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過去の礼拝説教

「まことの光が来た」

2014年07月13日 聖書:ヨハネによる福音書 1:6~13

先週から、ヨハネによる福音書から、ご一緒に御言葉に聴いております。

先週、ご一緒に聴きました、1章1節~5節には、こう書かれていました。

「初めに言があった。神と共にあった。その言がすべてのものを作った。

その言は、人間に命をもたらす光であった。

その光は、暗闇の中で輝いたが、暗闇はそれを理解せず、消し去ろうとした」。

今朝は、それに続く御言葉ですが、ここに突然のように、ヨハネという人が出てきます。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」。

何故ここに、突然のように、洗礼者ヨハネが登場してくるのでしょうか。

今の私たちにとっては、洗礼者ヨハネという存在は、それほど近いものではありません。

けれども、この福音書が書かれた頃の人々にとっては、そうではなかったのです。

キリストの教会が生まれた後にも、依然として、洗礼者ヨハネの教えを奉じていた教団があったのです。

もしかすると、ヨハネこそメシア、救い主ではないかと、信じていた人々が、尚もいたのです。ですから、この福音書の記者は、主イエスと洗礼者ヨハネとの関係を、丁寧に語ることが、大切だと思ったのです。

そして、それによって、主イエスが、どのようなお方であるのかということを、もっと確かに示すことができるのではないか。そう考えたのです。

この洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で、多くの人々に洗礼を授け、「悔い改めよ。神の国は近づいた」、と語りました。

「神様が遣わされるメシアが、もう直ぐお出でになる。それなのに、あなた方は、今のままの生活を続けていて良いのか。メシアの裁きに耐えられるのか」、と人々に迫ったのです。

それを聞いて、多くの人々が、ヨハネのもとに来て、悔い改めの洗礼を受けました。

このヨハネについて、今朝の御言葉は、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」、と言っています。

ここに、「光について証しをする」、と書かれています。しかし、ちょっと考えてみてください。

光というものは、証しを必要とするでしょうか。光とは、誰が見ても分かるものです。

これが光ですよと、改めて教えてもらわなくても、見れば、それが光であることは、誰にでも分かります。ですから、「光について証しをする」ということは、必要ないのではないか。

私たちは、そう考えます。しかし、聖書は、そう言っていません。

「これが光ですよ」、「ここに光がありますよ」、と教えて貰わなくては、私たちには、分からない。そこに、私たちの問題があるのだ、と言っているのです。

9節、10節に、こう書いてあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」

ここで語られている光も、言も、主イエスのことを指していることは、明らかです。

主イエスが、まことの光として来たのに、人々は、それを光として認めなかったのです。

光を、光として認めない。それが、私たちの現実です。それが、私たちの問題なのです。

どうして、光が、光として来たのに、私たちには分からないのでしょうか。

その理由の一つは、闇が見えていないからです。

この世の中にある、闇が見えていない。或いは、自分の中にある、闇が見えていない。

だから、光が分からないのです。光を認められないのです。

闇とは、どういうものでしょうか。何も見えないところ、それが闇です。

闇の中では、自分の姿も見えません。自分のいる場所も見えません。それが闇です。

私たちは、光に照らされた時に、初めて、自分の姿、自分の居場所が分かるのです。

そして、今の姿ではなく、本来の姿、今の場所ではなく、本来の居場所を、示されます。

私たちは、人には、本来の在り方があると、漠然と思っています。

そして、それを、わきまえている積りになっています。

しかし、実際には、それを、確かなものとして掴んでいません。

人には、本来の生き方、本来の在り方がある。

そして、私たちが生きている、この世の中にも、この世本来の在り方が、ある筈です。

でも、もし、この世が、ただ偶然に、こうなっていると思っているなら、この世の本来の在り方を、捕えることはできません。

日本では、実に多くの人たちが、この世は、偶然にできたと思っています。

ビッグバンと呼ばれるような偶然な出来事によって宇宙ができ、その中に、偶然にできた地球があり、その地球の上に、偶然に生命が誕生し、そして、その繋がりの延長に、偶然に私たちが生まれている。そう思って生きている人が殆どです。

しかし、よくよく考えてみますと、偶然に生まれた人に、本来の生き方などあるでしょうか。

偶然に生まれ、偶然に生きているなら、本来の生き方など、掴み取ることは、できません。

しかし、聖書は言うのです。前回学んだ、1章3節の御言葉です。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。

この世は、イエス・キリストを通して生まれたのだ、と聖書は、はっきり言うのです。

だから、この世の根底には、イエス・キリストの思いがあるのだ。

何か、訳の分からないものによって、この世が出来上がっているのではなくて、イエス・キリストの思いによって、この世は出来ていて、今も動いているのだ、というのです。

そうであるなら、本来の生き方とか、本来の在り方というものが、ある筈です。

イエス・キリストの思い、イエス・キリストの在り方。

それと、ぴったりと一致する在り方が、この世の、そして私たちの、本来の在り方なのです。

それが、聖書の、最も基本的な主張です。

人間本来の在り方、などと言うと、何やら難しく聞こえるかも知れません。

しかし、そんなに難しいことを、言っているのでは、ありません。

大分前になりますが、アメリカのエッセイストの、ロバート・フルガムという人が、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」、という本を書いて、評判になりました。

その本の中で、フルガムさんはこう言っています。

「人間どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればよいか。

本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず、幼稚園で教わった。

人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。私はそこで何を学んだだろうか。—–

何でもみんなで分け合うこと。ずるをしないこと。人をぶたないこと。

使ったものは、必ずもとの所に戻すこと。ちらかしたら自分で後片付けをすること。

人のものに手を出さないこと。誰かを傷つけたら、ごめんなさいと言うこと。」

フルガムさんが言っているように、幼稚園で教わったことは、簡単なことです。

皆と仲良くすること、物を分け合うこと。傷つけたら謝ること。 皆、当たり前のことです。

でも、この簡単なこと、当たり前のことを、もし世界中の大人が実践したなら、世界は平和になる筈だ、とフルガムさんは言っています。その通りだと思います。

私たちが、幼稚園で教わったことを無視するから、世界に問題が絶えないのです。

世界に争いが絶えないのです。

特別なことではありません。簡単なこと、当たり前のことをすれば良いのです。

洗礼者ヨハネが、人々に呼びかけたこと。それも、特別なことではありません。

神様が、ちゃんと私たちに、戒めを与えてくれているのだから、それを、キチンと守りましょう、ということです。

神様の戒めというのは、十戒に記されているように、何も特別なことではありません。

十戒が間違っている、と思う人は、誰もいないと思います。

人を殺すなとか、盗むなとか、偽りを言うなということは、当たり前のことです。

その当たり前のことを、当たり前のように、実行しなさい、と言っているのです。

けれども、私たちは、この当たり前のことが、実行できないのです。

この戒めをきちんと守りなさい。そうすれば、あなたは、本来の人間の姿で生きられます。

そして、神様の御許という、本来いるべき場所に、いられます。

旧約聖書は、このことを、ずっと言い続けています。

しかし、この当たり前の戒めが、いくら示されても、私たちは、そのように生きることが、出来ないのです。

私たち人間の問題は、どう生きれば良いのか分からない、ということではないのです。

どう生きれば良いか。それは分かっているのです。それはもう、幼稚園で教わったのです。

でも、分かっていても、それが出来ない。それが、私たちの現実なのです。

正しいことが示されても、私たちは、そう生きることが出来ないのです。

フルガムさんの本を読んで、「そうだ、そうだ」と言っても、現実に私たちの生活は、その通りにいっていないのです。それだけ、私たちの中の闇は、深いのです。

ですから聖書が、「私たちの所に光が来た」という時に、その光が、何か正しいことを教えてくれる、ということだけでは、駄目なのです。

正しいことを何百回、何千回教えられても、私たちは変わらなかったし、また、これからも変わらないのです。ですから、そういうものは、まことの光にならないのです。

そうではなく、私たちが、人間本来の生き方が出来るように、私たちを立ち上がらせて、力を与えてくれるものでなければ、まことの光にはならないのです。

洗礼者ヨハネという人は、そのような光を証ししたのだ、と聖書は言っているのです。

7節後半には、「すべての人が彼によって信じるようになるためである」、と記されています。

「彼によって」とありますが、これを英語で言えば、普通は、「by him」です。

ところが、多くの英語の聖書は、これを「through him」、「彼を通り抜けて」と訳しています。

彼を通り抜けるのです。通り抜けて向こう側の光が見えてくるのです。

証し人とは、その存在が透けて、向こう側にある光を、見せる働きをする人のことです。

ある父親が、4歳の息子をミサに連れていきました。その教会には、何人かの人を描いた美しいステンドグラスがありました。

その子が、「あそこに見える人たちは誰」と、尋ねました。父親は、「あれは聖人たちだよ」、と答えました。

それから、何ヶ月か経った時、その教会の神父が、その子に尋ねました。

「お前は、聖人のことが分かるかな」。子どもは、元気に答えました。「もちろんだよ。聖人は光を通す人たちのことだよ。」

この子の言う通りなのです。洗礼者ヨハネは、自分の存在を、主イエスという光を通す、ステンドグラスにしたのです。

あなた方を、新しい命に、生かしてくださるのは、このお方なのだ。

本来の生き方が出来るように、あなた方を、立ち上がらせてくださるのは、このイエス・キリストなのだ。このお方が、本当の光なのだ。

このように、洗礼者ヨハネは、まことの光を、指し示したのです。

人を悔い改めさせることは、自分にもできる。でも、自分にできることは、そこまでだ。

人に新しい命を与え、その新しい命によって立ち上がらせて、その人本来の生き方をさせる。そういう力は、私にはない。そういうことをしてくださるお方は、私の後から来てくださる。

そのお方が、本当の光なのだ、とヨハネは言っているのです。

今日の御言葉の中に、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」、とあります。

私たちに新しい命を与え、私たちに本来の生き方をさせるために、主イエスは来てくださいました。でも、世は、主イエスを受け入れなかったのです。

受け入れないだけでなく、預言者イザヤが言うように、主イエスは「侮られて、人に捨てられた」のです。それは、2千年前だけでなく、今でもそうです。

今も、主イエスは侮られて、捨てられています。そして、侮っているのは、この私たちです。このお方を、捨ててしまっているのは、私たちです。

しかし、この方は、そういう仕打ちを受けながら、叫び声一つ挙げません。

ただ、じーっと、沈黙して、ご自身の負うべきものを、負われています。

まるで、私たちの罪が、ご自分の罪であるかのように、最後まで負い通されています。

この方の、そういうお姿を見るときに、私たちの心は、深い慰めに満たされます。

主イエスのお心を知りながら、それを無視して、「仕方がないじゃないか」と言い訳をしたり、「世の中はこんなもんだよ」と言って、諦めたりする私たち。

そんな私たちの、かたくなな心を、この主イエスのお姿は、春の日差しのように、溶かしてくださいます。その時、私たちの心に、慰めが溢れてくるのです。

私たちは、そういう主イエスのお姿の中に、まことの光を、見い出すのです。

続けて、このヨハネによる福音書は、語っています。

「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。

このイエス・キリストというお方の中に、まことの光を見い出している人に、神の子となる資格が与えられた、というのです。

神の子となる資格を与えた。こんな私たちに、その特権を与えてくださったのです。

しかし、ここで、一つ覚えておかなければならないことがあります。

それは、私たちが、神の子となる資格を与えられたからと言って、私たちが、主イエスと同じような存在になるのではない、ということです。

12節で「神の子」と訳されている言葉は、主イエスを神の子と呼ぶ時の言葉とは違います。

主イエスを神の子と呼ぶ時には、「神の息子」、と訳すべき言葉が、用いられています。

でも、ここで「神の子」と訳されている言葉は、一般的な「子どもたち」を意味する言葉です。

英語で言えば、主イエスを、神の子と言う時には、The Son of Godです。

しかし、12節での神の子は、children of Godです。

でも、神様との関わりは同じです。

こんな私たちが、神様を、父と呼ぶことが、できるようにされたのです。

なぜ、こんな私たちに、そのような大きな恵みを、与えてくださったのでしょうか。

ヨハネによる福音書と深い関係にある、ヨハネの手紙一の3章1節に、こう書かれています。「御父が、どれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。

何故、こんな私たちに、神の子の資格を与えられるのだろうか。

ヨハネの手紙は、それは、神様が、私たちを愛してくださったからだ。神様の愛が、それをしてくださったのだ。ただ、それだけなのだ、と言っています。

神様の愛が、私たちに注がれたが故に、私たちは神の子とされる。

ヨハネの手紙はそういうのです。本当に感謝です。

そして、更に、こういう言葉が続きます。13節です。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。

私たちは、例外なく、父親と母親を通して、この世に生を受けました。このことは、誰もが知っていることです。でも、神の子とされた者は、そうではない、と言うのです。

血によって生まれたのではない、それ以上の者だと言うのです。

私たちは、不用意にも、「子どもをつくる」、と言うことがあります。しかし、これは、大変不適切な言葉だと思います。

自分たちが子供をつくった。そう考える人は、子どもに向かって、「誰のお陰で生まれてきたと思っているんだ」、と言うかも知れません。

しかし、そういう傲慢な、肉の思いによって、神の子は生まれたのではありません。

たとえ私たちが、人間的には、肉の欲によって生まれたとしても、もし、私たちが、主イエスの中に本当の光を見い出したならば、その時、私たちは、神の子とされる、というのです。

もし、この主イエスというお方こそが、本当の光であると信じ、その方こそが、本当の慰めであると、見い出したならば、その時、私たちは、神様から生まれた者となる。

神様のものとなる。そのように、この福音書は断言するのです。

そのようにして、神様は、私たちを、ご自分のものとしてくださいます。

そのようにして、神様は、私たちを救ってくださるのです。

まことの光が、すべての人を照らすために、この世に来てくださいました。

人間として、本来の生き方が、どういうものかを知りながら、それを無視して生きている。

そんな私たちのために、この世に来てくださいました。

そして、暗闇の中で、光になって、輝いていてくださいます。

だから、私たちは、この世の中が、どんな暗闇の中にあるように見えても、希望を失わないのです。

光が来てくださいました。一番低いところで、一番暗いところで、輝いてくださる光です。

そこから、慰めを与え、力を与えてくださる。そういう光です。

そのことを喜び、そのことを感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと思います。