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柏牧師:過去の礼拝説教

「美しいことをなさる方」

2016年07月17日 聖書:ヨハネによる福音書 10:31~42

今朝の御言葉は、何とも恐ろしい語り口で、始まっています。

「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」。

何か、切迫した状況を、想い起させるような、言葉です。暴動か何かが、起こっているかのような、ただならない雰囲気を、感じさせる言葉です。

しかし、実際には、この時、エルサレムの町は、神殿奉献記念祭、ハヌカーと呼ばれる祭りで、賑わっていました。暴動どころか、人々は、祭りを喜び、楽しんでいたのです。

それにも拘らず、主イエスの周りだけには、祭りの楽しみとは、無縁のような、緊張感が漂っていました。人々は、主イエスを、殺そうとしたのです。

「石を取り上げた」と言う言葉は、小さな石を指でつまんだ、というようなことではありません。石を抱え上げた、という意味の言葉です。ここには、明らかな殺意が、示されています。

なぜ、ユダヤ人たちは、祭りの最中なのに、主イエスを、殺そうとしたのでしょうか。

それは、今朝の御言葉の直前の、10章30節で、主イエスが、「わたしと父とは一つである」、と言われたからです。

主イエスは、はっきりと、ご自身と、父なる神様は、一つである、と断言されました。

それを聞いて、ユダヤ人たちは、主イエスを、殺そうとしたのです。

それに対して、主イエスは、こう言われました。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」。

ユダヤ人たちが、答えます。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。

ユダヤ人たちは、主イエスに対して、あなたは人間なのに、自分を神だと言っている。

それは、神を冒瀆することだ。許すことはできない、と言って、殺そうとしたのです。

通常の人間に、対してであれば、この指摘は、正しいのです。

人間の歴史の中で、自分は神だ、と言って、世を支配しようとした人は、何人もいます。

もし、主イエスが、まことの神で、ないならば、主イエスも、そのような、傲慢で、不遜な人間の一人である、ということになります。

ですから、石で打ち殺すことは、当然である、ということになります。

ガリラヤ出身の田舎者が、私は神だ、と言っている。そんな神を汚す言葉は、聞きたくない。

主イエスを、ただの人間と見るならば、そう思うのが、当然です。

誰かが、「私と、父なる神とは、一つである」、と言った時、それは、神を冒瀆する言葉である、と判断する。殆どの場合、その判断は、正しいのです。

でもこの時だけは、間違っていました。それは、相手が、まことの神であったからです。

この時、ユダヤ人たちは、「あなたは人間なのに、自分を神としている」、と言いました。

そう言って、まことの神を、裁こうとしたのです。

その時に、明らかになったことがあります。それは、人間なのに、自分を神としているのは、実は、ユダヤ人の方であった、ということです。

以前にもお話ししましたが、C.S.ルイスという人が書いたエッセー集に、「被告席に立つ神」、という本があります。ルイスは、その中で、こう言っています。

本来、被告席に立つべきは、私たちなのに、私たちは、神様を被告席に立たせて、「神様、これはどういうことなのですか。どうしてこういうことが、起きるのですか。あなたは一体、何を考えているのですか」、と問い詰めている。

そして、その答えが、自分にとって、都合のいい時だけ、神を信じようとしている。

その答えが、納得出来る時だけ、受け入れようとしている。しかし、それは信仰ではない。

それは、自分が、神の座に座っている、ということである。ルイスは、そう言っています。

しかし、実際には、そう人が、大勢います。自分が、納得できることだけを、受け入れる。

神様がどういう方であるかは、聖書ではなくて、この私が決める、というのです。

それは、突き詰めて言うと、自分を神としている、ということです。それと同じことが、ここでも起こっているのです。

そこで、主イエスは、二つのことを仰いました。一つは旧約聖書の引用です。

「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか」。

主イエスは、旧約聖書の中でも、人間が、神々と呼ばれているではないか、と言われたのです。これは、詩編82編6節からの引用です。詩編82編6節はこう言っています。

『私は言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。』

ここで、神々と呼ばれているのは、イスラエルの指導者たちのことです。

神様から、特に選ばれて、御言葉を受けて、用いられた人たちのことです。

しかし、その人たちは、御心に適うような、働きをしませんでした。

それでも尚、神様は、その人たちのことを、神々と呼んでいらっしゃるではないか。

そして、そのような聖書の言葉が、廃れることがないのを、私たちは知っている。

そうであるならば、神の言葉、そのものである自分が、神の子だと、なぜ、言ってはいけないのか。主イエスは、そう言っておられるのです。これが、第一のことです。

主イエスが、二番目に言われたことは、主イエスの業を見なさい、ということです。

主イエスは、こう仰いました。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

前半の「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい」、という言葉は、とても強い表現の言葉です。

この言葉を直訳しますと、「もし、私が、私の父の業を行っていないならば、あなたたちは、私を信じてはならない」、となります。

「もし、誰かが、父の業を行っていないなら、あなたたちは、その者を信じてはならない」、と主イエスは、言っておられるのです。

しかし、私は、父の業を行っている。そのことを、しっかりと見てもらいたい。

私が、これまで行ってきたことを、よく見て貰いたい。それが、何を意味しているのか。

そこに、どういう神様の御心が、示されているのか、それをよく見て貰いたい。

そうしたら、私と父が、一つだということが、分かる筈だ。

私が信じられなくてもいい。私が神だということを、信じることができないなら、それでもいい。しかし、私の業だけは、信じて欲しい。

父なる神様が、私を通して、愛の業を、始めておられる。そのことだけは、どうか信じて貰いたい。私自身のことは、どうでも良い。でも、父なる神様の御業が、もう始まっているのだ。

どうか、そのことを、よく見て欲しい。そして、それを、信じて貰いたい。

その御業が、よく見えるならば、あなた方は、気付く筈だ。私の中に、父なる神様が、生きて、働いておられる、ということに、気づく筈だ。主イエスは、そう言っておられるのです。

ご自分のなさった業について、主イエスは、32節で、「父が与えてくださった多くの善い業」と言っておられます。

ここで言っている、「善い業」という言葉は、「美しい業」とも、訳せる言葉です。

主イエスの業。それは、単なる、善い業ではありません。美しい業でもありました。

私たちは、善いことに、心を惹かれます。また、実際に、善いことをしようと、心掛けます。

しかし、善いということは、時々人を、傲慢にすることがあります。

善いことをすると、自慢したくなります。善い事をしていると思うと、同じように出来ない人を、裁きたくなります。ですから、私たちは、自分が善いことをしている、と思ったなら、注意しなくてはいけないと思います。

私たちは、善いことよりも、美しいことを、心掛けたいと思います。

インドの聖人、マザー・テレサの口癖は、「神のために美しいことを」、という言葉でした。

彼女は、本当の美しさを、大切にしました。彼女が、カルカッタでしたことは、とても善いことです。素晴らしいことです。でも彼女は、「善いことをしよう」、とは言いませんでした。

「美しいことをしましょうね」、と言い続けながら、あの働きをしたのです。

彼女は、こう言っています。「あなたたちができることは、私たちにはできません。私たちができることは、あなたたちにはできません。でも一緒になれば、神様のために何か美しいことができます」。

もし、私たちが、マザーが言うように、お互いに、欠けを補い合って、協力し合っていくならば、この教会全体が、美しくなると思います。

神様のために、何か美しいことが、出来ると思います。

茅ヶ崎恵泉教会が、そのような美しい教会になりますように、祈っていきたいと思います。

主イエスは、ご自分の業を、美しい業、と言われました。そして、その美しさを、見て貰いたい、と言われたのです。

主イエスは、色々な業をなさいました。この先の11章では、死んで4日も経っていた、ラザロという人を、生き返らされました。

五千人もの人たちを、僅か5つのパンと、2匹の魚だけで、満腹にされたこともありました。

また、38年間も、病気で苦しんでいた人に、癒しを与え、目の見えなかった人に、光を与えました。石で殺されそうになっていた、姦淫の女を、赦してあげて、解放されました。

私たちは、そういう業を見ると、その偉大な力に、圧倒されてしまいます。

でも主イエスは、それらを見て、私の力を知って欲しい、とは言われませんでした。

そうではなくて、美しさに目を留めて欲しい、と言われたのです。美しさを、見てもらいたい。

そうしたら、それらの業の、本当の意味が分かる、と言われたのです。

では、この主イエスの業の、美しさというのは、どこから出ているのでしょうか。

偉大な力からでしょうか。輝かしい栄光からでしょうか。犯しがたい権威からでしょうか。

それらは、皆、本当に素晴らしいものです。でも、主イエスの業の、美しさは、それらから出ているのでは、ありません。

主イエスの業の中にある、美しさ。その美しさの元にあるもの。それは何よりも、愛です。

主イエスの行われる、どんな業にも、どんな奇蹟にも、この愛が、込められています。

愛のない業、愛のない奇蹟を、主イエスは、起こされたことは、ありませんでした。

この愛の業を、愛の奇蹟を、主イエスは、今も、起こされています。

2千年前だけではありません。今も、私たちのために、美しい愛の業、愛の奇蹟を、起こしてくださっているのです。

そして、それを見て欲しい。それに気付いて欲しい、と言っておられるのです。

先週、「天国からの奇跡」、という映画を、見に行きました。

実際にあった出来事を、映画化したものでした。

脳から腸への指令が、突然、届かなくなって、腸の消化機能が、全く失われてしまう、という難病に罹った、少女アナ。激しい痛みと、吐き気と、高熱に苦しみますが、地元のテキサス州では、治療の方法が、見つかりません。

母親のクリスティは、最後の望みをかけて、名医として知られている、ボストンの病院の医師のもとへ、アナを連れて行きます。

しかし、世界的に有名な名医なので、9ヶ月先まで、予約が入っていると、一旦は、入院を断られてしまいます。ところが、不思議にも、二日後に、入院できることになります。

その名医や、医療チームが、アナを治そうと、あらゆる努力を尽くします。

しかし、根本的な治療の方法はなく、後どれ位、命を繋げるか、分からないままに、応急処置を施してもらって、自宅に戻ります。

そんな時、アナが、10メートルもある木から、落ちてしまう、という事故を起こします。

ところが、大きなけがもなく、アナは、奇蹟的に助かります。

そして、何と、彼女の、難病が癒っていくのです。木から落下したショックで、脳の神経が、回復したのかもしれないが、現代の医学では、説明できないことだ、と医師は語ります。

娘の病気のために、母親のクリスティは、信仰を失っていましたが、この出来事を通して、信仰を取り戻しました。そして、教会で証しします。

難病が、癒されたことも大きな奇蹟ですが、それに至るまでに、いくつもの小さな奇蹟があった。失業する危険を冒してまで、医師の予約を、取ってくれた病院の受付の人。

仕事を休んでまでして、アナを元気づけようと、ボストンの町を案内してくれた人。

お金がない家族に、コンピューターの故障を装って、手書きで、航空券を発給してくれた人。そして、全力で、治療に当たってくれた、医師とそのチームの人々。

これらのすべての人々の、一つ一つの、小さな愛の業。それこそが、奇蹟なのです。

奇蹟とは、このような小さな愛の行為なのです、とクリスティは語ります。

そして、彼女は、このような愛の行為の中に、神様の業を見て、信仰を取り戻したのです。

今朝の御言葉にあるように、神の業を見て、信じたのです。

困難の中で、どこに神様はいるのだろうかと、嘆き、叫ぶ時、周りにいる一人一人の、愛の行為が、実は、天の神様が、送ってくれた奇蹟なのだ、と知らされたのです。

私自身も、これまでの歩みを、振り返った時、私のような者にも、神様は、すばらしい御業を、なしてくださった、と思わざるを得ません。

深い考えもなく、たまたま入学した、青山学院中等部。たまたま入った学校で、たまたま出会った担任が、熱心に勧めてくれて、教会に行った。そして、家族も教会に通い出した。

その教会の老牧師と、父が、なぜか意気投合して、僅か8か月後に、一家6人が揃って、洗礼を受けた。

結婚した時は、未信者であった家内が、転勤先のシアトルで、とても親切なクリスチャンの女性に助けられ、洗礼へと導かれた。

香港勤務時代に、島隆三という素晴しい牧師に出会い、信仰の覚醒を、経験した。

そして、献身した後、もし、御心なら、愛する茅ケ崎で、教会に仕えたい、と秘かに祈っていたら、何と、そんなわがままな願いまで、聞き入れられた。

何よりも、驚いていることは、当初は、私の献身に、反対していた家内が、今は、私よりも熱心に、教会に仕えている、ということです。

これら、すべては、私にとって、奇蹟の連続です。そして、その一つ一つの出来事の背後に、神様の御手の業が、見えます。

神様の、業の故に、今の私があることを、私は、信じています。

牧師といえども、聖書に書かれている、すべてを、完璧に理解している訳ではありません。

しかし、私の上になされた、神様の業は、すべて、よく分かります。信じることができます。

ある人が、「信仰とは、人間的な偶然を、神様による必然である、と捉え直す決断である」、と言いました。

その通りだと思います。皆さんも、ご自身の、今までの歩みを、振り返られた時、同じような思いに、導かれることと、思います。

主イエスは、たとえ、私のことが信じられなくても、私の業だけは、信じて欲しい。

父なる神様が、私を通して、愛の業を、あなたの上に、なしておられる。

そのことだけは、どうか信じて貰いたい、と言われています。

どうか、私を通して、なされる、神の業を、見て貰いたい。そこに目を留めて貰いたい、と言われているのです。

そうしたら、私が行っている業が、父なる神様の業であることが、分かる筈だ。

なぜなら、父なる神様の御心もまた、愛だからです。父なる神様の、業の元にあるものも、また、愛だからです。

ですから、主イエスは、「わたしと父とは一つである」、と言われたのです。

このお方は、神様です。まことの神様です。私たちを救い出すために、この地上に来てくださった神様です。

私の業を良く見てもらいたい。そうしたら、わたしと父なる神様が、一つであることも、あなた方に分かる筈だ、と主イエスは仰っています。

それに対して、「はい主よ、その通です」、と応えて生きていく。それが私たちの信仰です。

その信仰の中に、希望を見出しながら、私たちは生きています。

そして、これからも、そのように生き続けたいと、心から願います。