの御言葉で、満員であるなら、争いの誘惑に、勝てるのではないでしょうか。

そして、キリストの言葉が、私たちの中に豊かに宿った時。キリストの平和が、私たちの心を支配した時。その時に、私たちの心に生まれてくるものがある、と御言葉は言っています。

一体何が、生まれるのでしょうか。賛美の歌が、生まれるのです。

キリストの言葉が、私たちの心に、豊かに宿り、キリストの平和が、私たちの心を支配したときに、私たちの唇に、賛美の歌が生まれる、というのです。御言葉は、勧めています。

『詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。』

コロサイの教会は、そんなに大きな教会ではありませんでした。この茅ヶ崎恵泉教会よりも、小さな群れであったかもしれません。そういう群れの中に、賛美の歌声が、満ち満ちていたのです。キリストの教会は、いつも讃美歌と共に、歩んできました。

昔も今も、キリスト者がいるところ、どこにでも、賛美の歌声が、豊かに響いていたのです。

林文雄さん、という医師がいました。ハンセン病患者を救済するために、その生涯を、献げられた方です。

昭和の初めの頃のことです。この林先生が、沖縄のハンセン病患者の療養所が、大変な困難の中にあると聞いて、沖縄を訪れました。

ハンセン病患者の療養所ができるということで、周囲の人々が、大変な迫害をしたのです。

そのため、療養所を作る目途が立たず、海辺に作った、掘っ立て小屋さえも、焼き討ちに遭いました。そういう激しい迫害に遭って、途方に暮れ、失意のどん底に落ち込んだ、林先生と、協力者たちが、手を取り合って、涙していたときのことです。

何人かの、患者の人たちが、その先生たちを囲んで、讃美歌を歌い始めたのです。

以前の讃美歌の530番でした。その2節にこうあります。

「うき世の栄えは、消えなばきえね、まことの栄えは、主にこそあれや。闇夜にあうとも、主ともにまして、み歌をたまえば、いざほめ歌わん」。

患者たちが、この讃美歌を歌い始めたときに、林先生は、讃美歌というものは、こういう時に歌われるものだと、初めて知ったそうです。

当時、不治の病と言われたハンセン病。その病に侵されて、いつ死ぬかも分からない。

そういう人たちが、激しい偏見と迫害の只中で、なお喜びの表情をもって、賛美をしている。

本当に、主を賛美する、ということは、こういうことではないでしょうか。

皆さん、私たちも、そのような思いを持って、主を賛美しつつ、クリスマスに備えていきたいと思います。私たちの汚れた衣を引き受けてくださり、代わりに、聖い、真っ白な衣を、着せてくださるために、あの飼い葉桶に、生まれてくださった、主イエスをお迎えするために、賛美の歌声を、高らかに響かせつつ、共に歩んでまいりましょう。