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柏牧師:過去の礼拝説教

「愛に根差し、愛に立つ教会」

2016年04月17日 聖書:エフェソの信徒への手紙 3:14~21

ただ今、エフェソの信徒への手紙3章14節~21節を読んで頂きました。

この個所で、パウロは、祈りをささげています。パウロは一体何を祈っているのでしょうか。今朝は、このパウロの祈りについて、ご一緒に、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

先ず初めに、パウロが祈っている姿勢に、注目したいと思います。

パウロは、「御父の前にひざまずいて祈ります」と言っています。 ひざまずいて祈る。

別に珍しいことではない。良くあることだ、と思われる方も、おられると思います

しかし、これは、当時のユダヤ人の、祈りの姿勢としては、異例なのです。当時、ユダヤ人は、立って祈りました。立ったままで、両手を広げ、手を上に向けて祈ったのです。

ところが、パウロはここで、ひざまずいて祈ります、と言っています。

これは、神様の前に、ひれ伏して祈る姿を、想像させます。

この時、パウロは捕らわれの身でした。恐らくローマの牢獄にいたと思われます。

皆さん、暗い牢獄の中で、一人ひれ伏して祈る、パウロの姿を、想い起して下さい。

しかも、祈っているのは、自分のことではありません。自分が早く、この牢獄から出られるように、と祈っているのではありません。

そうではなくて、遠く離れたエフェソの教会のために、牢獄で、一人ひれ伏して、祈っているのです。それは、主に献身した者の、この上もない聖なる姿です。

私は、キリスト教の素晴らしさの一つは、ここにあると思います。

パウロは、いつ死刑にされるか、分からないような状況の中で、遠く離れた教会のために、信仰の友のために、ひたすら祈っているのです。ひれ伏して祈っているのです。

教会は、このような祈りによって支えられてきました。

第二次世界大戦中に、治安維持法違反の容疑で、一斉に検挙された、ホーリネス教会の牧師、134名。その内、7名が殉教しました。

投獄された、牧師たちの手記や、見舞いに行った、家族の手記が、残されています。

それを読みますと、獄中にあって、牧師たちは皆、熱心に祈っています。

その祈りの殆どが、教会と、その信徒に、向けられた祈りです。

自分は投獄され、教会は強制的に、解散させられている。そういう中にあって、どうか教会が守られますように、信徒の信仰が、守られますように、とひたすらに祈っているのです。

自分のことではなく、教会と信徒のために、祈っているのです。

2千年に亘って、教会は、このような祈りによって、支えられてきました。

いえ、今も、支えられています。今も、教会を支えているのは、牧師たちの、そして信徒である皆様方の祈りです。皆様方が、それぞれの場所で、ひざまずいて、祈ってくださる祈り。

その一つ一つの祈りによって、教会は支えられているのです。

教会が、教会であり続けるためには、この祈りが、どうしても必要なのです。

祈られていない教会は、立ち続けることが出来ません。

皆様方、お一人お一人の熱い祈りによって、この茅ケ崎恵泉教会は、支えられているのです。今一度そのことを覚えて、改めて、お互いに、感謝し合いたいと思います。

パウロは、ここで、エフェソの教会のために、ひざまずいて祈っています。

では、その祈りの内容とは、どのようなことでしょうか。

先ず初めに、パウロは、父なる神様が、エフェソの信徒たちの、「内なる人を強めてくださるように」、と祈っています。

私たちは、「内なる人」と聞きますと、直ぐに、人間の精神面のことを、言っているのだと思いがちです。しかし、ここでパウロが言っている、「内なる人」というのは、肉体に対する、精神を指しているのではありません。

ここで言われている「内なる人」とは、「キリストにある生活」、のことを言っています。

もっと簡単に言うなら、ここで言っている、「内なる人」というのは、「信仰生活」のことです。

パウロは、「神様、どうか、あなたの豊かな栄光と、御霊と、御力を総動員して、エフェソの人たちの、信仰生活を強めてください」、と祈っているのです。これが第一の祈りです。

私たちが、教会のために祈る時、真っ先に祈るべきことは、教会員一人一人の、信仰生活が強められますように、という祈りである筈です。

なぜなら、それが、教会員にとっても、教会にとっても、最も大切なことだからです。

次に、パウロが祈っているのは、そのように内なる人、つまり、信仰生活が強められた結果、二つのことが、実現しますように、ということです。

その一つは、エフェソの人たちの心の内に、キリストが住んでくださるように、という祈りです。「心の内にキリストを住まわせ」、とありますが、この「住まわせ」という言葉は、一時的な滞在を、意味する言葉ではありません。そうではなくて、「定住する」という意味の言葉です。

つまり、心の中に、主イエスが定住されますように、という祈りなのです。

一時的な滞在なら、それは「お客様、ゲスト」です。しかし、定住されるなら、その人はそこの住人です。

主イエスが、お客様のように、出たり入ったりするのではなくて、住人として、ずっと心の中に、住んでくださいますように、とパウロは祈っているのです。

お客様であれば、都合の悪い時には、「すみませんけれども、ちょっと出て行ってください」、ということが出来ます。しかし、住人であれば、そうはいきません。

ある英語の解説書は、この箇所を説明してこう言っています。「イエス・キリストを、あなたのパーマネント テナントにしなさい」。

パーマネントとは、「永久の」という意味です。テナントというのは、昔の言い方をすれば、「店子」という意味です。

主イエスが、あなたの、永久の店子になってくださり、あなたのうちに、住みついてくださいますように。その主イエスによって、生きることが出来ますように。

パウロは、そう祈っているのです。

内なる人、つまり信仰生活が、強められた結果、実現すること。その第二は、「愛による生活が、出来るようになる」、ということです。

主イエスが、心の中に住まわれることによって、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」生活が実現します。

なぜなら、主イエスの本質は、愛だからです。主イエスご自身が、愛の源だからです。

「根ざす」というのは、植物を例に取った言い方です。また、「しっかりと立つ」というのは、建築物になぞらえた言い方です。

私たちが、何に根ざし、何の上に立っているかによって、私たちの人生は決定されます。

主イエスが、譬え話で語られたように、良い地に根ざした種は、100倍にも成長しますが、石の上や、荒地や、茨の中に、根を下ろした種は、実を結びません。

また、岩の上に立てた家は、洪水にも耐えられますが、砂の上に建てた家は、直ぐに流されてしまいます。果たして、私たちはどうでしょうか。パウロは、心を込めて祈ってます。

植物が、深く根を下ろすように、建物が、しっかりと土台の上に立つように、あなた方の信仰生活を、主イエスの愛に根ざし、主エスの愛の上に立て上げなさい。

植物が、根から養分を、力強く吸い上げるように、主イエスの愛を、豊かに吸い上げなさい。建物の土台が、しっかりしていれば、地震や、暴風雨にも耐えることができる。そのように、あなた方の信仰の土台を、しっかりと、主イエスの愛の上に、据えなさい。

このパウロの祈りに応えて、私たちの生活を、主イエスの愛に根ざし、主イエスの愛の上に、しっかりと立て上げていきたい、と願わされます。

パウロは、更に続いて、祈っています。

「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになりますように。」

「人の知識をはるかに超える愛」とあります。本当に、その通りだと思います。

私たち人間は、主の愛の広さ、長さ、高さ、深さを、知り尽くすことはできません。

「あぁ、初めて、主の愛が分かった。何という大きな、何という深い愛、なのだろう」。そのように、感激して涙し、心震える感動に、満たされたとしても、それは主の愛のほんの一部に過ぎません。主の愛の大きさを、知り尽すことなど、私たちには出来ないのです。

私の友人に、熱帯魚を飼っている人がいます。水槽に、綺麗な熱帯魚が、泳いでいるのを見るのは楽しいものです。

しかし、ある時、この人が、熱帯魚のために、どれほどの時間と、労力を使っているかを聞いて、驚きました。

規則正しく、適量の餌を与えることは、勿論です。それ位なら、私にも出来そうです。

しかし、そんなものではないのです。定期的に、水槽の中の砂や藻を、きれいに洗い、頻繁に水を取り換え、水中の酸素の量を調節し、温度を一定に保つ。

それらの作業を、実に丁寧に、こまめにやっているのです。聞いていて、本当に大変だなぁ、と思いましいた。でも、水の中を泳いでいる魚は、そんなことを全く知りません。

餌は自然に与えられ、きれいな水と、きれいな砂が、いつも備えられていることを、当然のように思っています。

快適な温度も、飼い主のお陰で保たれている、などとは思っていません。

皆さん、私たちは、この水槽の中の、熱帯魚の様なものでは、ないでしょうか。

神様が、私たちのために、どれほど大変ことをしていてくださるか、私たちは知りません。

背き続け、裏切り続ける私たちを、尚も愛し続けてくださる、ということは、神様といえども、簡単なことではないと思います。そのことを、私たちは知りません。

この愛は、私たちの知識や、思いを、遥かに超えています。しかし、良く考えてみますと、人の知識を、遥かに超える、愛を知るというのは、おかしな表現です。

知識を超えているものを、どうやって、知ることが出来るのでしょうか。

人の知識を、超えているのですから、知ることは出来ない筈です。

パウロがここで言っているのは、主の愛は、計ることが出来ないほどに大きい。知り尽くすことが出来ないほどに大きい。そのことを、是非知って欲しい、ということだと思います。

ここでパウロは、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さと言っていますが、この四つのことは何を表しているのでしょうか。

ある人は、ここに、愛の象徴としての、十字架を見ています。

十字架の縦の木の、上の端は、天の御国の、高さにまで達している。

そして、下の端は、陰府の深さにまで、達している。

十字架の横に、組まれた木の両端は、限りなく広がる、地平線を示している。

その長さ、広さは、地上のすべての人々を、覆っている。

そのように解釈しています。とても心惹かれる解釈です。

このキリストの愛の広さについて、黙想していた時、示されたことがあります。

突然ですが、皆様はB’z というロックバンドをご存知でしょうか。今迄で、最も多くのレコードを売った音楽ユニットだそうで、今でも、根強い人気を保っています。

このB’zの作品に、「愛のままに、わがままに、僕は君だけを傷つけない」、という曲があります。もう20年以上も前に歌われた曲です。

累計で、200万枚も売り上げた、B’z最大のヒットシングルです。

私は、B’zのサウンドは好きですが、この曲の、歌詞のある部分だけは、ちょっと困るなぁ、と思っています。こういう歌詞です。

「そう 信じる者しか救わない せこい神様拝むよりは 僕とずっと一緒にいる方が 気持ちよくなれるから」。

B’zは、信じる者しか救わないのは、せこい神様だって、歌っているのです。

皆さん良くご存知の、ヨハネによる福音書3:16には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、と書かれています。「信じる者が一人も滅びないで」、とあります。

ということは、B’zによれば、聖書の神様も、「信じるものしか救わないから、せこい神様だ」、ということになるのでしょうか。でも、皆さん、ちょっと考えてみてください。

ただ信じるだけで、誰でも、どんな人でも、救ってくださるというのは、せこいどころか、もの凄く広い愛なのではないでしょうか。

主イエスの愛は、その広さにおいては、全世界の、あらゆる時代の、あらゆる種類の、あらゆる人々を、一人残らず救おうとされる、とてつもなく広い愛なのです。

そして、その長さにおいては、いつまでも待ち続けてくださるほどに、忍耐強い愛なのです。

パウロは、コリントの信徒への手紙一の、13章で言っています。

「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」。これは、主イエスの愛について、語っている言葉です。

私たちが、主イエスのことを忘れ、主イエスから離れ、自分勝手な生き方を、していたとしても、主イエスは、ずっと待っていてくださいます。

何年でも、何十年でも、何百年でも、何千年でも、主イエスは、私たちが立ち返るのを、限りない忍耐をもって、待っていてくださいます。

イースターに、井上篤兄と堀口実佳姉が、洗礼の恵みに与りました。井上兄、24歳、堀口姉50歳での受洗でした。また、昨年のイースターには、樋口輝夫兄が、洗礼を受けられました。79歳での受洗でした。

受洗に至るまでの年数は、それぞれ異なっています。しかし、主イエスは、生れる前から、お一人お一人を、救いへと、招き続けて、いてくださったのです。

ひたすらに、待っていてくださったのです。私たちは皆、主イエスによって、待たれた者です。いえ、今も、待たれ続けています。

私たちが、主イエスから離れて、さ迷っている時、主イエスは、私たちが離れて行った、その場所に、ずっと佇んで、私たちが帰って来るのを、ひたすらに待ち続けてくださっています。あの放蕩息子の父親のように、いつまでも、待ち続けてくださっています。

主イエスの愛。それは、賞味期限のない愛です。でも私たちの愛には、賞味期限があります。期間限定の愛です。何年も、何十年も、待ち続けることができる、愛ではありません。

しかし、主イエスの愛は、期間限定の愛ではないのです。賞味期限がないのです。

ですから、私たちは、帰って行くことが出来るのです。この主イエスの愛の長さが、私たちの救いであり、私たちの希望なのです。

主イエスの愛。その高さは、限りなく、気高い愛です。

ご自分を、十字架につけた人をも赦し、その人たちをも、救おうとされる愛です。

これは、人間の中には、絶対に見られない愛です。

主イエスの愛の高さ、それは、天に達するまでに、気高い愛です。

主イエスの愛。その深さは、陰府にまで、下って行かれる、深い愛です。どん底まで、降りて行ってくださる愛です。

ここには神などいない。そう思うような悲惨な場所にも、主は必ず、共にいてくださり、愛の御手を差し伸べてくださっています。ある人が、この神様のことを、「地獄の1丁目まで、出張される神」、と言いましたが、まさにその通りなのです。

主イエスの愛は、陰府にまで、下って行かれて、死んだ者にさえ、もう一度福音を聞かせて、救いへと招かれる愛です。

ですからパウロは言っています。主イエスの愛の、外側に置かれている人など、一人もいない。主イエスが、訪ねて行かれないような場所は、どこにもない。

だから、主イエスの愛が、人を捕え損なうようなことは、決してないのだ。

パウロは、確信をもって、そう言っているのです。

一人の人を救うために、どこまでも探し求める広さ。いつまでも忍耐して待ち続ける長さ。天の極みをも、越える気高さ。陰府にまで下られる深さ。

それらすべてが、私たちの知識を、遥かに超えています。それが、主イエスの愛だ、というのです。私たちは、この愛を、頭では理解していても、本当に、身をもって、捕らえてはいないのではないかと思います。

実際に、私たちは、主イエスの愛にしても、神様の愛にしても、小さくしか見積もっていないのではないでしょうか。いつも、主の愛を、過小評価してしまうのです。なぜでしょうか。

それは、一つには、自分の罪のせいだろうと思います。

こんなにも、大きな罪を犯している自分が、赦される筈がない、と思い込んでいるからです。

しかし、それは、主イエスの愛、神様の愛が、こんなに大きな筈がない、と思っていることと同じことです。

いくら、神様の愛が、大きくても、この私の罪は、赦してくださらない、と思い込んでいるのです。しかし、神様の御心は、そうではありません。神様の御心は、すべての罪を、赦してくださることなのです。無制限に、赦してくださることなのです。

そのために、主イエスは、すべての罪を負って、十字架に架かってくださったのです。

神様の中には、そのような無限の愛が、満ち満ちています。

この無限の愛を、自分のものとして、しっかりと握ることが出来ますように、お互いに祈り合い、励まし合って、歩んで行きたいと思います。