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過去の礼拝説教

「恵みによって救われる幸い」

2019年01月27日 聖書:使徒言行録 15:1~21

全ての歴史には、「過渡期」とか「転換期」、と言われる時期があります。

一つの時代が終わり、新しい時代に移っていく。そういう方向転換が、なされる時です。

使徒言行録15章は、初代教会にとって、重要な転換期の出来事を、伝えている箇所です。

初代教会の歩みの、「分水嶺」とも、言える箇所です。

ここには、初代教会において行われた、大切な会議のことが語られています。

一般に、「エルサレム会議」と言われている、世界で最初の教会会議のことです。

この会議は、キリスト教会のその後の歴史に、決定的な影響を与えました。

このエルサレム会議が、行われることになった経緯が、1節、2節に語られています。

舞台はアンティオキアの教会です。

アンティオキアの教会では、ユダヤ人も、異邦人も、何の分け隔てもなく、福音を信じ、主にある兄弟姉妹としての、交わりを喜んでいました。

そのアンティオキア教会に、ある人々が、ユダヤから下って来たのです。

ユダヤから、とは具体的には、エルサレム教会から、ということです。

その人々は、「モーセの慣習に従って、割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と語りました。

誤解しないで頂きたいのですが、この人たちは、教会員です。クリスチャンです。

主イエスを信じる人たちです。エルサレム教会のユダヤ人たちも、アンティオキア教会の異邦人たちも、両方とも、「主イエスを救い主」、と信じる信仰を、持っている人たちなのです。

でも、エルサレム教会から来た人たちは、「主イエスを、救い主として、信じるだけでは不十分で、割礼を受けなければ、救われない」、と教えたのです。

割礼を受けるとは、宗教的には、ユダヤ人になる、ということです。救われるためには、あなた方も、ユダヤ人に、ならなければならない、と言ったのです。

ユダヤ人というのは、そういう意味では、民族の名前ではありません。

民族・人種にかかわらず、律法を守り、割礼を受けるなら、宗教上のユダヤ人になれるのです。

ユダヤ人は、神に選ばれた、神の民であって、救いは、ユダヤ人だけに与えられる。

だから、ユダヤ人になることによってのみ、救いに与る者となることができる。

これが、ユダヤ人たちの、伝統的な考え方でした。

ですから、割礼も受けないで、救いに与ることができる、という考えは、ユダヤ人たちには、全く理解できない事であったのです。

しかし、このことは、アンティオキア教会において、大問題を引き起しました。

アンティオキア教会の、異邦人クリスチャンたちは、「あなた方は、割礼など受ける必要はない。ただ主イエスを信じる信仰によって、ただ十字架の恵みによって、救われる」、と教えられて来ました。その救いの言葉を喜び、それを信じて、歩んで来たのです。

その人たちに対して、エルサレムから来た人々は、「あなた方は、そのままでは救われない。割礼を受けて、ユダヤ人にならなければならない」、と言ったのです。

これは、アンティオキア教会の人たちが信じてきた救いを、根本から否定することになります。彼らは、ただ主イエスを信じる、信仰によって救われる、と教えられてきたのです。

それなのに、それは間違いだ、と言われたのです。彼らは、動揺し、混乱しました。

ですから、パウロも、バルナバも、これに対して、黙っている訳には、いきませんでした。

当然、そこに、激しい意見の対立と、論争が生じました。

教会の中で、対立が生じることは、悲しいことです。できるだけ、避けたいところです。

しかし、神様の御心に忠実に従って、真理を真剣に求め、信仰を究めていくためには、時には、対立も避けられないことがあります。

信仰の根幹に関わることについては、いい加減な妥協は、むしろ危険なのです。

本質的でない事での対立は、愚かなことです。しかし、教会が、その頭である、主のものでなくなってしまうような、本質的な事柄については、安易な妥協は避けなければなりません。

ですから、私たちが、ここで、学ぶべきことは、教会の中に、このような対立が起った時に、教会がそれを、どのようにして解決したか、ということなのです。

ここでの対立は、初代教会が直面した、最大の問題でした。この問題を、どう解決するかによって、その後のキリスト教会全体の歩みが、決まっていったのです。

パウロとバルナバは、数名の信徒を伴って、エルサレム教会を訪問しました。この問題について、話し合うためです。今回も、彼らは、祈りをもって、教会から送り出されました。

このエルサレム会議は、その後の教会の歴史に、決定的な影響を与えました。

キリスト教が、ユダヤ教の一分派として止まるか、それとも、世界中に発展して、全ての人を救う教えとして、成長していくか。その分岐点となったのが、この会議であったのです。

パウロたちは、エルサレムに上り、そこで、使徒たちや長老たちとの、会議に臨みました。

教会は会議を開いて、この問題の解決を図りました。そこに、教会の信仰が現れています。

それは、会議において、教会の頭なる主が、御心を示して、導いてくださるという信仰です。

教会が会議を行ない、そこで様々なことを決定していくのは、会議の場に、豊かに臨んでくださり、生きて働かれる神様を信じ、その導きに委ねる、という信仰に基づくことなのです。

教会の会議は、神様の御前で、行われる御前会議なのです。まことの議長は、神様です。

会議に出席する者は、その場に臨んでおられる、神様を見上げつつ、神様の御心を尋ねつつ、神様に対して発言するのです。それが、教会の会議です。

エルサレム教会の使徒や、長老たちに、迎えられたパウロたちは、聖霊なる神様が、自分たちと共に働かれて、為してくださった御業を、ことごとく報告しました。

パウロたちは、自分の行いではなく、神様のなされた御業を、報告したのです。

異邦人たちが、主イエスを信じて、洗礼を受け、神の民として、喜んで歩んでいること。

そして、各地に、異邦人たちの教会が、生まれていること。

パウロたちは、溢れる感謝をもって、そのことを報告しました。

しかし、それに対して、ファリサイ派から信者になった人たちが、立ち上がって、異議を唱えました。

長く培われてきた、ユダヤ教的な体質は、彼らの信仰の中に、深く染み込んでいて、それを拭い取ることは、容易ではなかったのです。

彼らは、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」、と主張しました。アンティオキアでの対立が、ここでも繰り返されたのです。

もし、ここで、誤った判断がなされたなら、ユダヤ人を中心とするエルサレム教会と、異邦人を中心とするアンティオキア教会とは、完全に分裂してしまったと思います。

しかし、教会の頭であり、すべてを支配されておられる主は、教会を守ってくださり、誤りなく導いてくださいました。

さて、皆さん、私たちは、今、聖書を通して、この会議の模様を、聞かされています。というよりも、信仰において、この会議に、霊的に参加しています。

では、私たちは、自分自身を、どこに置いて、この会議に参加しているでしょうか。

これは、2千年前の会議だから、私には、直接関係がない、という立場に立って、傍聴席に座っているでしょうか。

しかも、遠い過去の出来事として、捉えているので、厚いガラスの窓越しに、会議の模様を、眺めているでしょうか。

しかし、この会議は、今の私たちに、直接関わる出来事なのです。というよりも、私たちのために、行なわれている、会議なのです。

ですから、私たちは、厚いガラス越しの、傍聴席に座って、他人のことのように、この会議を、眺めていては、いけないのです。

私たち日本人は、異邦人です。割礼を受けていない、異邦人です。

ですから、私たちは、この会議に来た、アンティオキア教会の異邦人クリスチャンたちと、同じ席に自分を置いて、この会議に、参加しなければいけないのです。

この会議は、他でもない、私たちのために、開かれた会議なのです。

ですから、私たちは、これから語られる、ペトロや、ヤコブの言葉を、この私のために語られた言葉として、感謝をもって、聞いていくことが、求められているのです。

この会議において、決定的な発言したのは、ペトロとヤコブでした。二人とも、エルサレム教会を、代表する指導者です。先ず、ペトロが立って、語りました。

ペトロが語った言葉が、7節から11節に亘って、記されています。

ここでペトロは、異邦人の百人隊長コルネリウスに、聖霊の賜物が注がれた出来事を、想い起しています。10章に書かれていた、出来事です。

神様から、コルネリウスを訪ねるように、と言われた時、ペトロは、大きなためらいを覚えました。異邦人と交わると汚れる、と教えられていたからです。

しかし、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」、と神様から諭されて、コルネリウスの家を訪ねました。

そして、ペトロが、主イエスの十字架と復活を、宣べ伝えていた時、それを聞いていた、コルネリウスやその家の人々に、聖霊が降り、なんと彼らが、神様を賛美しだしたのです。

それを見たペトロは、「私たちと同様に、聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が、妨げることができますか」と言って、彼らに洗礼を授けました。

福音を聞いて救われる、ということについては、ユダヤ人も、異邦人も、何の違いもないということを、ペトロは身をもって知らされたのです。

ペトロの、コルネリウスへの伝道は、既にエルサレム教会に、報告されていました。

その報告を聞いた時、エルサレム教会の人々は、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神様を賛美したのです。

ペトロは、ここで、「皆さん、どうか、その時のことを、想い起してください」、と語っています。

「皆さん、神様は、私たちユダヤ人と、異邦人とに、何の差別もつけなかったのです。

神様は、異邦人を、割礼によってではなく、聖霊を受けることによって、清められたのです。体ではなく、彼らの心を、信仰によって、清めてくださったのです。

あなた方は、その事を既に聞いて、神様の御業を、賛美したではないですか。そのことを、想い起してください」。ペトロは、そう言ったのです。これは、私たちを、弁護する言葉です。

またペトロは、主イエスに、従おうとして、従いきれなかった、自分自身の体験からも、行いによっては救われない、ということを知っていました。ですから、こう続けたのです。

「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」

ここで、ペトロが言っている「軛」とは、律法を守るために負わされる、重荷のことです。

モーセの律法を、完全に守ること。それは、イスラエルの先祖も、また私たちも、負い切れなかった、重荷だったではないか。あなたたちは、それに、がんじがらめに縛られて、どれ程、苦しんできたことか。でも、あなたたちは、今、それを、異邦人クリスチャンに、負わせようとしているのです。そんなことを、してはいけません。ペトロは、そう言ったのです。

11節の御言葉は、ペトロが、最も言いたかったことです。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われる」。この一言に、ペトロの言いたいことが、凝縮されています。ペトロが捉えている、救いの本質が、端的に言い表されています。

救いは、私たちが、善い行ないをし、立派な者になることによって、与えられるのではありません。私たちの中にある、資格や条件によってではなく、ただ主イエスの恵みによって、私たちは、救われるのです。

そうでなければ、主イエスを、三度も「知らない」と言ったペトロも、教会を迫害したパウロも、救いに与ることなど、できない筈です。まして、私たちなどは、なおさらです。

「主イエスの恵みによって救われる」とは、自分の中には、救われるに相応しいものなど、何もない、ということなのです。

それなのに、救われるための、資格や条件を、私たちの内に、必死になって探そうとするなら、救いには割礼が必要だ、と主張するユダヤ人と、同じになってしまうのです。

今朝の週報の【牧師室より】にも書きましたように、自分には何もない、と自覚している人の方が、自分の力を誇る人よりも、救いの近くにいるのです。

ただ主イエスの恵みによって救われる。このことは、ユダヤ人も、異邦人も同じなのです。

このペトロの言葉によって、会衆は沈黙しました。これは、どういう沈黙だったのでしょうか。

救いの、圧倒的な事実を示されて、沈黙せざるを得なかった、ということもあったでしょう。

或いは、この沈黙は、祈りであったのかもしれません。

神様の御心を探るために、沈黙した。神様、私たちは、どうしたらよいのでしょうか。どうか、御心を示してください、という祈りの沈黙であったのかもしれません。

人の声ではなく、会議の場に、確かにいてくださる、神様の声を聴くために、沈黙したのかもしれません。教会の会議には、そのような、沈黙の時、祈りの時が、必要なのです。

そして、この沈黙は、パウロとバルナバに、よい発言の機会を、与えました。

二人は、異邦人の救いのために、神様がなされた、数々のすばらしい御業を語りました。

彼らが、語った、様々な恵みの出来事は、ペトロの意見を補い、割礼は不要である、という方向に、会議を動かしていきました。

しかし、会議の結論を得るには、異邦人伝道のために用いられた、ペトロや、パウロや、バルナバたちだけの、意見では不十分でした。

ユダヤ人伝道の中心的人物であり、またエルサレム教会の指導者でもあった、ヤコブの意見が、決定的な重要性を、持っていたのです。

このヤコブとは、十二弟子の一人のヤコブのことではありません。主イエスの、すぐ下の弟の、ヤコブのことです。

主イエスの兄弟のヤコブは、初めの内は、主イエスのことを、理解できずにいました。

しかし、十字架と復活の出来事を体験した後は、エルサレム教会の指導者となり、多くの教会員から、尊敬を受けていたのです。

ヤコブは、ペトロの事を、ユダヤ名で「シメオン」と呼び、彼の言葉を全面的に承認しました。

そして、アモス書9章11節、12節を引用して、ペトロが語った、異邦人の救いは、この預言の成就だったのだ、と語ったのです。

既に旧約聖書において、救いが異邦人にも及ぶことが、はっきりと予告されているではないか。ヤコブは、その事を、力強く語りました。

だから、「神に立ち帰る異邦人を、悩ませてはなりません」。これが、ヤコブの、結びの言葉でした。

「悩ませる」とは、自分たちも負い切れなかった、律法の軛を、異邦人たちに、負わせることです。そういうことをして、異邦人たちを、悩ましてはならない、と言ったのです。

主の兄弟ヤコブが、主イエスを信じる、信仰によってのみ、救われることが、神様の御心であると、語ったことで、この会議は決着しました。

このことによって、キリスト教は、全ての人々に開かれた、世界宗教への道を歩み出したのです。

私たちが今、こうして、教会に集い、救いに与っているのも、このエルサレム会議の決定による、と言うこともできるのです。

私たちは、何によって、救われるのか。この論争は、「主イエスの恵みによって救われる」、という真理を、確認して終わりました。

今、私たちは、その恵みの福音を、当然のように頂いています。本当に感謝なことです。

しかし、会議に出ていた、アンティオキア教会の人たちは、この結論を聞くまでに、どれ程、心配し、気を揉んだことでしょうか。

そして、その結論を聞いて、どれ程、喜んだことでしょうか。

私たちも、この会議の傍聴席ではなく、異邦人の一人として、アンティオキア教会の人たちと、同じ席に座っているなら、その喜びを、共にすることになる筈です。

救われるに値する、何ものも持たない、この私のために、主がその肉を裂き、血を流して、命をささげてくださった。ただ、その恵みによって、救いに入れられている。

この恵みによって、救われていることを、当然のように、受け止めるのではなく、大きな感謝と喜びをもって、受け取らせていただきたいと思います。

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると、信じているのです。」