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柏牧師:過去の礼拝説教

「命の水に生かされて」

2015年12月06日 聖書:ヨハネによる福音書 7:37~39

突然ですが、皆さん、この曲をご存知でしょうか。♪音楽。

今、沢井さんに、弾いて頂いた曲。恐らく、多くの方が、ご存知だと思いますが、この曲は、かつてフォークダンスの定番であった、「マイム、マイム」です。

なぜ、この曲を、弾いて頂いたかといいますと、実は、この曲は、今朝の御言葉と深く関わっているのです。そのことは、後ほど、詳しくご説明します。

さて、今朝の御言葉は、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」、という言葉で

始まっています。

ここにある「祭り」というのは、当時、ユダヤ最大の祭りであった、「仮庵の祭り」です。

「仮庵の祭り」は、一週間に亘って祝われましたが、その最後の日、祭りが最高潮に達した日の出来事が、今朝の御言葉に記されています。

仮庵の祭りというのは、イスラエルの民が、エジプトを出てから、40年の間、荒野で仮の宿に住んで、暮らしたことを、想い起すための祭りです。

荒野での暮らしは、困難の連続でした。しかし、そのような時にも、主は、いつも共にいてくださり、食べ物や、飲む水を与えてくださった。

食べ物、飲み物があることは、決して当たり前のことではない。神様からの恵みによって、私たちの命は支えられているのだ。

荒野の生活を通して、イスラエルの民は、共にいてくださる、神様の恵みを、しっかりと受け取りました。そのことを忘れないように、この祭りの期間中、人々は、仮小屋に住んで、先祖たちの荒野の生活を、想い起こしたのです。

この祭りの時に、二つのことが行われました。一つは、神殿の「婦人の庭」という広場に、四本の大きな燭台が置かれ、その燭台に灯が掲げられました。

この燭台は、荒野の旅を導いてくれた、雲の柱、火の柱を、象徴するものでした。

この先の8章で、主イエスは、ご自分のことを、「わたしは世の光である」と言われました。

恐らく主イエスは、この燭台の光を見ながら、そう言われたのだろう、と思います。

今朝の御言葉は、「仮庵の祭り」で行われる、もう一つのことと、関連しています。

そのもう一つのこととは、「水を注ぐ」、という儀式です。

祭りの間の7日間、毎日朝になると、祭司は神殿の丘を降りて、シロアムの池に行って、水を汲みます。それを大勢の群衆が、取り囲んで眺めます。

祭司は、そこに貯められた、聖なる水を、黄金の桶で汲みます。

群衆は、そこで、預言者の言葉を、大声で歌いました。

この時歌われたのは、イザヤ書12章3節の御言葉です。こういう言葉です。

「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」。

この御言葉を、神殿の聖歌隊が歌い、大勢の群衆がそれに加わって、一緒に歌ったのです。「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」。

このイザヤ書12章3節の御言葉は、ユダヤの人たちに、大変愛された御言葉です。

そして今も、世界中に広く知られています。皆さんも、それとは知らずに、何度か聞いたことがある筈です。

先程、沢井さんに弾いて頂いた、フォークダンスの定番の曲、「マイム、マイム」。

この曲の歌詞が、イザヤ書12章3節の御言葉、そのものなのです。

「喜びのうちに水を」という言葉は、原語のヘブライ語では「マイム ベサソン」という言葉です。「マイム」とは、ヘブライ語で「水」のことです。

「マイム! マイム! マイム! マイム !マイム ベサソン」という言葉は、「水だ、水だ、水だ、水だ、喜びの水だ」、と言っているのです。

12章3節全部ですとこうなります。「ウ シャヴ テム マイム ベサソン ミ マアイネ ハ イェシュア」。この言葉を、先ほどのメロディーに合わせて歌ったのです。

ヘブライ語では、うまく歌えませんが、日本語で歌えば、こうなるのでしょうか。

「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。水だ!水だ!水だ!水だ!喜びの水だ!マイム! マイム! マイム! マイム !マイム ベサソン」。

群衆は、この歌を、大声で歌いながら、祭司が水を運ぶのに、ついて行ったのです。

何度も何度も、この歌を、繰り返して歌いながら、喜びを高めていったのです。

祭司は、「水の門」と呼ばれている、門を通って、神殿に戻り、犠牲を献げる祭壇に、この水を注ぎます。

これは、イスラエルの民が、荒野の旅をしている時に、岩からほとばしり出る、水でもって、養われたことを記念する、喜びの儀式でした。

シロアムの池で、そして神殿で、荘厳な儀式が続く間、群衆は、この歓喜の歌を、ずっと歌い続けたのです。

そのような「喜びの祭り」が、最高潮に達していた時、主イエスが立ち上がって、叫ばれました。人々が歓喜の歌声を、挙げている。誰もが、祭り独特の雰囲気の中で、興奮状態になっている。しかし、そのことに、対抗するかのように、主イエスが叫ばれたのです。

人々の歓喜の歌声、興奮のざわめきに、逆らうかのように、大声で叫ばれたのです。

主イエスも、また当時のユダヤ教の教師たちも、普通は座って、教えを説いていました。

ですから、ここで、主イエスが、わざわざ立ちあがって、大声で叫ばれたというのは、主イエスの、並々ならない思いを、示しています。

立ち上がって、大声で叫ばれた。その主イエスのお言葉は、祭りの喜びや、群衆の興奮に対する、「戦いの叫び」であるかのように思われます。

しかし同時に、それは、何よりも、「招きの言葉」でした。渇いている人を、ご自分の許に、招くお言葉でした。

喜びの祭り、しかもその最高潮の時です。一体だれが、「渇いて」いるのでしょうか。

皆が、興奮して、喜びに満ち足りている時です。日本でも、神輿を担いでいるときには、人々は興奮状態にあって、渇きなど忘れているように見えます。

しかし、その中で主イエスは、「渇いている者は」、と叫ばれたのです。

これは、何を意味するのでしょうか。渇いている者とは、一体誰のことなのでしょうか。

主イエスは、人々の心の奥底にある、渇きを知っておられたのです。

人々が、自分でも、気付いていない、心の奥底の渇きを、主イエスは知っておられた。

どんなに華やかな、祭りの儀式でも、満たされることのない渇きが、人々の心の奥底にある。そのことを、知っておられたのです。

ですから、主イエスは、叫ばれたのです。「私の許に来なさい。私の所に来て、飲みなさい。そして、あなたの渇きを癒しなさい。私は、そのために来たのだ」。

主イエスは、この招きの言葉を、立ち上がって、大声で叫ばれたのです。

あなたたちは、祭りの喜びと、興奮で、自分の心の渇きに、気付いていない。しかし、私には、あなたたちの心の渇きが分かる。私は、あなたたちの、その渇きを癒したい。

あなたたちが、自分自身でも気付いていない、心の奥底にある渇きを癒したい。

私は、そのために、あなた方の所に来たのだ。主イエスは、そのように叫ばれたのです。

この時だけではありません。今もそうです。今、テレビのチャンネルをひねると、一番多いのが、お笑い番組や、バラエティー番組です。いやというほど、多くあります。

人々は、そういう番組を見て、楽しんで、日頃の緊張を、ほぐしています。

しかし、そういう番組を見た後で、私はいつも、ある種の空しさを、覚えます。

これらの番組は、心の奥底の渇きを癒すのではなく、一時的に、渇きを覆い隠すための、笑いや楽しみを、提供しているに過ぎない。そう思えるからです。

そして、渇きを癒すどころか、実は、却って、渇きを増しているようにさえ思えるのです。

しかし、主イエスは、一時的に、渇きを忘れさせるのではなくて、真実に渇きを癒したい。

渇いた心を潤したい、と切に願われたのです。

この福音書の5章に、ベトザタという池のほとりで、38年間も寝たきりの男を、主イエスが癒されたという、奇蹟の出来事が記されていました。

この時も、ユダヤ人の祭りの時であった、と書かれています。

どんな祭りであるかは分かりませんが、その祭りを祝うために、エルサレムの町は、大勢の人々で、満ち溢れていました。

しかし、そのような大勢の人たちの中で、一体何人の人が、ベトザタの池の、病人たちを、見舞うために、池に降りて行ったでしょうか。恐らく、ほとんどいなかったと思います。

本当に、神殿のすぐそばにある池です。でも、そこに横たわっている、病人のことを思う人は、誰もいなかったのです。

そんな中で、主イエスお一人が、祭りの雑踏から離れて、病人たちが横たわっている、ベトザタの池に降りて行かれたのです。そして、祭りのざわめきとは、全く別のところで、静かな慰めの業がなされました。

この時だけではありません。ヨハネによる福音書には、そのような人たちの所に、自ら近づいて行かれた、主イエスのお姿が、繰り返して書かれています。

この福音書は、他の福音書に比べると、一つ一つの話が長いので、登場人物が、少なくなっています。その少ない登場人物の多くが、社会から疎外された人、差別の中にある人、人々から見捨てられた人たちです。

4章に出てくる、サマリアの女もそうでした。この女性は、同胞のサマリア人の社会でも、仲間はずれにされていた人です。

先程の、ベトザタの池のほとりで、38年間も寝ていた病人もそうです。この人は、全く見捨てられていました。

この後、8章には、姦淫の現場で捕えられた、女性の話が書かれています。この女性も、その後、社会から疎外された生き方を、余儀なくされたに違いありません。

9章には、生まれながらに、目の見えない人が出てきます。この人も、世間から、罪人として、差別されていた存在でした。

この福音書の登場人物は、ユダヤ人の社会から、疎外された人たちばかりです。

その人たちに、主イエスは出会ってくださり、寄り添ってくださったのです。

皆、疎外されていた人たちです。皆、差別されていた人たちです。皆、心に渇きを持っていた人たちです。主イエスは、そういう人たちを、一人一人捕えています。

世間の人々は、この人たちを、無視しています。しかし、主イエスの眼差しは、これらの人々を、しっかりと捕えていたのです。しっかりと見ていたのです。

本当に、切なる渇きをもって、救いを待ち望んでいる人たちがいる。そういう人たちのことを、主イエスは、キチンと見ておられたのです。

ですから、主イエスは、そういう人たちの所に、自ら行かれたのです。

聖書は、そういう出来事を、福音、喜びの知らせとして、語り伝えています。

主イエスとは、こういうお方なのだ。神様とはこういう方なのだ、ということを、私たちに知らせています。

そういう人たちを、しっかりと見てくださった、主イエスは、祭りに酔いしれて、興奮している人たちをも、同じ眼差しをもって、見てくださったのです。

そして、今も、私たち一人一人を、同じ眼差しをもって、見ていてくださるのです。

華やかな祭りの中で、ある人々は着飾って、ある人々は楽しげに集まって、祭りを喜んでいる。しかし、どんなに着飾っても、どんなに楽しんでも、それでは癒されない渇きを、誰もが持っている。

むしろ祭りが、華やかであればある程、その後の渇きは、一層切なく、空しいものになる。

そういう人たちに向かって、主イエスは、「私のもとに来なさい」、と言われたのです。

主イエスだけが、この祭りのさ中で、実は、誰もが渇いている、ということを、知っておられたのです。そして、人々の心の奥底にある、その渇きを、癒したいと願われていたのです。

それでは、主イエスご自身はどうだったのでしょうか。主イエスご自身は、渇きを知らないお方だったのでしょうか。そうではないと思います。

主イエスも、渇きを知っておられたのです。主イエスご自身も、渇きを覚えておられたのです。しかし、その渇きは、私たちが感じる渇きとは、違うものであったのです。

4章において、サマリアの女と、話をされた後で、主イエスは弟子たちに、「私にはあなた方の知らない食べ物がある」、と言われました。

一体、何が、主イエスの食べ物であり、何が、主イエスの飲み物なのでしょうか。

一人のサマリアの女が、主イエスに出会った。それによって、活き活きとした、新しい生き方に変えられた。そのことをご覧になって、主イエスは、ご自身の飢え、渇きが癒された、と言っておられます。

一人の人が、主イエスに出会って、新しい生命に、生きる者とされた。

その救いの出来事こそが、主イエスの食べ物であり、飲み物である。主イエスは、そのように言われているのです。

私たちが、主イエスに出会って、新しい生命に生きるようになる。そのことに対して、私たちの救いに対して、主イエスは、切なる飢え、渇きを覚えておられるのです。

ですから、このお方は、わざわざ、サマリアを通られたのです。祭りを抜け出して、ベトザタの池に行かれたのです。生まれつき目の見えない人の所に、進んで行かれたのです。

私たちの主とは、そういうお方なのです。

主イエスは、私たちの救いを、ひたすら願っておられるのです。そのことに激しい飢え、渇きを覚えておられるのです。主イエスとは、そういうお方なのです。

主イエスは、渇きを知らないお方ではありません。私たちよりも、もっと深い渇きをもって、私たちが、活き活きとした、生命に生きることを、願っておられるのです。

その主イエスが、ここで叫んでおられるのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。そう叫んでおられるのです。

そして、「私が与える水を飲んで、あなた方が、渇きを癒されるなら、私の渇きも癒されるのだ」、と言われているのです。

主イエスは、続けて言われています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から、生きた水が川となって、流れ出るようになる。」

主イエスを信じる者は、生きた水に満たされ、その水が、川のように溢れ流れる、というのです。これは、どういう意味でしょうか。

ここで、主イエスが言っておられる、生きた水とは、聖霊のことです。主イエスを信じる者に、注がれる聖霊のことです。

神様は、御子を信じる者が、一人も滅びないようにと、聖霊を注いでくださいます。聖霊は、御言葉を通して、礼拝を通して、祈りを通して、注がれます。

聖霊は、主イエスを信じる者の内に注がれ、その人を潤します。しかし、それだけに止まりません。その聖霊は、その人の内から溢れ出て、流れを造り出すのです。

そして、その流れは、信じる者の内から、溢れ出て、他の人たちへと向かっていきます。

聖霊は、私たちを生かし、私たちを潤すだけではありません。私たちの内から溢れ流れて、他の人たちにも、命を与えるのです。それ程までに、豊かなのです。

主イエスの所で、渇きを癒された者は、自分だけが、渇きを癒されて、それでお終いという訳にはいかないのです。自然に、その流れが溢れ出てくるのです。

溢れ出てきて、周囲の人びとをも、潤すのです。この流れの中に、私たちを生かすために、主イエスは人となって、私たちの所に来てくださったのです。

それが、クリスマスの出来事なのです。

さて、ここで、もう一度、今朝のテーマである、「渇き」について、御言葉に聴いてみたいと思います。

ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、十字架の上で、「渇く」と言われました。

私たちの罪を、すべて負われたお方が、最後に、そう仰ったのです。

十字架において、主イエスは、私たちの、完全な身代わりとなってくださいました。

私たちが受ける筈の苦しみを、代わって負ってくださいました。

しかし、主イエスが負ってくださったのは、苦しみだけではありません。渇きをも、代わって負ってくださったのです。

十字架の主イエスの渇き。それは、本来、私たちが、味わうべき渇きです。

その渇きを、主イエスは、ご自身のものとして担ってくださったのです。

私たちの渇きを癒すことを、切に願われたお方は、十字架の上で、本来は、私たちが、味わわなければいけない渇きを、ご自分のものとして、引き受けてくださったのです。

この「渇く」という言葉は、本来は、私たちが言うべき言葉なのです。でも、その言葉を、このお方は、ご自身の言葉として、語ってくださったのです。

聖書は、そういうお方として、主イエスを語っています。

あなた方の主は、こういうお方ですよ、と伝えているのです。

このお方の中に、本当の慰めがあります。このお方の中に、本当の癒しがあります。

そのお方が、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」、と言ってくださっているのです。

飢え、渇きを知っている者は、誰でもいい、私のもとに来なさいと、主が招いていてくださっているのです。主イエスは、功徳を積めとは、仰っていません。

誰でも、渇いている者は、私のもとに来なさいと言っておられるのです。

誰でも、なのです。誰一人、この招きから、漏れている人はいないのです。

この主の招きを、感謝して、喜んで、主の御許に、近寄らせて頂きたいと思います。