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柏牧師:過去の礼拝説教

「死を悼むイエス様の涙」

2016年08月07日 聖書:ヨハネによる福音書 11:28~44

先程読んで頂きました御言葉の中に、聖書で一番短い節があります。

35節、「イエスは涙を流された」。この御言葉です。英語では、「Jesus wept」と、二つの言葉だけです。一番短い言葉ですが、この言葉は、多くのことを語っています。

今朝は、この、主イエスの涙について、ご一緒に考えていきたいと思います。

エルサレム近くの村、ベタニアに、マルタとマリアという、姉妹がいました。その姉妹の弟、ラザロが死にました。

主イエスは、ラザロが死んでから、4日後に、漸くベタニアに到着しました。

その主イエスを、姉のマルタが、出迎えます。

マルタは、最愛の弟、ラザロを失ったことを、本当に深く嘆き、悲しみました。

しかし、その悲しみの只中で、主イエスと、出会いました。そして、主イエスが、傍にいてくださるということが、どんなに深い慰めであるかを、知りました。

悲しみの只中でも、私は一人ではない。主イエスが、私の傍にいてくださる。そのことがどんなに大きな慰めであるか。そのことを、改めて知ったのです。

マルタは、主イエスと、話した後、家に戻って、妹のマリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」、と耳打ちしました。

愛と慰めの主が、あなたを、呼んでおられる。あなたの名を、呼んでおられる。

だから、急いで行きなさい。マルタは、妹のマリアに、そう言いました。

名前を呼ばれる、ということは、私たちが、日常的に、体験することです。

生まれた時には、親に呼ばれ、学校では、先生や友達から、名前を呼ばれます。

しかし、私たちが、何よりも、大切にしなくてはならないのは、主イエスに呼ばれている、ということです。私は、主イエスに覚えられている。そして、主イエスに名前を呼ばれている。

そのことが、どんなに、嬉しいことであるか。それが、本当に分かった者は、主イエスが、同じように、すべての人を覚えて、名前を呼んでくださっている、ということをも、知らされます。

そして、その時、愛する人々に、「主イエスが、あなたの名前を、呼んでくださっていますよ」、と知らせたくなります。それが伝道です。

愛する人に、「主イエスが、あなたの名前を、呼んでいますよ。どうぞ、主イエスのところに、急いで行ってください」、と声をかける。それが、伝道をする、ということです。

マリアは、マルタから告げられて、主イエスの許に、駆けつけました。そして、主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたなら」、と嘆き、訴えたのです。

恐らく、マリアは、この言葉を口にすると、もうその後、声が続かなかったのだと思います。

言葉が続かず、涙が溢れ出たのです。

主イエスは、そのマリアの涙を、ご覧になりながら、「心に憤りを覚え、興奮された」、と書かれています。主イエスが、憤られたというのです。

主イエスは、何故、憤られたのでしょうか。一体、何に対して、憤られたのでしょうか。

それは、このように人々を、苦しませ、深い悲しみに、陥れている、死の力に対する、憤りであったのです。

愛する者たちを、脅かし、悲しませる死。人々を、こんなにも深い悲しみに、陥れてしまう死。その死の力に対する、怒りであったのです。

43節で、主イエスは、大声で、「ラザロよ、出て来なさい」、と叫ばれました。この大声にも、そのような憤りが、込められている、と思います。

今朝の箇所では、「憤り」、「興奮」、「涙」、「悲しみ」といった、主イエスの、お心の動きが、はっきりと語られています。福音書の中で、主イエスのお心が、ここまで、はっきりと、書かれている箇所は、珍しいと思います。

人々のために、主イエスが、このように激しく、お心を傾けてくださっているのです。

神であられるお方が、悲しまれ、涙を流され、お心を、揺り動かしてくださっている。

私たちは、この主イエスの、憤りや涙を、大切なもの、限りなく尊いものとして、感謝をもって、受け止めていきたいと思います。

少し横道に逸れますが、最近、死を、意識的に、軽く捕えようとする、風潮があるように思えます。これは、日本だけではなくて、世界的な傾向のようです。

アメリカやイギリスでも、葬儀を、教会で行うことを、敢えてせずに、ホテルの部屋などを借りて、行うことが、多くなっているそうです。そこでは、讃美歌を歌わずに、例えば、フランク・シナトラが歌った、「マイ・ウェイ」という歌を、歌ったりする。

歌の中の「私」という言葉を、「彼」に置き換えて、「彼は、自分の信じる道を歩んで、自分の人生を生き抜いた」、と歌うそうです。

日本でも、「千の風になって」という歌を、葬儀で歌うことがあるそうです。

「私のお墓の前で泣かないでください/そこに私はいません/眠ってなんかいません/千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」。

こういう歌を歌って、何とか悲しみを、和らげようとするのです。その気持ちは、よく理解できます。そう思いたい、と願う気持ちは、切ないほど、よく分かります。

しかし、厳しいことを、敢えて言うようですが、私は、これは、空しい試みだと思います。

死の現実の厳しさから、一時的には、逃れられるかもしれません。しかし、そういう歌を歌っても、愛する者を失った悲しみが、本当に癒されることはありません。

愛する人は、千の風になって、吹きわたっている。そう思い込もうとしても、愛する者を失った、心の空しさが、埋められる訳ではありません。

「私のお墓の前で泣かないでください/そこに私はいません」、とこの歌は歌っています。

墓の中に私はいません、と歌っても、墓の中には、確かに、遺体や遺骨があるのです。

そのことは、ごまかしようがありません。

このような死の、厳しい現実を、突き付けられて、泣くほかないところに、主イエスが、来てくださいました。主イエスは、必ず来てくださいます。

人の死に当たって、私たちにできること。それは、悲しみの中にいる人に、必ず来てくださる、主イエスの、慰めを祈ること。それだけです。それしかできません。

主イエスは、ラザロのお墓の前で、涙を流されました。神であられるお方が、涙を流されたのです。聖書は、このような、主イエスのお姿を、伝えることを、ためらっていません。

主イエスは、「涙を流された」。何故、涙を流されたのでしょうか。

あまりにも深く歎き、悲しむ人々の姿を見て、主イエスご自身も、悲しみに覆われたのです。

泣く群れと、一つになって、泣かれたのです。高いところから、見下ろしているのではなくて、人間の弱さを、ご自分のこととして、受け止めて、くださったのです。

ですから、この主イエスの涙は、「共感の涙」です。

主イエスは、涙する人と、共に泣くほどに、共感されたのです。

こんなにも深く、悲しんでいる人たちを見て、憤られ、涙を流されたのです。

人間は、何とかして、死の厳しさを、忘れようとします。でも、主イエスは、そうはなさっておられません。死を、真正面から、見つめておられます。

愛する者を失った、人々の悲しみ、嘆きを、ご自分のものとされて、ご自身も悲しみ、歎き、苦しんでおられます。

しかし、神様ご自身が、このような御姿を、私たちに、示してくださっている、ということの中に、私たちの希望があります。悲しむ私たちと、共に悲しんでくださる、神様がおられる。

そして、涙を流していてくださる。憤りを憶えていてくださる。そういう神様が共にいてくださる。そこに私たちの希望があるのです。

御言葉は、私たちの涙が、神様に、受け入れられていることを、教えてくれています。

主イエスは、マタイによる福音書の、山上の説教で、こう言われました。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは、慰められる。」

同じ御言葉が、ルカによる福音書では、こう語られています。「今、泣いている人々は、幸いである。あなた方は、笑うようになる。」

どうして、悲しむ人々が、幸いなのでしょうか。慰められるからです。

誰によって、慰められるのでしょうか。誰よりも、主イエスによって、慰められるからです。

どうして、今、泣いている人々が、笑うようになるのでしょうか。

主イエスが、共にいてくださるからです。共にいてくださる、主イエスが、その涙を拭ってくださり、立ち上がらせて、くださるからです。

ゴードン・ジェンソンという人が書いた、「涙は神のおわかりになる言葉です」、という詩があります。このような詩です。

『なぜ涙が出てくるのか不思議に思いました/物事はあてにしていたような結果になりませんでした/しかし神はそばにお立ちくださり/落ちる涙をご覧になっています

神はうちひしがれた魂の涙をごらんになっています/神は人と一緒に泣いて手を取ってくださいます/涙は神のおわかりになる言葉です

悲しみがあなたをみじめにする時、涙を流させるのです/その重荷にとうていたえきれないように思うでしょう/しかし神はあなたをお忘れではありません

神の約束は変りません/涙は神がおわかりになる言葉です』

私たちが、深い悲しみの中にいる時。誰も、この悲しみを、分かってくれないと、孤独の中にいる時。そして、人知れず、涙を流している時。

そんな時も、神様は傍にいてくださり、落ちる涙を、ご覧になってくださっている。

私たちが、担いきれない重荷に、押しつぶされ、惨めに涙する時も、神様は、私たちのことを、決して忘れてはおられない。

私たちの流す涙を、神様は、知っていてくださる。私たちの流す涙は、神様が、お分かりになる言葉なのだ。この詩は、そう詠っています。

一昨年の12月に、102歳で召された、この教会の大先輩、武信正子姉妹が、詠まれた俳句にも、同じような意味の句が、あります。このような句です。

『流れ星 神持ち給う 涙壺』。

私たちが流す涙を、神様は、しっかりと受け止めてくださる。夜空の、流れ星を見た時、武信姉妹は、流れ星のような涙が、神様によって、確かに、受け止められていることを、示されたのです。 『流れ星 神持ち給う 涙壺』。

どのような状況で、この句が生まれたのかは、存じませんが、もしかしたら、深い悲しみの只中で、詠われたのかもしれません。

私たちの流す涙が、神様によって、しっかりと受け止められ、理解されていることは、大きな慰めです。

そればかりでは、ありません。神様も、一緒になって、泣いてくださる、と御言葉は言っているのです。これに優る、慰めはありません。

ある人が、この主イエスの涙について、このような黙想をしています。

「ラザロが、もうすぐ復活することを、承知しておられたならば、なぜイエスは泣かれたのであろうか。だが人間は、すべてのものを疑い得ても、この涙だけは、疑うことができない。

この涙がもたらした炎は、人類の心の内に、消し難い痕跡を、残したのである。

人間は、この涙を、信じることはできた。そして世の終わりまで、信じ続けるであろう。

死に赴く者にとって、この涙は、死の闇を照らす光である。消えることのない、星のごとく輝く光である。」

主イエスの涙は、感傷的な涙ではありません。死に打ち勝つカを持つ、強い涙です。

私たちが、死に赴こうとするときに、私たちを支えるものは、この主イエスの涙です。

この涙を、思い起こしたなら、自分は、闇に赴くのではない、ということを、はっきり知ることができる筈です。いのちの光に、導かれて、死に赴くことを、確信できる筈です。

私たちは、そのような確信を、この主イエスの涙を、想い起すことによって、新しくすることができるのです。

「イエスは涙を流された」、と書かれています。この言葉は33節にある、マリアやユダヤ人たちが泣いた、というのとは、違う言葉が使われています。

辞書を引きますと、「わっと泣いた」という意味だと書かれています。主イエスの両目に、どっと涙が溢れ、頬を伝ったのです。

その涙を見ながら、人びとは、「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」、と言いました。この「愛しておられた」、という言葉は、「友」という言葉から、出ている言葉です。

ユダヤ人たちは、主イエスに、友を失った者の涙を、見たのです。

私たちは、自分が死ぬ時、主イエスが、ご自身の友として、私のために、涙を流していてくださる、と信じて死ぬことができるのです。

しかも、その涙が、死に対する、激しい憤りと、共にあるのです。

そのように、心に憤りを覚えながら、主イエスは、墓に葬られた、ラザロを見たい、と言われました。38節の御言葉は、こう語っています。

「イエスは再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った」。

当時の墓は、石で蓋をされていました。主イエスは、「その石を取りのけなさい」と言われたのです。この主イエスのお言葉を聞いた時に、マルタはためらって、応えました。

「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。

しかし、そのマルタに、主イエスは言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。

主イエスは、マルタに、あなたは、もう忘れてしまったのか、と言われたのです。

「わたしは復活であり、命である。あなたはこのことを信じるか」、と主イエスに問われた時、マルタは、「はい主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」、と確かに応えたのです。

主イエスは、マルタに、その言葉を、思い起こしなさい、と言われているのです。

その心があるならば、墓石に、はっきりと、向かい合うことができる筈だ。その石を、取りのけることが、出来る筈だ。それなのに、なぜためらうのか。なぜ脅えるのか。

あなたの信仰は、どこに行ってしまったのか。これは、叱責ではなく、励ましの言葉です。

私たちの信仰も、死の現実に、しばしば圧倒されます。愛する者が、死んでしまった時に、空しい思いに、捕らわれ、うろたえてしまいます。

しかし、主イエスは、ここで、「神の栄光が見られると、言っておいたではないか」、と言われるのです。私がそう約束したではないか、と語りかけておられるのです。

その約束の言葉に、立ち帰りなさい、と励ましてくださっているのです。

そして、主イエスは、「ラザロ、出て来なさい」、と大声で叫ばれました。

光が闇を打ち破る、主のお言葉です。死の壁を突き破る、叫びです。

御言葉は「ラザロが出て来た」とは書いていません。「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。

死んでいた人が、今、生きている者として、出てきたというのです。今や、生きた者となっている、というのです。いえ、もっと正確に言えば、主の御言葉によって、生かされた者として出てきた、と言っているのです。

命を呼び覚ます、主の叫び声によって、生きた者とされて、出て来たのです。

命の光に照らされて、闇から光へと、出て来たのです。

「出て来なさい。墓の中から出てきなさい」。

この言葉は、ラザロだけでなく、私たちすべてに語られている言葉です。

「出てきなさい。神様のいない世界に、留まっていないで。

出てきなさい。希望のない世界に、留まっていないで。

出てきなさい。悪臭の漂う世界に、留まっていないで。

出てきなさい。闇の中に、留まっていないで。

私のもとに出てきなさい。光の中に出てきなさい。」

この主イエスの御声を聞いて、出て行くのがキリスト者です。

主イエスは、今も涙を流しながら、大声で、私たちに、叫んでおられます。

愛の叫び声を、上げておられます。私のもとに、出て来なさい、と叫んでおられます。

その声を聞いて、私たちも、ラザロと一緒に、出て行くのです。

古い生活から、出ていくのです。神様のいない世界から、出て行くのです。

希望のない世界から、出て行くのです。闇の中から、出て行くのです。

命の世界へ、希望の世界へ、光の中へと、主イエスの招きに応えて、出て行くのです。

主イエスの涙に励まされて、出て行くのです。それが、私たちの救いです。

そこに私たちの希望があります。そこに私たちの喜びがあります。

この主の、涙の叫びを、心から感謝したいと思います。