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柏牧師:過去の礼拝説教

「分かれ道に立つ十字架」

2016年08月14日 聖書:ヨハネによる福音書 11:45~57

突然ですが、皆様は、主イエスについて、どのようなイメージを、お持ちでしょうか。

主イエスのことを、一言で言い表すなら、どのように言われるでしょうか。

神の御子、救い主、全き愛のお方、いつくしみ深い友。

いろいろなイメージが、あると思います。

しかし、今朝の御言葉では、主イエスは、「逮捕状が出されたお尋ね者」、とされています。今朝の箇所には、当時のユダヤの、国会に当たる、最高法院が、主イエスを殺すことを、正式に決定した、と記されています。

これまでにも度々、主イエスに対する殺意が、ユダヤ人の間に、燃え上がったことがありました。そして、実際に、主イエスを捕えようと、何度か、試みられました。

ですから、ここで初めて、主イエスに対する殺意が、明らかになった訳ではありません。

しかし53節には、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」、と書かれています。

この「たくらんだ」という言葉は、「決定した」という意味の言葉です。

この日に、主イエスを殺すことが、正式に決定されたのです。

57節には、「イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」、と書かれています。つまり、逮捕状が出されたのです。

そして、この日から、主イエスは、全国指名手配の、「お尋ね者」になったのです。

主イエスに、逮捕状が出された、直接のきっかけは、ラザロを生き返らせる、という奇蹟を、行われたからです。主イエスは、ラザロを生き返らせ、私たちに、死から命への、希望を与えてくださいました。しかし、そのために、主イエスは、お尋ね者となられたのです。

主イエスは、ただひたすらに、愛の業をなされただけです。

人々が勝手に作り上げた、数々の決まりに、捕らわれることなく、自由なお心で、病の人を癒され、体の不自由な人の、重荷を取り除かれ、死んだ人を生き返らされたのです。

しかし、神様の御心よりも、自分たちの作った、決まりの方を、大切にする人たちは、そんな主イエスの、愛の業を拒否して、逆に、主イエスを殺そうとしたのです。

ヨハネによる福音書においては、ラザロの復活は、主イエスがなされた、最後の奇蹟です。主イエスは、墓に向かって、「ラザロ、出て来なさい」と、叫ばれました。

この主イエスの叫びに応えて、ラザロは、全身を、布でグルグル巻きにされたまま、墓から出てきました。それをご覧になった、主イエスは、ラザロに絡みついている布を、ほどいてやりなさいと、周りの人々に、言われました。

この時、ラザロの全身を、覆っていた布。それは、人間に絡みついている、罪の象徴とも、見ることができます。

墓の中で、死んでいた人間。それは、罪の中にいて、活き活きとして、生きることができなくなっている、人間の姿と、重なります。

主イエスは、そのような人間を、呼び起こしてくださり、全身に絡みついた、布をほどくように、罪から解放して、くださったのです。

ですから、ラザロの復活は、単なる肉体の蘇生ではありません。主イエスが、人間を、罪の支配から、解き放ってくださったことをも、示しているのです。

「ラザロ、出て来なさい」。これは、罪の中から、私たちを救い出す、神様の力強いお言葉です。

しかし、この神様の言葉を、押し殺そうとする決定が、人間の、自己中心的な思いによって、下されたのです。

やがて、主イエスは、逮捕され、ローマ総督ピラトの手によって、十字架にかけられます。

なぜ、このようなことが、起こらなければ、ならなかったのでしょうか。

なぜ、人間となって、この世に来てくださった、神様の御子が、十字架で死なれなければ、ならなかったのでしょうか。これは、私たちにとって、最も大きな問です。

ちょっと、こんな場面を想像してみてください。あなたが、自分の罪のために、十字架にかけられようとしています。

今まで犯した罪が、すべて、明らかにされてしまって、もはや、言い逃れは出来ません。

十字架の上に寝かされ、あなたの手に、そして、あなたの足に、太い釘が、まさに打ち込まれようとしています。

あなたが思わず叫びます。どうか赦してください。誰か、私に代わってください。

するとある人が、「私が代わろう」、と言ってくれました。

助かった!と思ったのも束の間。死刑執行人が言います。「そいつも、同罪だ。そいつも次に、十字架に架けられることになっている。だから、お前の代わりにはなれない。」

そうか、誰も代わりになれないのか、と絶望した時、もう一人、別の人が、「私が代わろう」、と言って、前に進み出てくださった。主イエスです。

死刑執行人は、「あぁ、この人だけは、十字架にかかるようなことは、何もしていない。だから、お前の代わりになることができる。じゃぁお前は、無罪放免だ。良かったな。」

そう言って、十字架から下ろしてくれた。主イエスの十字架の贖いとは、こういうことです。

人間の罪の償いは、人間が果たさなければなりません。旧約聖書にあるように、いくら犠牲の動物をささげても、罪の償いにはならないのです。

しかし、罪を償うことができるのは、罪のない人でなければなりません。

なぜなら、罪を犯した人が、十字架にかけられるのは、当然の報いであって、他人に対する、償いには、ならないからです。

罪を犯したことのない人間。それは、人となられた、神ご自身である、主イエスだけです。

主イエスだけが、私たちの身代わりと、なることができるのです。

私たちを、罪の死から、贖い出すことができるのは、主イエスの十字架だけなのです。

このように、私たちの人生の、命と死との、分かれ道に、主イエスの十字架が、立っているのです。この十字架を、どのように捉えるかによって、私たちの人生は、決定されます。

さて、最高法院において、論じられた言葉から、私たちは、色々なことを読み取ることができます。

例えば、48節の御言葉、「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。

この言葉を読むと、人間の一番の関心事は、結局、自己保身なのだ、と思わされます。

主イエスを、このままにしておくと、民衆は、どんどん主イエスの方に、傾いていってしまう。そして、民衆は、やがて、自分たちの言うことを、聞かなくなってしまうだろう。

そんなことは、認める訳にはいかない。指導者たちは、そう思ったのです。

更に、もっと厄介なことは、民衆が、主イエスのことを、ローマの支配から、ユダヤを解放する、メシアだと言い出すことです。

もし、それが、ローマに対する反逆へと、繋がっていったなら、大変なことになる。きっと、ローマ人が、乗り出してくるだろう。

そんなことになったら、自分たちの立場はどうなるか。この神殿を中心にした、自分たちの、地位や権力はどうなるか。治安の乱れに乗じて、ローマが介入してきて、自分たちの特権を、奪うようなことになっては困る。

最高法院の人々は、自分たちの地位が脅かされることを、心配しているだけなのです。

ここで、彼らが、問題にしているのは、自分たちの、権力の拠り所である、神殿です。

その神殿が、滅ぼされてしまうと、自分たちの存在価値も、なくなってしまうのです。

ですから、口先では、国民のことを、心配しているように、言っていますが、結局は自分たちの、利益のことを、心配しているのです。

この時、大祭司たちが、必死になって、守ろうとした神殿。その神殿は、それから30数年後に、ローマの軍隊によって、跡形もなく、破壊されてしまいます。

一方、彼らが、自己保身のために殺した、主イエスは、復活され、今も生きておられます。

そして、その救いの上に、建てられた教会には、今も、神の子たちが集められ、世界中で、礼拝が守られています。

旧約聖書の箴言の中に、「人の心には、多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する」、という御言葉があります。本当に、その通りのことが、起こっているのです。

49節、50節で、御言葉はこう言っています。 「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか』」。

この大祭司カイアファの言葉は、意味深長な言葉です。

一人の人間が、民の代わりに死んで、国民全体が、滅びないで済むならば、その方があなたがたにとって、そして勿論、自分にとっても、好都合ではないか、というのです。

一人の人間を、滅ぼすことによって、国民全体が、滅びから免れるなら、それが、一番善いことなのだ。何故、こんなことが分からないのか、と言ったのです。

このカイアファの言葉について、福音書記者ヨハネは、説明を加えています。

「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」。

この時カイアファは、実は、自分の考えではなくて、図らずも、神様のご意志を、語ったのだ。ヨハネは、そのように言っています。

カイアファの言葉は、全く人間的で、政治的な意図から、出たものです。

しかしヨハネは、その言葉の中に、神様の救いのご計画を、聞き取っているのです。

主イエスが、人間の罪を贖うために、ご自身の命を、十字架に捨てられる。

この救いのご計画が、カイアファの口を通して、ここで語られている、と捉えているのです。カイアファは、自分でも気付かない内に、神の言葉を伝える、大祭司としての、役目を果たしている。ここで、いみじくも、主イエスの、十字架の意味を、語っている、というのです。

自分たちが、死ななくても済むために、あのイエスという男に、死んで貰ったらいい。

このカイアファの言葉は、恐ろしく、自分勝手な考えです。

しかし、そのような、自分勝手な言葉が、実は、主イエスの、十字架の死の、深い意味を、明らかにしているのです。

そうなのです。私たちが、死ななくても済むために、主イエスは、十字架に死んでくださったのです。

イエスは死ぬべきだ。このカイアファの言葉は、神様に敵対する、恐るべき言葉です。

しかし神様は、こんな悪意に満ちた言葉さえも、用いられて、救いの出来事を、告げられたのです。神様は、敵対者をも、用いられて、ご自身のご計画を進められます。

これは、現代でも、しばしば見られることです。

映画「ベン・ハー」の原作を書いた、ルー・ウォーレスという作家は、かつては、徹底した無神論者でした。ある時、彼は、キリスト教を、完全に否定するための、書物を書こうと、思い立ちました。そして、欧米の、主要な図書館を巡り歩き、研究を重ねました。

二年間に亘る、熱心な研究を終えて、いよいよ本を書き始めました。

しかし、その執筆の途中で、彼は、突然ひざまずいて、主イエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」、と叫んだそうです。キリストを否定しようとして、研究を始めたのですが、逆に、キリストが神であるということを、否定できなくなってしまったのです。

韓国人としての初代牧師の一人、李基豊牧師も、そうです。

彼も、キリスト教が大嫌いで、アメリカ人宣教を、待ち伏せし、大きな石で殴りつけました。

しかし、その後、その宣教師が、李基豊の暴力には、一言も触れないで、この怪我は、自分が、不注意で、転んだための怪我だ、と言っていると聞いて、今まで感じたことのない、不思議な気持ちになります。

しかし、そんな気持ちを、打ち消そうとして、ますますキリスト教を憎み、とうとうある晩、教会に放火しようとしました。ところが、その現場を、見つけられて、焦って逃げる途中で、道を踏み外し、深い溝に、頭から落ち込んでしまいました。

何日間か、生死の境をさまよった後、やっと意識が戻ると、自分の枕辺には、心配そうに彼を見守り、彼のために、熱心に祈る、教会の人たちの姿がありました。

李基豊は、今度は、自分の方が、大きな石で、頭を殴られたような、衝撃を受けました。

そして、心から悔い改めて、やがて、韓国人初代牧師の一人となったのです。

彼は、済州島での伝道を皮切りに、9つの教会を建てるという、尊い働きをしました。

このように、神様は、人間の反抗や、敵意をも用いられて、ご計画を進められるのです。

私たちの信じる神様は、このように大きなお方なのです。

皆さん、私たちは、この神様に、もっと信頼して、良いのではないでしょうか。

50節に、「一人の人間が民の代わりに」、と書かれています。

ここにある、「代わりに」という言葉は、51節で、「国民のために」、と訳されている箇所の、「ために」という言葉と、全く同じ言葉です。

ですから、51節も、「イエスが国民の代わりに死ぬ」、と訳しても良いのです。

むしろ、そう訳した方が、分かり易かったと思います。

ユダヤの国民のために、国民に代わって、主イエスは死ぬ。聖書は、そう言っています。

しかし、それは、ローマの支配から、国民を解放するために、死ぬのではありません。

そうではなくて、ユダヤ人の、罪の贖いのために、ご自身をささげてくださるのです。

ユダヤの国民に代って、死ぬのです。ですから、主イエスは、カイアファのためにも、死ぬのです。カイアファに代って、死ぬのです。

カイアファは、そのことの、まことの意味が、全く分かっていませんでした。

カイアファは、「あなた方は、何も分かっていない」、と言いました。しかし、実は、何も分かっていなかったのは、カイアファ自身であったのです。

この時、カイアファの人生の分かれ道に、主イエスの十字架が立っていました。

もし、カイアファが、ルー・ウォーレスや、李基豊牧師のように、その十字架を、自分の救いとして、受け入れていたら、彼の人生は、全く変えられたことでしょう。

意図せずして語った、主イエスの十字架の意味を、自分の人生を通して、証しする生き方へと、導かれた筈です。

分かれ道に立つ十字架を、どう捉えるかによって、私たちの人生は、決まっていきます。

更に、ヨハネによる福音書は、それに付け加えて、語っています。

「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを、一つに集めるためにも死ぬ」。

御言葉は、主イエスが死んでくださるのは、ユダヤ人の救いのため、だけではないのだ、と言っています。世界の各地に散っている、神の子とされる人たち。

ユダヤ人であろうが、ローマ人であろうが、日本人であろうが、中国人であろうが、或いは、韓国人であろうが、すべて、神の子として、生かされる人たちが、今、この主イエスの死によって、ひとつに集められる、というのです。

主イエスの十字架の恵みは、カイアファが考えていたよりも、遥かに偉大なのです。

カイアファは、ただユダヤ人の存続のみを、考えていました。イエスという男は、ユダヤ民族を救うために、死ななければならない、と考えました。

しかし、主イエスの、十字架の御業は、ユダヤ人だけでなく、世界中の、すべての人々を救い、すべての人々を、神の子として、呼び集めるために、成し遂げられたのです。

すべての人々を、神の国に、招き入れるために、主イエスは、十字架に死なれたのです。

たとえ人々が、気付かなくても、神様は、すべての人を、招いていてくださいます。

その中には、勿論、私たちも入っています。私たちも招かれているのです。招かれて、教会に、呼び集められているのです。

私たちは、皆、生まれも、育ちも、環境も、それぞれ異なった中で、生きてきました。

そういう者たちが、この教会において、一つに集められているのです。

ばらばらに散っていた者が、同じ神の子である、という理由だけで、一つにされています。

そして、お互いに、兄弟姉妹と、呼び合っています。とても不思議なことだと思います。

育ちも、生き方も違っている者たちが、なぜこのように、集まることができるのでしょうか。

それは、お互いが、同じ主イエスの十字架を、見上げているからです。

一般論ではなくて、この私にとっての、十字架の意味を、絶えず、問い続けていきたいと思います。

私たちにとって、唯一の救いの道である、十字架。

これによって、今、自分は、救われ、生かされ、教会に集められている。

その十字架を、いつも見上げ、感謝しつつ、ご一緒に歩んで行きたいと思います。