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柏牧師:過去の礼拝説教

「あなたは確かに見ているか」

2016年02月21日 聖書:ヨハネによる福音書 9:35~41

ヨハネによる福音書9章には、主イエスが、生まれつき目の見えなかった、男の人の目を、開かれたという、奇跡が記されています。

その男の人は、神様から見捨てられた存在だ、と思われていました。

神様が、この人に対して、背を向けていらっしゃる。だから、こういう不幸に遭っている。

周りの人も、そして、本人も、そう思っていました。

そういう人の目を、主イエスが、見えるようにしてくださいました。

それは、主イエスが、この人に向かって、あなたは神様に、退けられてなどいません。

決して、見捨てられてなどいません、と宣言された、出来事であったのです。

そして、目を開けて貰った、この人は、その宣言を、しっかりと聞き取ったのです。

しかし、皆さん、ここでちょっと考えてください。一体誰が、このような宣言を、確信を持って、言うことが出来るでしょうか。

「あなたは、神様から、退けられていない」。これは、本来は、神様ご自身でなければ、言い切ることが、出来ない言葉です。人間は、それを信じることは、出来ます。しかし、自分の言葉として、このように言うことはできません。

主イエスは、そのことを、癒しの出来事をもって、はっきりと示されました。

しかも、その出来事を、安息日に行われました。安息日には、今すぐ治療をしないと、命に関わる、という場合以外は、病気を癒してはいけない、と伝えられていました。

でも主イエスは、その言い伝えを、書き替えるようにして、癒しの業をなさいました。

それを知って、ユダヤ教の指導者たちは、イエスという男は、安息日の言い伝えを、守らなかったから、罪人である、と言い立てました。

そして、群衆は、皆、指導者たちを恐れて、彼らに同調しました。誰一人、主イエスを受け入れようと、しませんでした。

そういう中で、目を開けてもらった、この人だけが、主イエスを受け入れています。

たった一人で、周りの人たち全部を、敵にまわして、堂々と渡り合っています。

「あの方が、罪人かどうか、難しい話は分かりません。でも、あの方は、生まれつき見えなかった、私の目を開いてくださったのです。このことは、間違いのない事実なのです。

あの方は、神様の許から来られたお方です。そうでなければ、あのようなことは、決して出来ません。あなた方が、それを認めようとしないとは、全く呆れ返った話です」。

この人は、はっきりと、そう言い切っています。この人の言葉を聞いて、ユダヤ人たちは、どうしたでしょうか。悔い改めて、主イエスを、認めたでしょうか。

全くその逆でした。彼らは、この人を、ユダヤ人社会から、追放してしまったのです。

この9章は、長い物語のように思いますが、ここで語られている出来事は、一日の内に、すべて起こっています。

そうしますと、この人にとって、この一日は、ずいぶんと長かったと思います。

彼の人生の中で、最も長い一日でした。その長い一日の最後に、この人は、ユダヤ人社会から、追放されてしまったのです。村八分にされたのです。

このような村八分は、それから暫く後に、初代教会のクリスチャンたちも、体験しました。

主イエスを信じる者は、ユダヤ人社会から追放される。このことは、初代教会のクリスチャンたちも、実際に、体験したことであったのです。

ユダヤ人でありながら、ユダヤ人社会に入れて貰えない。ユダヤ人社会から、締め出されてしまう。これは、とても厳しいことでした。

幸いにして、今の私たちは、そういう状況にはいません。しかし、明治の初期には、同じように、村八分にされた、クリスチャンが、日本にも多くいました。

明治・大正期にかけて、北陸地方の伝道に、生涯をささげた、長尾巻という牧師がいました。

この長尾巻が伝道した大聖寺町、今の石川県加賀市は、浄土真宗の信仰が盛んで、当時、伝道が最も困難な地である、と言われていました。

この町の人たちは、長尾牧師一家に対して、激しい迫害を加えました。石を投げつけることなどは、日常茶飯事でした。

遂には、長尾家には一切ものを売らない、という運動を起こしました。兵糧攻めです。

そのため長尾巻牧師の奥様は、18キロも離れた町まで、買出しに行かなければならなかったのです。

長尾牧師も、初代教会のクリスチャンたちも、社会から追放され、生きること自体が、難しいような状況に耐えて、信仰を守ったのです。

そういう人たちにとっては、この目を癒された人というのは、自分たちの姿そのものでした。

ですから、この出来事が、教会の中で、大切な話として、語り伝えられてきたのです。

人々は、この男の人に、自分の姿を重ね合わせて、心を動かされながら、この話を語り伝えていったのです。

ここで、この人の立場に立って、この時の状況を、眺めてみたいと思います。

この人は、生れてからずっと、目が見えませんでした。ですから、「あぁ、目が見えてさえいれば」、といつも思ったと思います。

「目が見えれば、あの人たちの仲間に入ることができる。目が開いていれば、あの人たちと同じことができる」。ずっと、そう考えて来たと思います。

その人が、主イエスによって、思いがけずに、目を開いて頂いたのです。あぁ、これで、やっと、人並みの生活ができる。あの人たちの、仲間にも入れる。そう思ったと思います。

さぁ、これまでの人生を、取り戻そう。当然、そう思ったことでしょう。

でも、この人は、実際には、そういう道を、辿りませんでした。

漸く、仲間に入れて貰える、と思ったのに、逆に、追い出されて、しまったのです。

何故、そんなことに、なってしまったのでしょうか。主イエスを、信じようとしたからです。

もしこの人が、自分の生活を守ることを、第一にしていたら、そんな事はしなかった筈です。

指導者たちの、気に入るようなことを、適当に言って、自分の身の安全を図った筈です。

でもこの人は、そうしませんでした。主イエスを、決して、否定しなかったのです。

あの方は預言者です。あの方は神様のもとから、遣わされた方です。神様の御業を、為される方です、と言い切ったのです。

ついさっきまで、物乞いであった人です。ですから、指導者たちから、厳しく問われて、心身共に、疲れ果てていたと思います。それでも、この人は、必死に耐えたのです。

どんなに問い詰められても、どんなに裁かれても、そこに立ち続けたのです。

私を癒してくださった方は、こういうお方だ。この真実だけは、失いたくない。それだけは、たとえ追放されても、譲るわけにいかない。この人は、たった一人で、戦ったのです、

そして、そのために、ユダヤ人社会から、追放されてしまいました。

あれほど、仲間に入りたいと、思い続けていた、その社会から、追放されてしまったのです。

状況は、前よりも、もっと悪くなってしまいました。以前は確かに、目が見えませんでした。

そのために、辛いことも、たくさんありました。

しかし、皆に助けて貰っていました。皆の憐れみを受けて、生きていくことができていました。しかし、追放されてしまったら、もうそういう助けは、受けられません。

今まで、物乞いしか、して来なかった人です。何か、手に職がある訳ではありません。

社会から、追放されてしまったら、この先、どうやって生きていくのでしょうか。

どうして、この人は、自分にとって、損になるような道を、わざわざ選んだのでしょうか。

もっと賢く、人生を生きる道は、あった筈です。そういう人生が、漸く開けてきていたのです。

それなのに、なぜその道を取らないで、損になる道を、わざわざ選んだのでしょうか。

答えは、ただ一つです。もっと大切なことを、この人は見出したからです。

もっと大切なこと。それは、神様の約束でした。

「私がお前の神だ。私は、決してお前を見捨てない」。この約束でした。

これは、私たちにとっても、同じです。

私たちにとって、一番大切なものは、この神様の約束です。

私たちは、何も持たずに、生れてきて、何も持たずに、死んでいく。そう言われています。

しかし、実はそうではないのです。

私たちは、何も持たずに生れてきました。それは事実です。しかし、何も持たずに死んでいくのではありません。神様の約束を、握り締めて、死んでいくのです。

「私はあなたの神だ。私は決してあなたを見捨てない」。この神様の約束は、死んでも無くならないのです。

私たちは、この本当に確かなものを、持って行くのです。それが、私たちの幸いです。

この目を開けて頂いた人も、本当に確かなものを、見出したのです。ですから、ユダヤ人社会から、追放されることになっても、主イエスを、否定しなかったのです。

あんなに憧れていた、ユダヤ人社会に、仲間入りする機会が、開かれたのです。

しかし、この人は、もっと大切なものを、選び取ったのです。

この人は、何も持たずに、追放されました。しかし、たった一つ、彼についていったものがあったのです。それは、神様の約束です。

あなたは、決して見捨てられていない、私は共にいる、という神様の約束です。

彼は、これだけを、しっかりと握って、外に出て行きました。

今日の箇所の35節に、「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、…‥」とあります。

ここで、「出会う」、と訳されている言葉は、原文では、「見た」という言葉です。

ですから、「彼を見つけ出して」、と訳した方が、原文に忠実だと思います。

この人は、主イエスに、「見つけられた」のです。「見出していただいた」のです。

この人が裁かれている間、主イエスは、お姿を隠されています。この人は、たった一人で、ユダヤ人たちの裁判を、受けています。

しかし、主イエスは、この人が、追放されたのを、お聞きになって、また姿を現されています。主イエスは、たとえその場に、居合わせておられなくても、この人のことを、ずっと心に留めておられたのです。この人が、必死に耐えている姿を、ずっと心の目で、見ていてくださったのです。

この人が、最後まで耐え抜いて、主イエスに対する真実を、失うことがなかったのは、主イエスご自身が、いつも、その背後に、いてくださったからなのです。

この人は、主イエスの眼差しの中に、いつも置かれていたのです。

そして、主イエスは、今また、この人を、新しく捕えてくださって、「あなたは人の子を信じるか」、と問われました。「人の子」とは、救い主のことです。つまり、主イエスのことです。

この言葉は、問いの形を取っています。しかし、ここでの主イエスの御心は、招きです。

「救い主を、信じませんか。是非、信じて欲しい」、という招きの言葉です。

この人は、主イエスに招かれ、導かれて、信仰を言い表しています。

あなたは、救い主を、信じたいと思いますか。信じることができますか。

これが、主イエスの問い掛けです。この人の答えは、もちろん、「はい」です。

でも、その前に、この人は、こう問い掛けています。「主よ、その方はどんな人ですか。私はその方を信じたいのです」。

私は、まだ、その方を、見ていません。でも、その方を信じたいのです。

この人は、そう言ったのです。私は信じたいのです。確かなものを掴みたいのです、と言ったのです。それに対して、主イエスは言われました。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。

あなたが捜し求めている人は、目の前にいる、この私だ、と言ってくださったのです。

それを聞いて、この男の人は、本当に嬉しかったと思います。確かなものが、ようやく掴めたのです。ですから、即座に、「主よ、信じます」、と言って、ひざまずきました。

この場面を、私たちに置き換えると、どうなるでしょうか。

私たちに対しては、主イエスは、こう言われるのではないでしょうか。

「あなたはもう、私の言葉を聞いている。あなたが聞いている言葉を、語っているのは私だ」。これは事実です。私たちは、既に、主イエスのお言葉を、聞いています。

教会において、ずっと聞き続けてきました。或いは、見ているということもできると思います。

礼拝の中での説教を通して、或いは聖餐を通して、主イエスの御姿を見ています。

神様の御業が、この教会において、また、私たち一人一人の上に、実現しているのを、見ています。心の中で、霊的に見ています。

「あなたはもう聞いている、私の言葉を。あなたはもう見ている、私の姿を、私の業を」。

そのように、主イエスは、私たちに、語りかけておられるのでないかと思います。

私たちに求められているのは、そういう言葉に対して、「主よ、信じます」、と言って、ひざまずくことです。この人はそうしたのです。

足元にひざまずいている、この人をご覧になりながら、主イエスは言われました。

『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』。

「裁く」と訳されている言葉は、分け目を入れる、という意味だそうです。

線を引いて、区別するのです。では、線が引かれると、どういうことが起こるのでしょうか。

「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。そういう区別がなされる、というのです。

この言葉を聞いていた、ファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」、と言いました。ファリサイ派の人々は、自分たちを、どちらの側に置いて、考えているのでしょうか。

見えなかったが、今は、見えるようになった。そっちの側でしょうか。

或いは、見えていたのに、今は、見えなくなった。こっちの側でしょうか。

明らかに、ファリサイ派の人々は、あなたがたは、今、見えていないと、主イエスに、裁かれている、と感じたのです。

「私たちは、かつては見えていたのに、今は、見えなくなっている」、とあなたは言うのか。

彼らは、主イエスに、そう言って、詰め寄りました。

それに対して主イエスは言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。

あなたがたは、「今、見える」と言っている。しかし、実際は、今もなお、「見るべきものを、見られないでいる」ではないか。主イエスは、そう言われているのです。

では、一体ここで、何が見えたら、良いのでしょうか。何を見るべきなのでしょうか。

それは、主イエスのお姿です。主イエスの中に、神様を見る、ということです。

主イエスに顕れている、神様の救いを見るという事です。

あなたがたは、「今、見える」と言っている。でも、今も、本当に見るべきものを、見ていないではないか。主イエスの中に、神様を見ていないではないか、と言っておられるのです。

それなら、「見えなかったのであれば罪はなかった」ということは、どういうことでしょうか。

もし、彼らが、「わたしは見えない」、ということを、はっきり認めていたならば、そこから悔い改めることが、出来る筈です。

その時には、主イエスは、彼らの罪を赦し、彼らを暗闇から、光の中に、招き入れることがおできになります。しかし、彼らは、自分たちは、今、見えている、と言い張っています。

実際には、彼らは、主イエスの中に顕れている、神様の救いを、見えずにいました。

そして、今も、見えていないのです。

それなのに、私たちは、もともと見えていた。そして、今も見えている、と言い張っているのです。こうして、彼らは、主イエスの赦しを拒み、悔い改めの機会を逃してしまったのです。

彼らは、自分たちが、救われなければならない人間なのだ、ということを認めようとしていません。そして、見えないのに、見えていると思い込み、そう言い張るのです。

主イエスは、そのようなファリサイ派の人たちに対して、あなた方の罪は、まことに大きくて、深いですよ、と言っておられるのです。

皆さん、私たちは、今、見えているでしょうか。主イエスの中に、救いの御業を、見ているでしょうか。

そして、「主よ、信じます」と言って、主イエスの御前に、ひざまずいているでしょうか。

皆さん、どんな時にも、主イエスを、しっかりと見つめていきましょう。主イエスから、目を逸らさないようにして、共に歩んでいきましょう。

そして、「私は、決してあなたを見捨てない」。この神様の約束を、確かに握り締めて、信仰の馳せ場を、ご一緒に歩んでいきましょう。

そこに、私たちの幸いがあります。そこに、私たちの喜びがあります。