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過去の礼拝説教

「どこにいるのか」

2018年02月04日 聖書:創世記 3:8~13、4:8~12

仏教では、人間の誰もが、避けて通れない、四つの苦しみがある、と教えています。

それを、「生、老、病、死」、と言い表しています。

生きること、つまり、生きていく上での、様々な悩み・苦しみ、老いること、病むこと、そして死ぬこと。これらは、人として、免れることができない、四つの苦しみであるというのです。

「生、老、病、死」。これら四つの苦しみが、避けることのできない、人生の根本的な問題であることは、現代社会においても、変わりはありません。

むしろ現代は、変化の激しい時代です。人生の不安や悩みは、今までよりも、更に、増し加えられているように思われます。

それでは、「永遠のベストセラー」、と言われている聖書は、この人間の根本問題を、どう見ているでしょうか。

先程、和田野姉妹に読んで頂いた、創世記3章と4章の物語は、神話のような形をとっていますが、決して、私たちと無関係の、昔話ではありません。

ここには、人間のありのままの悩みや、悲惨さや、惨めさが、そのまま描かれています。

今朝の御言葉は、人生の根本的な問題を、二つの問いで表現しました。

その一つは、3章9節の、「あなたは、どこにいるのか」、という問いです。

そして、もう一つは、4章9節の、「あなたの兄弟は、どこにいるのか」、という問いです。

「あなたは、どこにいるのか」、ということは、「あなたは、なぜ自分を隠すのか」という、神様からの問い掛けです。

神様の目から、自分を、隠さざるを得ない。それは、言い換えれば、自分を肯定し、自分を受け入れることができない、ということです。

もう一つの問い、「あなたの兄弟は、どこにいるのか」。

これは、「あなたは、兄弟と共に生きているか」、という問いです。言い換えれば、「あなたは、兄弟を受け入れているか」、ということです。

あなたは、弱さや欠点のある、自分を肯定し、受入れることが、できていますか。

あなたは、あなたの家族や隣人を、受入れて、共に生きていくことが、できていますか。

これら二つの問いは、更に根本的な、共通の問いに、私たちを導きます。

それは、「あなたと、神様との関係は、どうなっているのか」、という問いです。

聖書は、これら二つの問題の根底に、私たちと、神様との関係がある、と言っているのです。ありのままの自分を、受け入れられない。或いは、兄弟をそのままに、受け入れられない。

それらは、神様との、正しい関係が、崩れているからだ、というのです。

今朝の御言葉には、神様との関係が、崩れてしまった人の、代表のような人が登場します。

そして、それは、私たちの代表でもある、と言うことができます。

先ず、アダムとエバです。アダムとエバは、神様から、食べてはならない、と命じられていた、木の実を食べてしまいました。

命令を破ってしまった、アダムとエバに、神様が近づいて来られます。

3章8節、9節です。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」

「風の吹くころ」、と書いてあります。これは、夕方ではないか、と考えられています。

一日の終わり、夕方に、神様が、アダムとエバに、近づいてきます。これは、その日だけでなく、いつものことであった、と思います。

いつも、一日の終わり、風の吹くころに、神様は、アダムとエバに、近づいて来られていたのです。そして、アダムとエバを、ご自身のもとに、呼び寄せられていたのです。

そして、二人は、いつも、その神様のもとに、喜んで、駆け寄っていたのです。

しかし、この日は、アダムとエバは、神様の顔を避けて、木の間に隠れています。

そして、神様が、「どこにいるのか」、と問われたときに、アダムは答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。

彼らは、禁じられていた、知恵の木の実を、食べてしまいました。神様から与えられた、たった一つの約束さえも、守ることができず、それを、破ってしまったのです。

そのことによって、神様との、正しい関係が、崩れてしまいました。

その時、何が起こったのでしょうか。神様が恐ろしくなったのです。

神様が近づいてくる。それを、恐ろしいと、思うようになったのです。

それまで彼らは、帰って来たお父さんを、喜んで迎える、子どものように、神様に駆け寄っていたのです。しかし、今は、神様が、恐ろしい存在に、なってしまったのです。

知恵の木の実を、食べた人間は、自分の知恵を、第一として、生きるようになりました。

今までは、神様の知恵に守られ、神様の知恵のもとで、平安に生きてきたのです。

それが、自分の知恵を、優先するように、なっていったのです。

神様が、「こうしなさい」と言います。今までは、「はい」と言って、素直に従っていました。

しかし今は、「いや、自分は、こう思うから、従えません」、と答えるようになりました。

神様が、「こちらに来なさい」、と言います。でも、「あちらの方が良さそうなので、あっちに行きます」、と答えるようになりました。

「神様の仰ることよりも、自分の考えることの方が、合理的なのではないか」、と思うようになったのです。その様に、神様に反抗するようになると、神様は、敵になります。神様は、恐ろしい存在になるのです。

また、自分のしたいことを、させてくれない、嫌な存在になるのです。ですから、神様が近づいて来た時に、隠れたのです。

そして、その時、彼らは、自分が裸だ、ということに気付きました。

自分が裸だ、というのは、神様に対して裸だ、ということです。神様に対して、自分は無防備ではないか、と思ったのです。何もかも、知られているではないか。そう思ったのです。

ですから、いちじくの葉っぱで、身を隠したのです。彼らは、それで、自分の身を、守ろうとしました。というよりも、神様に対して、自分を隠そうとしたのです。

神様に、見られたくない。知られたくない。実は、それが、罪の本質なのです。

罪の本質とは、過ちを犯すこと、ではありません。神様に対して、自分を隠す、ということなのです。過ちを犯すことは、誰にでもあるのです。それが、罪の本質なのではありません。

それを隠すこと。それが罪なのです。間違いや過ち、それを認めないことが、罪なのです。

アダムは神様の前に、自分を隠しています。自分は、神様との約束を破って、過ちを犯した。だから、身を隠さなければならない。そう思っているのです。

今、アダムは、罪の中にいます。しかし神様は、その罪人アダムを、探してくださるのです。

断絶した関係を、修復したいと、願われているのです。ですから、「あなたはどこにいるのか」と言って、探されるのです。背いた人間を、尚も、受け入れようとされるのです。

神様は、私たちを、そのまま、罪のあるままに赦し、受け入れて下さるお方なのです。

ですから、私たちは、過ちを犯しても、アダムのように、身を隠す必要はないのです。

いえ、身を隠してはいけないのです。

私たちは、この神様の、限りない赦しに信頼し、その赦しの中に、身を置いて良いのです。

過ちを素直に告白し、赦しを願うべきなのです。その時、神様は、私たちの過ちを、すべて赦してくださるのです。それは、本当に、あり得ないような、赦しです。

そして、その赦しの根拠が、主イエスの十字架なのです。

ローマの信徒への手紙5章8節には、こう記されています。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

主イエスは、私たちの罪を贖う、救い主として、この世に来られました。私たちの罪を、その身に負い、十字架にかかってくださいました。そのようにして、私たちを受け入れ、赦してくださいました。

ですから、私たちは、罪を隠さずに、素直に告白していいのです。その時に、神様は、私たちを、受け入れてくださいます。主イエスの十字架の故に、赦してくださいます。

人間は、誰かから、受け入れられる時に、初めて、自分でも、自分を受け入れることが、できるのではないでしょうか。

自分が、一番大切だと思っているお方から、弱点のある自分が、受け入れられる。

その時、私たちには、本当の、自由と喜びが、あるのではないでしょうか。

主イエスの十字架。これによって、私たちは、私たちの、最も大切なお方から、受け入れられているのです。最も大切なお方が、この私を受入れてくださり、「あなたは生きていってよいのだ」、「いや、生きることが許されているのだ」、と言って下さっているのです。

神様の赦しの光が、私たちを照らしています。キリストの平安が、私たちを、覆い包んでいるのです。キリスト者の平安は、自分が正しい、という平安ではありません。赦されている、という平安なのです。

次に、カインの問題を、見てみましょう。カインと弟のアベルは、アダムとエバの子供です。

人類最初の兄弟です。ですから、兄弟というものの原型が、ここに描かれています。

或いは、もう少し広げて、人間関係の原型が、ここに描かれている、と見ることもできます。

私たちは、誰も、一人では、生きていけません。他者と生きるように、定められています。

どんなに人間嫌いで、強がっている人も、一人で生きることはできません。その最も身近な他者、それが兄弟です。

ですから聖書は、カインとアベルという兄弟を通して、人と他者、人と隣人との、典型的な姿を、描こうとしているのです。

カィンとアベルは、神様に、献げ物をします。カインは土の実りを、神様に献げた、と記されています。彼は土を耕す人でした。ですから、そこからの産物を、神様に献げたのです。

アベルは、羊の群れの中から、肥えた初子を、神様に献げた、と書いてあります。

ところが、そこで、不思議なことが、起こります。

神様は、アベルの献げ物には、目を留められましたが、カインの献げ物には、目を留められなかったのです。不思議なことです。

なぜなのでしょうか。その説明は、ここには、記されていません。そこで、昔から、様々な推測がなされてきました。最も広く受け入れられているのは、こういう説明です。

アベルは、羊の群れの中から、肥えた初子を献げた。これは、自分にとって、一番大事なものを、心を込めて、選んで献げた、ということである。

そして、それを、神様が喜ばれたのだ。こういう説明です。そうなのかもしれません。

献げ物というのは、神様の恵みを、どう受け取っているのかを、示すものです。

アベルは、自分の持っている物の中で、一番良い物を、選んで献げた。もしそうであれば、それは、神様の、恵みの大きさに、自分なりに精一杯に応えた、ということです。

そして、神様は、そのアベルの献げ物に、目を留められた。そういう解釈です。

神様の恵みを、より多く知る人は、神様に、より多く応える。

そのことが、ここに記されている。そのように、見ることができます。

神様は、ある人を多く愛し、ある人を少なく愛する。そんなことはありません。

しかし、多く愛されたと、受け止めた人は、多く愛するのです。そして、多く応えるのです。

しかし、自分は、僅かしか、愛されていない、神様の恵みなんて、たいした事はない。

そう思っている人は、多く愛することができません。ですから、多く応えられないのです。

カインは、そういう人で、あったのでしょう。しかし、カインは、自分が、そういう者である、ということに、気が付きません。そういう自己認識が、ないのです。

自分も、アベルと同じように、献げたのに、神様は、自分の献げ物に、目を留められない。

カインは、神様を、逆恨みします。神様は、不公平だと感じたのです。そして、憤りました。

弟のアベルは、神様に、えこひいきされている。でも自分は、理不尽に、遠ざけられている。

これは、不公平だ、と感じたのです。カインの心は、暗い闇の中に、落ち込んでいきます。

アベルさえいなければ、良いのだ。彼が邪魔だ。彼を排除しなければならない。それしか解決の道はない。とうとう、カインは、アベルを抹殺します。

カインは、自分は、神様に見捨てられた、と勘違いしたのです。人生が、不公平で、不合理に思われたのです。そこでカインは、反抗的になりました。

「私は弟の番人でしょうか」。このカインの言葉は、恐ろしく反抗的な言葉です。そうでも言わなければ、収まらない心境だったのです。

しかし彼は、本当に、神様に、見捨てられたのでしょうか。そうではないのです。

この先の御言葉を読みますと、弟を殺したカインをさえ、神様は、保護のための「しるし」を与えて、守られた、と聖書は語っています。

私たちには、時として、何で自分一人が、こんな目に遭うのか、と思う時があります。

祈っても、祈っても、改善されない、悩みの夜があります。

しかし、その時にも、神様の愛が、ないのではありません。私たちは、決して、見捨てられてはいません。自分を取り巻く状況から見ると、神様を信じることが、愚かにさえ見える時が、あるかもしれません。しかし、その時にも、神様の恵みは、確かにあるのです。

信仰とは、目の前の損得を超えて、信じることなのです。

皆さん、私たちが今、神様を信じているのは、私たちが、良い暮らしをしているからでしょうか。万事が、うまくいっているからでしょうか。人よりも、多少なりとも、いい目を見ているからでしょうか。そうではないですよね。

私たちが、今、神様を信じているのは、私たちが、良い暮らしをしているからでも、万事が、うまくいっているからでも、ない筈です。

まして、私たちが、立派だからでも、強いからでも、ありません。

そうではなくて、主イエスの、十字架の恵みがあるから、ではないでしょうか。

十字架に示された、主イエスの命懸けの愛があるから、信仰を持ち続けていけるのです。

十字架の主イエスを仰ぐとき、自分は見捨てられていない。いや、決して見捨てられることはない、と信じることができるのです。

十字架の上から、主イエスは、「あなたは、どこにいるのか」、と問われます。「あなたの兄弟は、どこにいるのか」、と問われます。

十字架の主イエスを仰ぎながら、この問い掛けを、聴いていく時、この二つの問いは、愛の呼び掛けであることが、分かります。

私が、命懸けで愛しているあなたは、私の愛から離れて、一体どこにいるのか。

同じように、私が、命懸けで愛している、あなたの兄弟は、一体どこにいるのか。

十字架の上から、主エスは、今も問い掛けられています。ここから、自分の人生を、生きる力が生まれてきます。兄弟姉妹と共に、生きるカが生まれてきます。

今朝、私たちは礼拝に集ってきました。皆さん、礼拝とは、何でしょうか。

礼拝とは、「あなたは、どこにいるのか」、という神様の問い掛けを、聴くところです。

また、「あなたの兄弟は、どこにいるのか」、と問われるところです。

礼拝において、私たちは、人生の根本問題に、直面するのです。

しかしまた、私たちは、礼拝において、あの神様の二つの問い掛けが、神様の限りない赦しの言葉であり、愛の呼び掛けであることを知るのです。

礼拝は、キリストの十字架が、人生の根本問題に、答えてくれる場所です。

そして、私たちが、その主イエスの十字架を、仰ぎ見るところです。

この礼拝によって、私たち自身が、新しく造り変えられます。人生を喜び、生きる力を与えられます。そして、また、人々と共に、生きる道を示されます。

この礼拝の中で、私たち自身も、応えることができます。「神様、私は、ここにおります。兄弟姉妹と共に、ここにおります」。

そして同時に、こう応えることができます。「神様、私はここにおります。しかし、ここに欠けている兄弟姉妹もおります。神様、どうか、私たちを憐れんでください」。

礼拝において、私たちは、神様からの、問い掛けを聴きます。愛の呼び掛けを聴きます。

そして、愛を持って、それに答えていくのです。

礼拝の度に、私たちは、キリストの十字架の下に、立ち続けるのです。

そして、神の愛と恵みによって、新しく造り変えていただくのです。

そのような、礼拝の恵みに与れることを、感謝したいと思います。