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柏牧師:過去の礼拝説教

「あなたの人生、その意味と目的」

2016年02月07日 聖書:ヨハネによる福音書 9:1~12

ご一緒にヨハネによる福音書を読み進んで参りまして、今日から9章に入ります。

福音というのは「喜びの知らせ」という意味です。私たちにとって、本当に喜ばしい出来事が起こった。そのことを知らせてくれるのが福音書です。

今朝の御言葉が伝えているのは、主イエスが、生まれながらに、目が見えなかった人の目を、見えるようにしてくださった、という出来事です。聖書はこの出来事を、本当に喜ばしいこととして、記しています。

生まれながらに、目が見えなかった人が、見えるようにされた。

これは、2千年前に起こった出来事です。

しかし、その出来事は、その人にとって、喜ばしいことであった、ということに止まらない。

私たちすべてにとって、本当に喜ばしいことである、と言っているのです。

なぜなのでしょうか。そのことを、これからご一緒に、聴いてまいりたいと思います。

ある時、主イエスと弟子たちは、エルサレムの町を、歩いておられました。

その時、生まれつき、目の見えない男の人を、見かけたのです。その人は、道端に座って、物乞いをしていました。それより他に、生きる術がなかったのです。

その人を見て、弟子たちが、主イエスに質問をしました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

生まれつき目が見えない、ということは、本当に気の毒なことです。

何故この人は、そのような気の毒な状況の中で、生きていかなくてはならないのか。

何がその原因なのか。誰でも、そのことを疑問に感じると思います。

私たちも時々、どうしてこんなことが起こるのだろうか、と嘆くようなことに、出会います。

思ってもみなかったような不幸に見舞われる。そのために、生活が一変してしまうような、辛い、悲しい出来事に、突然、遭遇することがあります。

そういう時に、誰もが、一体どうして、こんなことになってしまったのだろうか、と考えます。

一体、私が、どんな悪いことをしたのでしょうか。私の何が悪かったから、こんなことになってしまったのでしょうか。そう叫びたくなることがあります。

そして、世の中には、そういう問いに対して、もっともらしい、答えをする人たちがいます。

しばしば、新興宗教の指導者たちの中に、そういうことを言う人たちがいます。

あなたが、これこれのことをしたから、或いは、しなかったから、こういう結果になったのだ。例えば、あなたが、先祖の霊を軽んじたから、御先祖様のたたりが現れたのだ。だから、御先祖様の怒りを鎮めるために、これこれの事をしなさい。そういうことを言う人がいます。

或いは、あなたには、悪い霊がついているから、不幸に遭うのです。ですから、私が、悪霊祓いをしてあげましょう。そんなことを言う人もいます。

普段、私たちは、そのような言葉には、耳を貸さないと思います。しかし、不幸な出来事が続いたりすると、だんだんと不安になって来て、そういう言葉に、ふと心を動かされてしまう。

ひょっとするとそうかも知れない。もし、この人の言う通りにして、それで不幸が無くなるなら、それは結構なことだ。そう思って、そういう人の言葉に、つい従ってしまう。

私たち人間は、そういう弱さを持っています。そういう人間の弱さにつけこんで、昔から多くの偽宗教家が、人々の魂を不安に陥れ、大勢の人々を、食い物にしてきました。

因果応報という考えの、間違った使い方のために、多 くの人が苦しめられてきました。

当時のユダヤ人たちも、こういう不幸は、誰かの罪の結果である、と考えていました。

ですから、ここでも、弟子たちは、主イエスに向かって、「だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」、と聞いたのです。

それに対する、主イエスの答。それは、本当に素晴らしい答です。

主イエスは、はっきりと仰いました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

これは、私たち全てを、「因果応報」の呪いから、解放してくださる、素晴らしいお答えです。

「因果応報」とは、今の不幸には、必ず何か、過去に原因があって、その原因の結果として、或いはその報いとして、今の状況が造り出されている、という考え方です。

今朝の箇所では、生まれつき目が見えないという、その人の不幸は、誰かの罪が、その原因なのだということです。

では、それは、一体誰の罪なのか。そのことが問われているのです。

因果応報に囚われている時、私たちは、過去を悔やみ、過去に縛られて生きています。

「あぁ、あの時、あんなことをしなければ良かった」。或いは、「あの時、こうしておけば良かった」と、過去の自分の行動を悔やみ、過去を呪って生きることになります。

主イエスは、そのようなしがらみから、私たちを、解放してくださいました。

過去に捕らわれるのではなくて、将来に目を向けること。それが、あなたの生き方を決定するのだ、と主イエスは仰ったのです。過去ではなくて、これから、神様があなたに起こしてくださる出来事が、今の、そして将来の、あなたを決めるのだ、と断言してくださったのです。

後ろを見ずに、前を見なさい。これから神様が、あなたに起こしてくださる御業がある。

それを見なさい。それが、あなたの行く末を、決めるのだ、と仰ってくださったのです。

カウンセリングでは、しばしば「他人は変えられないが、自分は変えられる。過去は変えられないが、未来は変えられる」、と語られます。大切な言葉です。

しかし、この9章全体を読んでいきますと、御言葉は、「過去は変えられないが、将来は変えられる。そして、将来が変えられた時、過去の意味も変えられる」、と言っています。

不幸に満ちた、悲しい過去だった。あんな過去、なければよかったのに。

そう思っていた過去が、「いや、あの時は、私にとって、必要な時だったのだ。あの出来事は、私には、必要な出来事だったのだ」、と思えるようになる。過去の意味が変わるのです。

神様の御業が、あなたに働かれる時に、そのような思いに、導かれる。

御言葉は、そう言っています。

さて、皆さん、ここで、今朝の御言葉が伝えている、この時の状況を、心に思い描いてみてください。弟子たちが、「先生、この人が、生まれながらに、目が見えないのは、この人の罪のためですか、それとも、両親の罪のためですか」、と問い掛けています。

この質問は、目の前にある不幸が、他人事だから、発せられる問いです。

もし、自分がそういう障害を負っていたなら、このような冷ややかな問いではなく、もっと切実で、苦しみに満ちた、問い掛けになる筈です。

恐らく、弟子たちの、主イエスに対する問い掛けは、この人にも聞こえていたと思います。

そして、それを聞いて、この人は、どんなに辛い思いを、したことでしょうか。

「私の苦しみも知らないで、何という無神経な、質問をするのだろうか。この先生の答えが、どっちであっても同じだ。自分の罪の結果であろうと、両親の罪の結果であろうと、私は過去を呪うことしか、出来ないではないか。なぜ、人の傷口に、塩を塗るような質問をするのか」。この人は、きっとそう思ったと思います。

しかし、その問いに対する、主イエスの答えは、この人が思ってもみなかった言葉でした。

主イエスのお言葉は、この人に、全身を貫くような衝撃を与えました。

勿論、喜びの衝撃です。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

この主イエスのお言葉によって、この人は、初めて、過去への呪いに生きる生き方から、将来に向かって生きる生き方へと、向きを変えることが、できるようにされたのです。

「あなたに神様のみ業が現れる。そのために今、あなたはここにいるのですよ」、と主イエスは仰って下さった。この御言葉は、この人の生き方を、一変させました。

同じように、このお言葉によって、人生の大転換を、経験された方は、多くおられます。

その中のお一人に、藤田匡(ただす)牧師がおられます。

藤田匡牧師は、幕末の世に津軽藩に生まれ、小さい時から神童と呼ばれるほど聡明でした。しかし、14歳の時、視力が低下し、医者から、「そこひ」と診断され、やがて失明する、と告げられます。その翌年、15歳の時に、両親を相次いで病気で失い、更にその翌年には、住んでいた家も、火事で全焼してしまいます。

19歳の時に、完全に失明してしまった、藤田青年は、どうしてこんな不幸が続くのか。どうして自分だけが、こんなに苦しまなければならいのか、と自らの人生を呪いました。

しかし、希望を失った藤田青年に、神様は、素晴らしいキリスト者との出会いを、用意して下さいました。その人とは、後に、メソジスト教会の日本人初代監督となり、青山学院の初代日本人院長ともなった、本多庸一先生です。

藤田青年は、弘前教会で本多庸一牧師の話を聞いて、キリスト教に強く惹かれ、熱心に求道しました。どんな悪天候でも、杖を頼りに、日曜日には弘前教会に出かけ、本多牧師の説教を聞きました。

当時は、まだ点字の聖書が出来ていなかったので、聖書を一句一句読んでもらい、それを自分の口で繰り返しながら、暗記していきました。

そして、ヨハネによる福音書9章まで来たとき、今まで体験したことのない大きな衝撃を受けました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

藤田青年の胸に、突如として、今までどうしても得られなかった、喜びと希望が、泉のように湧いてきました。藤田青年は、ずっと自分が失明したことの、理由を尋ね求め、答えを得られないままに、悶々とした日々を送っていたのです。

しかし、この御言葉に出会って、気付かされたのです。

弟子たちは、主イエスに、この男が、目が見えない理由を尋ねた。しかし、主イエスの答えは、目が見えないことの、理由ではなくて、目的であった。

理由を尋ねた弟子たちに、主イエスは目的をもって答えられた。

そうであるなら、この私にも、目的があるはずだ。それは一体何か。

この私に「神の業が現れる」とは、どういうことか。それを探し求めて、遂に伝道者となることが、その目的であると示されたのです。

しかし、目の見えない人が牧師になるということは、現代でも大変ですが、当時は更に困難でした。藤田匡は、大変な苦労の後、牧師となり、青森県の黒石教会に赴任しました。

赴任当時、礼拝出席者は12、3人でしたが、藤田牧師の燃えるような説教と、伝道への情熱が実って、一年足らずのうちに20人から30人になり、やがて50人にもなっていきました。

藤田牧師が残した有名な言葉があります。差別用語が含まれていますが、お許しを頂いて、原文のまま引用させていただきます。

それは、「肉眼盲なりと雖も、心眼明らかなり」、という言葉です。たとえ、肉体の目は見えなくても、心の目は、主イエスの光をはっきりと見ている、というのです。

藤田匡牧師は、主イエスの御言葉によって、過去への呪いに縛られていた人生から、将来に現れる、神様の御業に向かって、生きる生き方へと、変えられていったのです。

さて、先ほど、主イエスは、現在の不幸を、過去の特定の行為に、根拠もなく、結びつけるような、因果応報はきっぱりと否定されたと申しました。

しかし、私たちは、そのままでは罪の結果、滅びてしまいます。主イエスは、この因果関係については、はっきりと宣言されました。

パウロも、ローマの信徒への手紙の中で、「罪の報酬は死です」、と言っています。

罪と、その報酬である死とは、因果関係にあると言っているのです。

罪を、そのまま放置しておくなら、私たちは滅んでしまう。それは確かなことです。

しかし、その罪と滅びの、因果関係さえも、主イエスは、断ち切ってくださったのです。

私たちが、罪の中を歩いて行けば、その道はいずれ、滅びの断崖に落ち込んでいきます。

罪の道は、天国には繋がっていないのです。しかし、主イエスは、私たちのその罪を、自らが代わって負ってくださり、十字架についてくださった。

その十字架によって、滅びの断崖に、天国に繋がる橋が、架けられたのです。

私たちは、その十字架の橋を、渡って行くなら、滅びの谷底に、墜落せず、天国に行くことができるのです。

主イエスは、御自身の身を、十字架に献げてくださることによって、罪と滅びの因果関係を、断ち切ってくださいました。これは、本当に、感謝なことです。

主イエスは、ここで、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」、と仰いました。

これは、神様が、私たちの中に働いて、出来事を起こしてくださる、ということです。

しかし、そんなことは、本来は起こり得ないことなのです。

全能の神様が、この貧しく、汚れた私の中に働かれて、出来事を起こされる。そんなことはあり得ない話なのです。

でも、そのあり得ないことが起こるのだ、と主イエスは言われているのです。

あり得ないことが起こるように、私が十字架の上で、命を捨てる、と言われたのです。

何故か。そうでないと、私たちは、救われないからです。

私たちは、自分の罪のために、滅びる他ない、存在であったのです。しかし、主イエスが、ご自分の身を投げ出して、その因果関係を、断ち切ってくださったのです。

私たちの、この小さな人生の中に、神様が働いてくださり、神様の御業が実現する。

主イエスは、十字架の上で、ご自身を犠牲にされて、そのことが起こるようにしてくださったのです。そのことを、私たちは、忘れることはできません。

この時主イエスは、地面に唾を吐いて、それで土をこねて、その人の目に、塗られました。

それから、「シロアムの池に行って洗いなさい」、と仰いました。

これは、シロアムの池の水に、何か不思議な力がある、ということではありません。

そうではなくて、この時、この人には、そうすることが、必要であったのです。

何故主イエスは、シロアムの池に行け、と仰ったのでしょうか。このシロアムという言葉は、「遣わされた者」、という意味だと、聖書は注釈を付けています。

つまり、主イエスは、遣わされた者の所に行きなさい、と仰ったのです。

そこに行ったら、遣わされた者が見える、と言われたのです。

勿論、初めに見えるのは、「遣わされた者」という名前の池だけです。でも、その人は、必ずいつか、本当の遣わされた者を見るのです。

ここでは未だ見ていません。でも後で見ることになるのです。

この私のために、遣わされた方。その方を見ることになのです。

この人が目を開かれたのは、実は、その方を見るためであったのです。私のために遣わされた方を、見えるようになる。それが、この癒しの出来事の意味なのです。

私たちが、本当に見なければならないのは、私たちのために、この地上に来てくださった方です。その方が、ご自分の業をなさっておられる。そのお姿です。それを見なければいけないのです。「あなたはそれを見ているか」、ということが問われているのです。

「神の業がこの人に現れるためである」、と主イエスは仰いました。

神の業が、この人に現れるために、他の誰でもない、この私が働くのだ、と仰ったのです。

主イエスが、この私のために働いていてくださる。開かれた、この人の目は、そして、私たちの目は、それを見るのです。そして、それを見て救われるのです。

どんなに厳しい生活の中でも、どんなに苦しい状況にあっても、神様の働きが見えた時に、私たちは救われます。どんなに小さな出来事でも、それが、この私のために、神様が起こしてくださった出来事である、と知る時に私たちは救われます。

神様が、「私はここにいるよ、あなたのために働いているよ」と言って、ご自身を示してくださる。それを見ることが、私たちの喜びです。

神様が、私たちのために、働いてくださって

います。そして、それを、見させてくださいます。

それが、私たちの救いであり、喜びなのです。

主イエスは言われました。「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

その神の業を、成し遂げるために、主イエスは、十字架に死んでくださいました。

私たちは、その恵みの中を生きることを、許されているのです。

感謝しつつ、喜んで、そして大きな期待を持って、前に向かって歩んで行きたいと願わされます。