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柏牧師:過去の礼拝説教

「神はあなたと共におられる」

2016年01月10日 聖書:ヨハネによる福音書 8:21~30

間もなく、阪神・淡路大震災が起こってから、21年が経とうとしています。

この大震災で被害に遭った少年が、「神様はいじわるだ」、という言葉を語り、それが新聞で報道されました。

それから15年経った時、同じ新聞記者が、その人に質問しました。「今でも、そう思っていますか」。その人は答えました。「はい、今でもそう思っています」。

この記事を読んだあるクリスチャンが、自分の教会の牧師に尋ねました。「もし、先生だったら、この人に何と言いますか」。

そう問われて、その牧師は、沈黙してしまいました。暫くの沈黙の後に、静かに答えました。「もし、この人が神様を知っていたなら、このような思いを、15年間も、引きずって生きることはなかったと思います。ですから、私たちは、出来るだけたくさんの人に、神様のことを伝えなければならないと思います」。

これは、質問に対する、答えになっていません。しかし、その時、その牧師は、それ以上のことが、思い付かなかったそうです。

悲惨な経験をした、一人の少年が、「神様はいじわるだ」、という思いを抱き、その思いを15年も引きずって、生きざるを得なかった。私たち人間の力では、どうしようもないものが、そこに姿を現している。

そのような思いに覆われている人に、牧師として、どのように声を掛けますか、と問われても、どう答えて良いか分からない。声の掛け様がないというのが、正直な気持であったそうです。恐らく、何を語っても、人間の言葉では、その子の心に届かないだろう。人間の言葉は、力を持たないだろう。その牧師は、そう思ったそうです。

「神様はいじわるだ」、とその子は言いました。しかし、この子が「神様」と言った時、どのような神様のことを、頭に置いて語っていたのかは、明らかではありません。

私たちは、人間の力では、どうすることもできない出来事に出会った時に、しばしば「運命」という言葉を口にします。この子も、運命と神様を、混同していたのかもしれません。

ですから、「神様はいじわるだ」、というこの子の言葉は、「運命はいじわるだ」、と言い換えても良いのかも知れません。

運命というものは、人間の力では変えられないもの、どうすることも出来ないものです。

私たちの人生には、そのように、人間の力では、どうすることもできないことがあります。

逆説的ですが、恐らく、その子の心を、闇から救い出すことが出来るのは、彼が「いじわるだ」と言った、その神様だけではないだろうか。そのように思います。

三浦綾子さんが、「人はその運命を選ぶことはできないが、その人生を選ぶことはできる」、と言いました。

では、どういう人生を選べば、この子は、長いトンネルのような、暗闇から抜け出し、光の中を生きることができるのでしょうか。

神様と共に歩む人生。主イエスの光の中を歩む人生。それしかないのではないでしょうか。

人間の力や、言葉では、出来ません。神様が、声を掛けて下さらなければ、その子はこれからも、暗闇をずっと引きずったままだと思います。

「そのような悲惨な状態は、私がいない、ということではないのだ。そのような中にも、私は確かにいるのだ。あなたと共にいるのだ。共に苦しんでいるのだ」。

この神様の御声を、はっきりと聞いて行かなければ、変わることはないと思います。

ご自分が、愛の対象として造った人間が、自分を裏切り、背いてばかりいる。

そんな人間を、尚も愛し、見捨てることができずに、ご自分が、その罪をすべて代わって負って、あの十字架の、極限の苦しみを引き受けられた神様。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、という絶望の叫び。

本来は、私たち人間が、叫ばなくてはいけない叫びを、代って叫んでくださった神様。

そして、その苦しみの只中で、ご自分を十字架につけた人間のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」、と必死に祈られた神様。

この神様が、今も、その子に、十字架の上から、語っておられる。「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを命懸けで愛している」。

この神様の御言葉を聞き、「自分には神様がいてくださる」ということを、心の奥深くで受け止めることが出来た時。その時、その子の心は、闇から救い出されるのだと思います。

平穏な生活の中で、突然、運命を呪うような、悲惨な経験をする。この子だけでなく、私たち誰もが、そういう経験をする可能性があります。

そういう時に、運命を呪うことなく、生きていこうと思ったら、どうしても神様の御言葉を、聞いていかなくてはならないと思います。「私はいる。今も、あなたと共にいる」。

この神様の御言葉を、しっかりと受け止めて、いかなくてはならないと思います。

病院で働くある男性がいました。この人は、いつもポケットに小石を持っていて、その石には「だいじょうぶ」と書かれていました。

病院で、これから手術を受ける人、または病気で落ち込んでいる人に、この小石を握らせてやります。病人は皆、「私の手術は大丈夫、私の病気は大丈夫」、と喜びます。

すると、その男の人は、静かに言うのだそうです。「この大丈夫の小石は、あなたの思う通りになる大丈夫ではなくて、『どっちに転んでも大丈夫』の小石なのですよ」。

この人が伝えたかったのは、神様が、あなたを愛していてくださり、共にいてくださるから、どっちに転んでも大丈夫なのですよ、ということであったのです。

今朝の御言葉には、どんな時にも、神様が、共にいてくださるから、私たちは、大丈夫なのだ。「いじわるな運命」の只中でも、神様と共に歩む人生を、選び取っていけるのだ、という約束が語られています。

今朝の御言葉の中で、主イエスは、言われています。

「私は神なのだ。神である私が、あなた方のために、十字架にかかって死んだのだ。そのことを、どうか知って欲しい。私が、あなた方の神であることを、知って欲しい。そうでなければ、あなた方は、罪の暗闇の中に、死ぬことになってしまう」。

今朝の箇所には、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」、という言葉が、三度も繰り返して語られています。「罪のうちに死ぬことになる」、というのは、何か悪いことをして死ぬ、という意味ではありません。

それは、神様無しで死ぬ、ということです。主イエスを知らずに死ぬ、ということです。主イエスの光から、離れた状態、つまり闇の中にあって死ぬ、という意味です。

私たちが、神様無しで死ぬのは、神様無しで生きてしまった結果です。

神様を知らないで生きて、神様を知らないで死ぬ。そういう死は、「罪のうちの死」、「闇の中での死」なのだ、と主イエスは言われています。

あなた方は、そのような「罪のうちの死」、「闇の中の死」を、死ぬようなことが、あってはならない。命の光に生かされて、天国に凱旋して欲しい。それが、主イエスの切なる願いです。

主イエスは、なぜ地上に来られたのでしょうか。その答えは、ここにある、主イエスご自身の言葉です。「あなたがたが、自分の罪のうちに、死なないように」。

そのために、主イエスは、この世の闇の中に、来てくださったのです。

そして私たちを、罪のうちの死から、解き放つために、ご自身が十字架に死なれたのです。

主イエスは、言われました。『わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』。

主イエスは、ここで、私の行く所に、あなたたちは来ることができない、と言っておられます。

そうすると、私たちは、直ぐにこう考えます。主イエスは、私たちが、行くことができないような、天の高みから来られて、また父なる神様のところへと、帰って行かれるのだ。

だから、人間は、ついて行くことはできない。

しかし、主イエスは、この時、そのようなことを、言われたのではありません。

主イエスはここで、ご自身の死が、誰も代わることができない死である。誰もついて来ることができない、厳しい死である、ということを語っておられるのです。

それは、主イエスだけが、歩むことがきる、「十字架の死への歩み」なのです。

しかし、ユダヤ人たちは、この言葉を誤解して、こう言いました。

『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』、と言っているが、この男は、自殺でもするつもりなのだろうか。

この当時、ユダヤ人たちは、自殺は恐ろしい罪、呪いの死だと、考えていました。

主イエスの死は、そのような呪いの死、滅びの死なのだろう、と考えたのです。

でも、律法を守っている私たちは、そんな滅びの死を、死ぬことはない。だから、この男とは、別のところに行く。こんな男に、ついて行くことはない。そう思ったのです。

確かに、主イエスは、ご自身の意志で、ご自身の死を、選び取られました。ご自分の意志で、十字架への道へと、歩みを進められました。

ですから、誤解を恐れずに言えば、広い意味で、自殺をされた、と言えなくはありません。

しかし、主イエスの十字架の死は、ご自身の滅びを通して、私たちを救うためでした。

私たちを、滅びから救い出すために、ご自身が、滅びの死を、選び取られたのです。

ですから、主イエスは、28節でこう言われています。

「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ…が分かる」。

ここで言う「人の子」とは、メシア、救い主のことです。つまり、主イエスご自身のことです。

救い主である、この私を、あなたがたは「上げる」。

この「上げる」という言葉は、十字架に上げる、という意味です。ご自分は、そのような死に方をされるのだと、主イエスはここで預言されています。

しかし、ここで、主イエスはまた、不思議なことを言われています。

人の子を上げた時、つまりあなた方が、私を十字架にかけて殺した時。その時、初めて、「わたしはある」、ということが分かる。これは、どういう意味なのでしょうか。

この「わたしはある」という言葉の、原語は、「エゴー・エイミー」、という言葉です。

24節では、この言葉が、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」、という言葉に、サンドウィッチのように、挟まれて語られています。

私たちが、罪のうちに死ぬ、ということから逃れるために、どうしたら良いのか。

それは、主イエスの、「わたしはある」という御言葉が、良く分かっていれば良い、というのです。他に何も要らない、というのです。

「わたしはある」、ということを信じない限り、あなた方は「自分の罪のうちに死ぬことになる」、と主イエスは言われているのです。

では、「わたしはある」、という言葉の意味が、分かるということは、どういうことなのでしょうか。「わたしはある」という言葉は、出エジプト記3章にも出てきます。

神様はモーセに、あなたの同胞を、エジプトの地から救い出せ、と命じられました。

その命令に、恐れ、惑うモーセに対して、神様は、わたしが一緒にいる。だから心配するな、と言われました。するとモーセが、畳みかけて言うのです。

それでは、あなたは、一体どのような神なのか、と人々に問われたら、何と答えたらよいでしょうか。あなたのお名前を、何と言って、紹介したらよいのでしょうか。

それに対して、神様は、このように答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。「わたしはいる、間違いなく私はいるのだ」、それだけを答えられたのです。

神様は、そういうことを、私たちに宣言されるお方です。「私はいる。間違いなく私はいる」と言ってくださるお方なのです。

そういうお方として、神様がいてくださる。それが「わたしはある」という言葉の意味です。

この「わたしはある」という言葉は、そのまま、神様のお名前になりました。

先ほどの「エゴー・エイミー、私はある」という言葉は、神様が、モーセを通して紹介された、ご自分のお名前の、ギリシア語訳なのです。

ですから、この「わたしはある」という言葉は、「私は神である」、という意味なのです。

主イエスは、「わたしはある」ということを信じない限り、あなた方は「自分の罪のうちに死ぬことになる」、と言われました。「わたしはある」。つまり、私は神なのだ、ということを信じない限り、あなた方は、罪の死から救われることはないのだ、と言われたのです。

神様を持たないままで、人生を終わってしまうのだ。主イエスは、そう言われたのです。

どうか、そのようなことにならないように。私は、切に願っている。

私は、あなた方が、罪の中に死ぬことがないように、願っている。私は、あなた方が、神を持たないままで、この世の人生を、終わってしまうことが、ないように願っている。

そして、それは、私を遣わされた、父なる神様の、御心でもあるのだ。主イエスは、そう言われているのです。

神様の御心は、私たちが救われることです。それ以外の何ものでもないのです。

そのために、神様は、あらゆることを、してくださいました。

信仰生活において大切なことは、私たちが何をするか、ということではありません。

そうではなくて、私たちにために、何がなされたのか、ということを知ることです。

私たちは、直ぐに、自分に何が出来るか、自分は何をしてきたか、ということに思いを向けます。それでもって、自分自身を、評価しようとします。

しかし、そういうことよりも、もっと大切なことがあります。

この自分のために、何がなされたのか。こんな私のために、神様が、何をしてくださったのか。そのことを知る方が、ずっと大切なのです。

そういう目で、自分を見た時に、私たちは、初めて、自分を、正しく捉えられるのです。

主イエスが、この時、ユダヤ人たちに、お求めになっているのは、そういうことです。

あなた方は、自分が、何ができるか、何をしているか。それだけを見ようとしている。

しかし、そんなことを見るのではなく、どうか、私を見て欲しい。

神である私が、あなた方のために、十字架に上げられようとしている。その姿を見て欲しい。私が神として、あなた方と共にいることを、知って欲しい。そして、それを受け入れて、それを信じて、救いに入って欲しい。主イエスは、そのように言われているのです。

私たちが、キリスト者であるのは、私たちが何かをしたからではありません。また何かが出来るからでもありません。

主イエスが、神様の御姿を、見させてくださったからです。それが本当に分かるのは、主イエスが十字架にかかられた時です。十字架において、主イエスは、完全な形で、父なる神様の御心を、成し遂げられました。

その主イエスは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

神様が見えないという現実を、主イエスご自身が、私たちに代って、一番深い所で、味わってくださったのです。

「神様はいじわるだ」、「運命はいじわるだ」、と言うだけで、そういう現実を、どうすることもできない、私たち人間のために、主イエスご自身が、同じ苦しみを、そこで体験してくださった。

そこに、神様の御姿があります。「私はいる。どんな苦しみ、悲しみの時にも私はいるのだ」、と仰る神様。その神様の御姿が、あの十字架の上で、はっきりと示されています。

ですから、私たちは、運命を呪って生きる、生き方をしなくて良いのです。

その生き方を、主イエスは、ご自身の十字架の上で、滅ぼしてしまわれたのです。

あるのは、一人も滅ぼさないで、生かしたいと願う、神様の御心だけです。その御心の中で、私たちは生かされているのです。

皆さん、私たちは、様々な人生を生きています。しかし、突き詰めていくと、それらは、二つの生き方に集約されます。「わたしはある」という、主イエスのお言葉を信じて、受け入れて生きるか、或いは、拒否して生きるか。この二つです。主イエスという神様がいる、と信じて生きるか、いないと言って退けるか。これは、人生最大の賭けです。

もし、いない方に賭けて、人生の最後に、やはり神様はいるのではないか、と底知れぬ不安を感じて、死んでいくなら、悲しいことです。残念なことです。

人生は、やり直しができないので、取り返しがつかないのです

でも、神様がいるほうに賭けたなら、私たちは、幸いな人生を、送ることができます。

メソジスト教会の創始者、ジョンウェスレーは、その臨終に際して、弟子から問われました。

「先生、一番良かったことは、何でしたか」。ウェスレーは、静かに答えました。

「一番良かったことは、主が共におられたことだ」。

私たちも、このウェスレーのように、人生の最後に、「一番良かったことは、主が共にいてくださったことだ」、と言うことができますように、共に励まし合って、歩んでまいりましょう。