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柏牧師:過去の礼拝説教

「キリスト・イエスか、バラバ・イエスか」

2016年03月20日 聖書:マタイによる福音書 27章11節~26節

映画やテレビドラマでは、必ずと言ってよいほど、悪役が登場します。また、歴史上の人物の中にも、悪役とされている人が、多くいます。

例えば、忠臣蔵に登場する、吉良上野介。実際に、どのような人であったかは、分かりませんが、物語の上では、もっぱら悪役です。

しかし、世界中で、最も広く知られている悪役と言えば、やはり、今朝の御言葉に登場してくる、ポンテオ・ピラトではないでしょうか。

ローマから派遣された、ユダヤの総督で、主イエスに、十字架刑を宣告した人物です。

この人は、2千年に亘る、教会の歴史の中で、ずっと悪役として、覚え続けられてきました。

先程、私たちが唱えた、「使徒信条」においても、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」、という言葉がありました。代々の教会は、この言葉を、繰り返して唱え続けて来ました。

ピラトは、たまたま、その時、ローマの総督であった。そのために、2千年に亘って、数え切れない人々から、主イエスを十字架に架けた人として、非難され続けて来ました。

そのことを思うと、ちょっと、「かわいそうだな」という気が、しない訳でもありません。

しかし、「使徒信条」において、ピラトは、単なる歴史上の人物として、登場しているのではありません。そうではなくて、ピラトは、人間の弱さ、人間の権威の愚かさ、人間の優柔不断さ。それらのものを、代表する人物として、覚えられているのです。

それが、使徒信条に、このピラトが、実名で登場してくる、まことの意味なのです。

ですから、私たちは、2千年も前にいた、一人の男のこととして、他人事のように、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」、と唱えてはならないと思います。

「そうか。2千年前に、ポンテオ・ピラトという、だらしない男がいたのか」。そのように、自分には関係ないことのように、呑気に唱えてはいけないのです。

ピラトが犯した過ちは、私たちも、犯すかもしれない、過ちなのです。ピラトは、私たちの、弱さや、愚かさや、優柔不断さの、象徴なのです。ピラトの姿は、この私の姿なのです。

私たちは、そのような思いで、このピラトという人を、捉えなくてはいけないのです。

 

そのピラトが、主イエスに発した、最初の言葉。それは、「お前がユダヤ人の王なのか」という言葉でした。原文では、「お前が」という言葉が、大文字で書かれています。

「お前が」、という言葉が、強調されているのです。

そのニュアンスを言い表すには、「一体お前が」、と訳した方が、良いかもしれません。

ユダヤの指導者たちは、主イエスのことを、「この男は、皇帝の許可もなく、自分をユダヤ人の王だ、と言っています」、と告発しました。

彼らは、何としても、主イエスを、十字架につけて、完全に抹殺したかったのです。

十字架は、ローマに対する反逆罪だけに適用される、最も残酷な死刑でした。

その十字架につけるために、「この男は、勝手に、ユダヤ人の王だと、自称している。だから、ローマに対する反逆者だ」、と告発したのです。

しかし、ピラトが見た、主イエスのお姿は、とても、ユダヤ人の王には、見えませんでした。

ここに来る前に、主イエスは、既に、散々叩かれ、唾をかけられ、嘲りを受けていました。

恐らく、その衣は汚れており、髪は乱れ、顔には血が滲んでいたことでしょう。

惨めで、みすぼらしいお姿でした。ですから、ピラトは、思わず問いかけたのです。

「エー、一体お前が、ユダヤ人の王だと言うのか?そんな訳ないだろう?」

当然、ピラトは、主イエスが、「とんでもない。私は、ユダヤ人の王などではありません」、と答えるものと、思っていました。

しかし、主イエスは、そうは言われませんでした。もし、この時、主イエスが、「私は、ユダヤ人の王、などではない」、と一言いえば、そこで裁判は、終わっただろうと思います。

主イエスは、死刑になど、ならずに済んだ、と思います。しかし、主イエスは、そう言われなかったのです。主イエスは、「それは、あなたが言っていることです」、と言われました。

もう少し分かり易く言えば、「あなたがそういうなら、その通りだ」、と言ったのです。

主イエスは、はっきりと、違うとは、言われませんでした。むしろ、「あなたの言うとおり、私は、ユダヤ人の王だ」、と認めておられます。

しかし、「私が、ユダヤ人の王だ」、と自分を言うとき、それは、あなたが、理解している意味とは、全く違う意味での王なのだ、と言われているのです。

私は、あなたが言うような、王ではない。 あなたがイメージしているような、王ではない。

しかし、私が、ユダヤ人の王である、ということは、否定はしない。

いや、私は、ユダヤ人だけの、王ではない。全人類の王として、ここにいるのだ。すべての者が、救われるために、ここに立っているのだ。主イエスは、そう言われたのです。

ピラトには、この主イエスのお言葉は、到底、理解できませんでした。

しかし、ピラトは、主イエスには、罪がないことは、分かりました。祭司長たちが、主イエスを引き渡したのは、妬みのためだと、分かっていたのです。

ですから、ピラトは、主イエスを、赦そうと思ったのです。ピラトは、そうしようと思えば、出来る立場にいました。その権限を、持っていたのです。

しかし、ここで、ピラトは、姑息な手段で、主イエスを釈放しようと、企てました。

民衆の気に入るような方法で、釈放しようとしたのです。当時、過ぎ越しの祭りの時には、総督は、囚人一人を、釈放する慣習がありました。いわゆる、恩赦です。

ピラトは、この慣習を使って、主イエスを、釈放しようとしました。

ピラトは、民衆に尋ねました。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

「バラバ」というのは本名ではありません。本名は「イエス」といったのです。

当時、「イエス」という名前は、大変ポピュラーな名前で、特に長男の名前として、広くつけられていました。ですから、イエスという名前の人が、たくさんいたので、ニックネームをつけて、呼んでいたのです。

このバラバというニックネームは、正確に言いますと、バル・アバというアラム語です。

バル、というのは「子」のことです。そして、アバというのは、「父」という言葉です。

そうしますと、バラバは、「父の子」、という意味になります。どんな人にも、父はいます。

そうしますと、誰もが、バラバである、ということになります。

ですから、「父の子」というのは、意味をなさない、変なニックネームに聞こえます。

しかし、当時、律法学者やラビの中で、特に人々から尊敬されていた人が、「アバ」と呼ばれていたようです。

恐らく、このバラバの父親は、優れた宗教的指導者で、民衆の間に、影響力を持った人であった、と思われます。その、「アバ」の子が、バラバであったのです。

このバラバと言われたイエスは、ユダヤの民族主義者で、何らかの騒動を起こして、捕らえられていたようです。そして、どうやら、民衆の間に、人気があった人のようです。

16節に、「評判の囚人」、と書かれていますが、これは、「悪評高き囚人」、というよりは、「民衆の間に、人気のあった囚人」、という意味だと思われます。

ピラトは、群集に、バラバ・イエスか、キリスト・イエスか、どちらを、あなた方は選ぶのか、と問いかけました。

恐らく、民衆は、キリストといわれるイエスを、選ぶだろうと、思っていたのです。

ところが、ピラトの予想に反して、民衆は、祭司長たちに扇動されて、一斉に、「バラバを」と叫びだしました。

祭司長たちは、「バラバは、我々のために、戦ってくれたではないか。でも、イエスは、我々のために戦ってくれなかった。だからバラバを選べ」、と言って民衆を扇動したのです。

人間は、いつもそうです。目立たない、愛の業よりも、目に付く、力による行動に、心を惹かれてしまいます。

思惑がはずれたピラトは、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」、と民衆の判断を、仰いでいます。

「一体、私は、どうすべきなのか。教えて欲しい」と言っているのです。権力者のピラトが、全く無力で、うろたえて、民衆に指示を仰いでいるのです。

すると民衆は、「十字架につけろ」と叫びました。「十字架につけるべきだ」、とピラトに指示しているのです。

このように見ていきますと、主イエスに、判決を下したのは、実は、ピラトではなく、群衆であったことが分かります。ピラトの裁判権は、群衆に奪われてしまっているのです。

バッハの、「マタイ受難曲」において、ピラトが、「どちらを釈放してほしいのか」と歌いますと、合唱が「バラバを!」と、大声で歌います。

更に、ピラトが、「ではキリストといわれているイエスの方は、どうしてほしいのか」、と歌いますと、再び合唱が、「十字架につけろ!」と、大声で応えます。

恰も、その場に自分がいて、群衆の歌声に、加わっているかのように、合唱の大きな歌声が、胸に迫ってきます。

自分が、その場にいたら、群衆の一人として、このように叫んでいたかもしれない。そう思うと、自らの罪深さに、心が震えます。

続いてピラトは、「いったいどんな悪事を、働いたというのか」と、民衆に問い掛けています。

「マタイ受難曲」においては、このピラトの言葉に続いて、ソプラノが美しく、このように歌っています。

「あの方は、私たちすべてに、善きことをしてくださいました。盲人の目を開き、足なえを歩ませ、ご自身の父の御言葉を語ってくださり、悪魔を追い払い、悲しみに沈むものを、奮い立たせ、罪人を受け入れてくださいました。私のイエスは、それ以外の、何もなさりはしなかったのです。」

民衆は、本当は、ここで、このソプラノが歌っているように、答えるべきであったのです。

あの方が、私たちに何をしてくださったか、その恵みを数えて御覧なさい。すべての善いことを、してくださったではありませんか、とソプラノは、呼びかけています。

しかし、群集は、その恵みを数えることを拒否して、「この男は、十字架で殺されるべきだ」と叫び続けたのです。

追い詰められた、ピラトは、この人は、何も悪いことは、していないではないか、と叫んでいます。もし、ここで、こんなことを言うのなら、始めからそう言えば、良かったのです。

この期に及んで、こんなことを言っても、もう間に合いません。手遅れです。

ここでのピラトは、最高権力者でありながら、民衆の声に動かされて、右往左往しています。

それは、この世の様々な力に、翻弄されて、右往左往している、私たちの姿とも重なります。

対照的に、この場面で、全く動かなかったのは、主イエスでした。

主イエスは、ピラトが「非常に不思議に思う」ほどに、黙って、動かれませんでした。

この主イエスのお姿は、イザヤ書53章において、預言されています。

イザヤ書53章7節は、こう語っています。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」 この預言の御言葉は、この時まさに、現実になりました。

主イエスの、王としてのお姿は、屠り場に引かれる、小羊のような、王のお姿です。

屠り場に引かれる、小羊のように、主イエスは、全くの沈黙の内に、私たちに語りかけられています。この主イエスの沈黙を、私たちは、本当に、理解しているでしょうか。

なぜ、主イエスという小羊は、屠り場に引かれなければ、ならなかったのか。

イザヤ書53章5節の御言葉は、その訳について、こう語っています。

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

御言葉は言っています。神様に背き続ける、私たちを救うために、私たちと、神様との間の、平和を回復するために、そして、私たちを、死に至る病から癒すために、小羊なる主イエスは、屠り場に引かれて、十字架の上で、刺し貫かれたのだ。

そのすべての出来事の中で、主イエスは、沈黙を守られました。ただ黙々と、十字架に上られ、その御体を裂き、血潮を流されたのです。

私たちは、この小羊なる、主イエスの贖いによって、滅びの死から、救い出されました。

沈黙し、ただ黙って、十字架を引き受けられた、主イエスの愛。私たちの思いを、遥かに超えた、限りなく大きな愛。その愛に、ただ感謝するほかない、私たちを示されます。

主イエスの沈黙を、黙想していた時、子供の頃に、教会学校で聞いた、よし子ちゃんの話を想い起しました。

よし子ちゃんは、10歳の女の子でした。よし子ちゃんのお母さんはとても優しい人です。

でも、顔の半分に、醜いやけどの跡が残っていました。

そのため、友だちから、「お前の母さんお化け!お前は、お化けの子」、と言われていじめられました。その度に、よし子ちゃんは、悔しくてなりません。だんだんと、お母さんと一緒に、出かけるのも、嫌になりました。

ある日、よし子ちゃんは、また友だちから、「お化けの子」と言って、いじめられて、泣きながら家に帰ってきました。そして、遂にお母さんに、当たってしまいました。

「お母さんは、何でそんな顔なのよ。きれいなお母さんだったら、良かったのに!」

お母さんは、とても悲しそうな顔をして、ただ「ごめんね‥‥」と言うだけで、その後は、沈黙してしまいました。よし子ちゃんは、自分でも、ひどいことを言ってしまった、と思いましたが、素直に謝ることができないで、家を飛び出してしまいました。

でも、行くところもないので、近所に住んでいる、叔母さんの家に行きました。話を聞いた叔母さんが、初めて、話してくれました。

「これはよし子ちゃんが、歩き始めた頃の、話なんだけどね。お母さんが一瞬目を離した隙に、よし子ちゃんが、ストーブに近づいていったの。

そして、沸騰したやかんに、手をかけようとしたの。でも、すんでのところで、気づいたお母さんが、ストーブの方に飛び込んでいって、あなたを助けたのよ。

その時、やかんが倒れていたら、よし子ちゃん、あなたは死んでいたかもしれないのよ。

そのあなたを、お母さんが体を投げ出して、助けてくれたの。でも、お母さんは、あなたの代わりに、顔に大やけどを負ってしまったの」。

それを聞いているうちに、よし子ちゃんの目に、見る見る間に、涙があふれてきました。

よし子ちゃんは、家に飛んで帰って、お母さんに謝りました。「お母さん、叔母さんから全部聞きました。さっきはあんなひどいことを言って、ごめんなさい。赦してお母さん」。

お母さんは、よし子ちゃんに言いました。「よし子、謝ることはないのよ。お母さんは、このやけどの痕が自慢なのよ。だって、お母さんは、よし子を守ることができたんだもの。わたしの大好きな、大事なよし子を、守ることができたんだもの。」

皆さん、私たちも、よし子ちゃんと同じです。よし子ちゃんが、「もっときれいなお母さんでいてくれたら、良かったのに」、と言ったように、主イエスに文句を言います。

「もっと力強く、世の中を、変えてくれれば、良かったのに。もっと、直接、私たちの役に立つことを、してくれれば良かったのに」、と文句を言います。

でも、主イエスは、黙って、それを聞いておられます。その主イエスの手と足には、十字架の釘跡が、無残に残っています。脇腹には、槍で刺された跡が、醜く残っています。

やがて、私たちが、主イエスの、まことの御心を知った時、「イエス様、ごめんなさい。赦してください」、と言って謝ります。

その時、主イエスは、きっとこう言われると思います。「謝らなくても良いのだよ。この傷跡は、私の自慢なのだから、なぜなら、私は、これによって、大好きなあなたを、救うことができたのだから。」

主イエスは、ただ黙って、十字架への道を、進まれました。ただ私たちを愛するが故に、私たちを救いたいとの、ひたすらな思いの故に、その身を裂かれ、血潮を流されました。

この主イエスの、計り知れない愛を、心から感謝し、この愛に、どこまでも、よりすがっていきたいと思います。