「新しい人が造る新しい平和」
2016年04月03日 聖書:エフェソの信徒への手紙 2:11~22
今朝の御言葉は、「実に、キリストは、わたしたちの平和であります」、と語っています。
また、キリストは、「十字架によって、敵意を滅ぼされました」、とも言っています。
今、これらの御言葉は、私たちに対する、大きなチャレンジとして、迫ってきます。
なぜなら、私たちの住んでいる、今の世界には、あまりにも「敵意」が、満ちているからです。敵意によって、平和が、崩されているからです。
世界各地で、次々と起こるテロ。止まるところを知らない、テロの恐怖で、世界中の人々が、脅えています。価値観や、主義・主張の違いが、激しい敵意を生み出し、無差別テロへと、繋がっています。
一方、日本においても、残虐な殺人事件が、相次いでいます。それも、家庭内での、殺人事件が、多く起こっています。
ここにも、人間の心に、深く浸透している、敵意を見ることができます。
しかし御言葉は、「実に、キリストは、わたしたちの平和であります」、キリストは、「十字架によって敵意を滅ぼされました」、と告げています。
「実に、キリストは、わたしたちの平和であります」。この言葉は、原文では、非常に強い語調で、語られています。
「実に、キリストこそは、私たちの平和、そのものなのです」、という意味の言葉です。
私たちは、「キリストこそ、私たちの救いである」、とよく言います。
また、「キリストこそ、私たちの希望である」、とも言います。
或いは、「キリストこそ、私たちのまことの友である」、と言うこともあります。
しかし、「キリストこそ、私たちの平和である」とは、あまり言わないのではないでしょうか。
しかし、御言葉は、「キリストこそ、私たちの平和そのものです」、と力強く宣言しています。
なぜなら、キリストは、「二つのものを一つにし、御自分の肉において、敵意という隔ての壁を、取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を、廃棄された」からだ、と言うのです。
キリストは、二つのものを一つにした、と語られています。ここで言われている、二つのもの、というのは、直接的には、ユダヤ人と、異邦人のことを指しています。
当時、ユダヤ人は、自分たちは、神様から律法を与えられ、それを守っている、選ばれた民であるとして、律法を持たない、異邦人を軽蔑していました。
11節、12節にあるように、異邦人は、選ばれた民の徴である、割礼を身に受けていない。
神の約束である、契約を与えられていない。だから神を知らずに、希望のない生き方をしている。ユダヤ人は、そう言って、異邦人を軽蔑していたのです。
異邦人の家に入ると、汚れると言って、ユダヤ人は、異邦人の家に、入りませんでした。
しかし、これなどは、まだ生ぬるい方です。
ユダヤ人は、異邦人のことを、彼らは、地獄の火を燃やす、薪となるために、神に造られたものだ、とさえ言っていたのです。
また、異邦人の母親が、陣痛で、ひどく苦しんでいる時に、手助けをしてやることは、律法で禁じられていました。それは、この世に、もう一人の異邦人を、産み出す行為だからです。
もし、ユダヤ人の青年が、異邦人の青年と、結婚したりするなら、その青年の葬式が、行なわれたそうです。異邦人と結婚する、ということは、死に等しいことだったからです。
それほど、ユダヤ人は、異邦人を、忌み嫌っていたのです。
心の中で、隔ての高い壁を、築いていたのです。いえ、心の中の、見えない壁だけではありません。見える形での、隔ての壁も、現実にあったのです。
エルサレムの神殿には、堅固な石の壁が、築かれていて、そこには『ここより先に入る外国人は、死をもって罰する』、と書かれていました。
律法を守らない異邦人が、神殿の奥に入ることは、絶対に許さなかったのです。
ユダヤ人と、異邦人の間には、このような、隔ての中垣がありました。
軽蔑したり、されたりしている。そういう両者の間には、当然、良い関係は、築かれません。
両者の間に、敵意があったことは、明らかです。
現代でも、イスラム国と自称する、過激派テロ組織や、それに共鳴する、世界各地のテロ集団は、欧米諸国に対する、激しい敵意を、共有することによって、結束を固めています。
それに対して、ある国の、ある大統領候補のように、善良なイスラム教徒までも、排斥しようとする声が、大きくなっています。
敵意が、敵意を生み出す連鎖が、起こっています。そして、それが、テロと報復の連鎖に、繋がっています。
しかし、御言葉は言っています。キリストは、「二つのものを一つにし、御自分の肉において、敵意という隔ての壁を、取り壊しました」。
「御自分の肉において」、ということは、主イエスが、十字架において、その肉を裂かれたことを、言っています。
主イエスは、私たちの罪を、代って負ってくださって、十字架に死んでくださった。
主イエスが、十字架において、その肉を裂き、血を流されたことによって、私たちは、罪の中から、贖い出された。この、十字架の愛の中に入れられる時、私たちは、初めて、敵意の壁を、取り壊すことができます。
異なった主義・主張を持つあの人も、主イエスの十字架の愛の対象なのだ。主イエスは、あの人のためにも、死なれたのだ。このことを、心から受け入れた時に、初めて、敵意の壁が、くずされていきます。
主イエスは、すべての人のために、ご自身の命を、献げられました。ユダヤ人とともに、異邦人をも受け入れて、愛されました。
福音書には、ローマの百人隊長の部下を癒す、主イエスのことが、書かれています。
シリア、フェニキア生まれの、女性の娘を癒した、主イエスのお姿が、伝えられています。
十字架の傍らで、「本当にこの人は、神の子だった」、と言い表したのは、異邦人の百人隊長でした。主イエスは、ユダヤ人にも、異邦人にも、同じ愛を示されたのです。
お互いが、この愛の中に、入れられている時に、隔ての中垣は、取り除かれます。
しかし、今日、国と国、階級と階級、人種と人種との間に、いまだに隔ての中垣があります。一つになるのを、妨げている、様々な壁があります。
キリストの愛なき社会は、いつでも、どこでも、隔ての中垣が存在します。
15節に、キリストは、「規則と戒律ずくめの、律法を廃棄されました」、と書かれています。
それでは、主イエスは、規則や律法の代わりに、何を置かれたのでしょうか。
主イエスが置かれたもの。それは。愛です。主イエスは、愛を置かれたのです。
神様に対する愛と、人に対する愛を、置かれたのです。
世の中に、まことの平和や、秩序をもたらすものは、規則ではなくて、愛である。
愛こそが、様々な規則を超えて、まことの平和と、秩序をもたらすのだ、と言われたのです。
第二次世界大戦中の、フランスに伝わる、エピソードがあります。
数人の兵士たちが、戦友の遺体を、葬りたいと、フランス領の墓地まで、運んで行きました。
その墓地を管理する、教会の司祭は、「亡くなった兵士は、カトリック教会の信者であったのですか」、と穏やかに尋ねました。兵士たちは、「知らない」と答えました。
すると、その司祭は、「ここはカトリック教会の墓地なので、残念ながら、そういうことでは、教会の墓地に、埋葬する許可を、与えることはできません」、と言いました。
そこで、兵士たちは、悲しみながら、戦友を引き取り、教会墓地を巡る、垣根のすぐ外側に、遺体を埋葬しました。
翌日、兵士たちは、墓が無事であるかどうかを、見届けようと思って、戻って来ました。
ところが、どうしたことでしょうか、どこにも墓は、見当たらなかったのです。
垣根のすぐ外側に、埋めたのです。でも、どこにも、土を掘ったり、土を盛ったりした跡を、発見できなかったのです。兵士たちは、困惑し、失望しつつ、立ち去ろうとしました。
その時、前の日に会った司祭が、近づいてきました。実は、司祭は、彼らの求めを拒絶したため、非常に心を痛めていた、というのです。
教会の規則とは言え、主イエスの愛の教えに、背くことではないか、と悩んだそうです。
そして、朝早く起きて、自分の手で、戦死した兵士の遺体を、教会墓地の中に入れるために、ある作業をしたのです。皆さん、この司祭は、一体、何をしたと思いますか。
埋葬した兵士の遺体を、掘り起こして、墓地の中に埋葬し直した、のでしょうか。
そうではないのです。この司祭は、墓を移動させたのではなく、「垣根を移動させた」のです。この司祭の行為は、主イエスが説かれた、愛のなせる業です。
規則は、垣根を築きましたが、愛は、それを移動させたのです。
主イエスの愛が、規則を超えて、人と人との間に立てられた、垣根を移動させたのです。
15節に、「こうしてキリストは、双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げて、平和を実現し」、と語られています。
「二つのものが一つになる」ということは、人と人とが仲直りして、手を繋ぐ、ということではありません。二つのものを、造り替えて、新しい人を造るということです。
敵対していたものが、和解する、ということに止まらず、全く新しいものが、造られるのです。
罪と争いに生きる、古い人ではなく、十字架の恵みと、平和に生きる、新しい人に、造り替えられるのです。
主イエスは、ユダヤ人を、異邦人にされた訳ではありません。また、異邦人を、ユダヤ人とされたのでもないのです。あなたは、ユダヤ人にならなければいけないとか、異邦人にならなければいけない、などとは、一言も言われませんでした。
ユダヤ人は、ユダヤ人のままで、異邦人は、異邦人のままで、新しい人に、造り替えられなさい、と言われたのです。
その時、もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、すべての人が、キリストにあって、一つとされる平和が、実現するのです。
ノーベル賞作家の、大江健三郎さんは、この新しい人に、大きな期待を寄せています。
大江さんは、エフェソの信徒への手紙2章15節の御言葉に、希望を見出しています。
そして、この御言葉から、歌をつくっています。
その歌は、2004年のNHK全国学校音楽コンクールにおいて、高校の部の課題曲となりました。その歌詞を紹介させていただきます。
「私は好きだった、/信じることの できる自分が。
人を、生きている世界を/その未来を 信じると/私がいう時/星ほどの数の 子供たちが/信じる、といっているのを感じた。
ある日、信じると言えなくなった。
私が生まれる四十年前の夏/一瞬の光が/子供たちを/ガスにしてしまったと知って。
それから/信じると言おうとすると/ガスになった子供たちが、こちらを向く。
ガスになった目で、私を見ている。
いま、私は/古い 古い 手紙を、教えられた。
争う者らを 和解させる/「新しい人」が来た、という手紙。
私は、胸のなかでたずねる。
もう一度、「新しい人」は来るだろうか?
世界じゅうの子供たちが/それぞれの 言葉で、答える。
—-きっと来てくれる、心から信じるなら。
「新しい人」に、私は祈っている/来てください、あなたと働きたい私らの/いま、ここへ!」
大江さんは、この歌の中で、原爆で死んだ子供たちに、思いを寄せつつ、エフェソの信徒への手紙に書かれている、「新しい人」に、望みを託しています。
大江さんが、若者たちに、言いたかったこと。それは、敵意を滅ぼし、和解をもたらすための、「新しい人」になってほしい、ということです。
大江さんは、自分を含めた、「古い人」に絶望します。そしてこう語ります。
「私ら、この世界の古い人である大人たちは、人類すべてを、死滅させるかもしれない、核兵器に頼って、地球の平和が保てると、思い込んでいるのです。……
それが「古い人」の世界です。そこで私はもう一度、この単純な言葉を書きつけて、皆さんへの呼びかけを結びます。敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になってください。「新しい人」を目指してください。」
大江さんは、敵意と争いの中にある、古い人に絶望しつつも、新しい人に、確かな希望を見出し、信じているのです。
では、大江さんが、望みを託している、「新しい人」は、どこで見出すことが、できるのでしょうか。争う者らを、和解させる、「新しい人」は、どこにいるのでしょうか。
そんな人は、どこを見渡しても、見出すことができないように、思えます。
しかし、聖書の御言葉は、単なる、願いや、理想論を、語っているのでは、ありません。
ここで、「一人の新しい人」、あるいは「一つの体」、と言われているのは、一人の個人のことではなくて、実は、「教会」のことなのです。
ユダヤ人であり、異邦人でありながら、全く新しい人にされた、人々の群れ。それが教会なのです。その群れが、まことの平和、まことの平安をもたらすのです。
御言葉は、まことの平和が、新しい人の群れである、教会の中に、実現している、と語っています。
主イエスの十字架の愛によって、意見や立場の違う人々が、一つとされ、十字架の下に、皆が等しく跪く時、敵意という隔ての壁が、取り払われるのです。
そういうことが、教会の中に、実現するのだ、と言っているのです。
初代教会の中には、もちろんユダヤ人がいました。しかし、異邦人もいたのです。
異邦人も合わせて、「一つの体」とされていたのです。それは、主イエスが、十字架の上で、人間の敵意を、全部受け止めてくださり、それを滅ぼしてくださったからなのです。
ですから、教会の中には、ユダヤ人と、異邦人が、いなければならないのです。
教会は、同じような考えや、同じような立場の人たちが集まる、仲良しクラブではありません。教会の中には、様々な考えを持った人たち、異なった環境の中に生きる人たち、違う立場に立っている人たちがいます。
いえ、いなければならないのです。いるのが、キリストの教会なのです。
様々な人たちが、一つとされているのが、教会なのです。教会が、「一つの体」、「新しい人」、なのです。
主イエスの十字架が、敵意を滅ぼしたことを、この世にあって、証しする存在。
教会は、そういう群れで、なければならないのです。
大江さんが、「新しい人」に託した希望。それを、担っていくのは、教会なのです。
そうであれば、私たちに、託された務めは、とても重要なものである、ということになります。もし、教会が、「新しい人」になっていないなら、この世に、希望はありません。
もし、教会の中で、二つのものが、一つとされていないなら、この世のどこに、それを求めることができるでしょうか。
もし、教会の中で、敵意の壁が、取り壊されていないなら、この世のどこで、それを見出すことができるでしょうか。
教会に生きる、「新しい人たち」の群れが、それを示していかなければ、平和への道筋は、見えてきません。
教会生活の中で、重要なことは、私たちの敵意が、十字架によって、滅ぼされていることです。そのような平和を生きるのが、教会です。
教会は、人間の、本来いるべき場所と、本来あるべき姿を、この世に、示していかなければなりません。そうでなければ、まことの平和は、実現しません。
本来いるべき場所とは、十字架によって示された、神様の愛の御手の中です。
本来あるべき姿とは、神様の愛の対象として、造られた+人間が、お互いに、愛を分かち合う姿です。
この後、讃美歌499番を、ご一緒に、賛美します。この讃美歌は、アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」を、讃美歌にしたものです。
讃美歌は、歌っています。「私たちを平和の道具とならせてください」。
これは、私たちの、祈りであると同時に、私たちに託された、使命でもあるのです。
私たちは、十字架の愛の中で、一つの体である、教会に入れられました。
私たちが、教会に入れられたのは、私たちに託された使命。平和の道具としての使命を、果たすためでもあるのです。
この後、私たちは、聖餐に与ります。聖餐は、主イエスの十字架によって、敵意が滅ぼされ、一人の新しい人、一つの体に、入れられたことを祝う、祝宴です。
聖餐を通して、主イエスの十字架によって、「一つの体」に造り替えられ、神様と和解させられていることを、深く味わいたいと思います。
そして、今、置かれている場において、平和を造り出す、新しい人になり、和解の使者の役割を、担わせて頂きたい、と心から願います。