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過去の礼拝説教

「我が心は主をあがめ」

2013年12月08日 聖書:ルカによる福音書 1:46~56

アドベント第二主日の礼拝を、皆様と共に献げることができる恵みを神様に感謝いたします。アドベントクランツに立てられ4本のろうそく。希望、平和、喜び、愛のろうそく。

その一本目の希望のろうそくに続いて、今朝は二本目の平和のろうそくに火が灯されました。来週は喜びのろうそくの灯、そして2週間後には愛のろうそくの灯が灯され、いよいよクリスマスを迎えることになります。

私たちも、心からの喜びと感謝をもって、主を私たちの心の中にお迎えするための心備えをしてまいりたいと思います。

先ほど、ルカによる福音書の1章46節から56節までを読んでいただきました。

この箇所は、「マリアの賛歌」と呼ばれています。この「マリアの賛歌」は、アドベントに読まれる代表的な聖書箇所の一つです。

この歌は、「わたしの魂は主をあがめ」という言葉から始まっています。

この「あがめる」という言葉は、ギリシア語の原文では「メガルネイ」という言葉で、ラテン語では「マニフィカート」と訳されています。

そして、この「マニフィカート」という言葉が、そのままこの賛歌の呼び名になりました。讃美歌21にも「マニフィカート」という題の讃美歌が含まれています。

では「マニフィカート」と呼ばれて親しまれているこの「マリアの賛歌」は、一体何を歌っているのでしょうか。この賛歌は、今の時代に生きる私たちに何を語りかけているのでしょうか。

今朝はそのことについて、ご一緒に御言葉から聴いてまいりたいと思います。

「マリアの賛歌」は、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」、と歌っています。なぜマリアは主をあがめ、神を喜びたたえているのでしょうか。

それには確かな理由があるのです。

それは、身分の低いこのはしためにも、主が目を留めてくださったからです。

「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」。

この言葉と良く似た言葉が旧約聖書にあります。サムエル記上1章11節の御言葉です。

そこにはこのように書かれています。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けください」。

この言葉は、預言者サムエルの母ハンナの祈りの言葉です。

このハンナの祈りにも「はしために御心を留め」という言葉が出てきます。それで昔から、ハンナの祈りとマリアの賛歌とは、関連があると言われてきました。

どちらも主の顧みを願っています。そして、どちらも子どもに関した祈りです。

ハンナには長く子供が与えられませんでした。彼女の夫エルカナにはもう一人の妻ペニナがいました。ペニナには子どもが与えられていました。そしてペニナは、そのことの故にハンナを蔑み、ハンナを辛い目にあわせていました。

ハンナはついに食事も喉を通らなくなるほどに苦しみ、悩みました。

先ほどのハンナの祈りは、そのときに献げられたものです。

「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けください」。

ハンナは、この祈りを激しく泣きながら祈った、と聖書は語っています。「心を注ぎだして」祈ったとも書かれています。

ハンナは、心を注ぎだして祈りました。涙を流しつつ、いつまでも祈り続けました。

祈ったからといって、その問題が直ぐになくなるわけではありません。問題は、依然として残ったままです。しかし、心を注ぎ出して、祈りに祈ったハンナは、自分の祈りは確かに主に聞かれたという確信に導かれました。

そして、結果がどうであろうと、主に委ねていこうという思いに導かれたのです。

その結果を、受け入れる心の備えが与えられたのです。

ですから、祈り終わった後のハンナの表情は、もはや前のようではなかった、と聖書は語っています。

ハンナの悩み。それは、望んでいる子どもが与えられないということでした。

しかし、マリアの悩みは全く反対でした。予期せぬ子どもが与えられてしまった、という悩みでした。全く唐突に、「あなたは救い主の母になるのだ」と宣告されたのです。

そんなことは夢にも思っていなかったことです。恐らくマリアは、何が何だか分からなかっただろうと思います。マリアは、決して特別な女性ではありません。

それどころか、ガリラヤのナザレという田舎の村に住む、名も無く、貧しい少女でした。

ヨセフという許婚がいて、間もなくヨセフと結婚する。そして、子どもを生み、平凡な妻として、また母として一生を終える。そういう人生のシナリオが用意されているような一少女でした。

ところが、そのマリアに突然天使が現れて、「あなたは聖霊によって身ごもって男の子を産む」、と告げたのです。

このときのマリアの反応は、まず驚きと、戸惑いでした。そして次に、不安と、恐れに襲われたと思います。

直ちに喜びと感謝が出てきたわけではありません。それは当然です。

聖書が語るクリスマスの物語は、神の独り子が、人間を救うために貧しい、小さなお姿で来てくださるという、あり得ないような知らせを、驚きをもって受け取った人々の物語です。

特にマリアはそうでした。マリアは、驚き、戸惑い、恐れました。

宗教改革者マルティン・ルターは、「クリスマスの福音を新鮮な驚きをもって受け取るなら、キリストはそこで働いておられる。しかし、その通りだ、当然のことだと受け止めて驚くことがないなら、そこにはキリストは働いておられない」、と言っています。

私たちはどうでしょうか。毎年、同じ物語を聞かされてきたので、神ご自身が、貧しさと、弱さと、小ささの極致である飼い葉桶にお生まれになったと聞いても、新鮮な驚きを感じなくなってはいないでしょうか。あり得ないよう出来事が、この私を救うために起ったということを、当然のように受け止めてはいないでしょうか。

今一度、自分自身を見つめ直したいと思います。

さて、この時、マリアの頭の中には、様々な思いが浮かんだことだろうと思います。

もし、許婚のヨセフ以外の子を宿したことを知ったら、ヨセフはどう思うか。

怒り狂って、マリアを姦淫の罪で訴えるかもしれません。そうなったら石打の刑による死刑です。或いは、そこまでしなくても、少なくとも婚約解消となるだろう。

最善のシナリオは、お腹の子は聖霊によって身ごもったことをヨセフが信じてくれて、予定通り結婚する、というものです。仮にそうなったとしても、二人は結婚前に子どもを作ったふしだらな者ということで、村の人たちから白い目で見られるでしょう。

どう転んでも、マリアには、良いことは一つもないと思わざるを得ませんでした。

マリアはこの時、まだ10代半ばであったと思われます。そんな田舎の少女には、到底担うことができないほどの重荷でした。

ですから、マリアは「どうしてそんなことがあり得ましょうか」、と答えたのです。

これは、「そんなことになっては困ります」、という意味を含んでいると思います。

私たちは、神様のご意志に、いつも最初から、無条件で服従できるとは限りません。

時には抵抗があっても良いのです。抗議が出てしまうこともあるのです。

最初から人間の立場を全面的に放棄してしまうことは、必ずしも真実の服従ではありません。ただ、マリアは、この自分の思いに、最後まで固執しようとはしなかったのです。

天使はマリアに、「神にはできないことは何一つない」、と神様の堅いご意志を告げます。

聖書には、この天使の言葉に続いてマリアが、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、と直ぐに答えたかのように書かれています。

しかし、私は、この天使の言葉と、マリアの応答との間には、かなりの時間があったのではないかと思っています。

その間マリアは一体何をしていたのでしょうか。恐らくマリアは真剣に祈っていたのだと思います。ハンナのように、涙を流しつつ、心を注ぎだして祈ったのです。

そして、その祈りの中で、マリアは神様の取り扱いを受けたのです。

実は、この時、神様も、心を注ぎだされておられました。私たち人間の救いのために、最愛の独り子をこの世に与えようとされておられたのです。

そして、御子なる神、主イエスご自身も、私たちのために、その尊い命を与えてくださるために、飼い葉桶にお生まれになられようとしていました。

そして、そのために、聖霊なる神様が、おとめマリアに働かれ、マリアの中に主イエスの命を宿そうとされていたのです。

まさに、父、子、聖霊の三位一体の神様が、その総力を挙げて、心を注ぎだして、私たち人間の救いのために働いておられたのです。そうなのです。神様も、命懸けだったのです。

マリアは、その激しい涙の祈りの中で、この神様からの命懸けの招きを受けたに違いありません。何としてでも人間を救いたいという、神様の熱い思いに迫られたのだと思います。

私は何としてでも人間を救いたいのだ。そのためには、マリアよ、お前の決心が必要なのだ。私と一緒に苦しみを共にして欲しい。

そのような神様の御声に迫られたのだと思います。

ですから、遂には「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、という答えに導かれたのです。

そして、そのお腹の中のイエス様が日々成長するに従って、マリアの信仰も、日々成長していったのだと思います。

マリアの賛歌は、その結果生まれた歌です。初めから、このような歌が歌えた訳ではありません。心を注ぎだしての涙の祈りと、聖霊の取り扱いと、お腹の中のイエス様の成長に導かれて、遂に、心の底からほとばしり出てきた歌なのです。

「マリアの賛歌」は、私たちにとって「救い」とは何か、ということを教えてくれています。

私たちの救いとは、この「身分の低い、はしため」にも、神様が「目を留めてくださった」こと。

そのことだ、というのです。

救い主である神様が、この私のように無きに等しい者に「目を留めてくださった」こと。

それこそが、私たちに与えられた救いなのです。

神様に背き続け、神様の愛を裏切り続けている私です。でも神様は、そんな私を、見捨てることなく、尚も目を留めてくださっているのです。

まことに無きに等しい者、本来は神様に顧みられる価値のないような者に、主が目を留めてくださったこと。それが救いなのです。

クリスマスは、そのような救いが実現した時なのです。

東京都狛江市に、「愛光女子学園」という施設があります。女子専門の少年院です。

14歳から20歳までの少女約100名が、そこで矯正のための教育を受けています。

薬物とか、窃盗とか、売春とか、暴力行為などを犯したために、送られてきた子どもたちです。私は、神学生時代に愛光女子学園のクリスマス会に何度か出席しました。

10数名の神学生の仲間と共に讃美歌を歌い、クリスマスのメッセージを語り、その後愛餐会に出席しました。その愛餐会では、職員さんがサンタクロースになって、皆にプレゼントを配ります。

そのプレゼントは、そんなに高価なものではありません。いえ、正直に言って、質素なものでした。ノートやボールペンや消しゴムなどが紙の袋に入っているだけです。

戦争直後ならイザ知らず、今どき、こんなものを子どもたちが喜ぶだろうか。

私は、そんな思いで、プレゼントを見ていました。

ある年のことです。いつものように質素なプレゼントが、一人ひとりに配られました。

すると、私の斜め前に座っていた14,5歳くらいの少女が、突然泣き出したのです。

目から涙が止めどもなく流れています。私はびっくりして、「どうしたの。どこか悪いの」と尋ねました。体のどこかが痛いのかと思ったのです。

すると彼女は泣きながら首を振って言いました。「いえ、どこも痛くありません。わたし、嬉しいんです。生まれてから一度もこういうプレゼント貰ったことがなかったから。うれしくて…」、と答えたのです。

それを聞いて私は、とても恥ずかしい思いに満たされました。こんな質素なプレゼントが果たして喜ばれるだろうか、と思っていたのです。いえ、こんなものを喜ぶ子などいないとさえ思っていたのです。でも、今、目の前で涙を流して嬉しがっている子がいるのです。

その子は、プレゼントの中味が嬉しかったのではないと思います。

私は、その子のことを知っているわけではありません。その日に初めて出会った子です。

どういう経緯で、その子が愛光女子学園で暮らすことになったかも、全く知りません。

しかし、恐らくその子は、今まで誰からも目に留めてもらうことがなかったのでないかと想像できます。誰にも、目に留めてもらえなかった。だから、このような質素なプレゼントさえ貰ったことがなかった。

この子が、嬉しかったのは、プレゼントの中味ではなかったのです。自分に目を留めてくれる人がいる。そのことが嬉しかったのです。この私のことを見てくれている人がいる。

それが嬉しかったのです。だから、涙を流したのです。

マリアも同じです。婚約していながら、許婚の子ではない子どもを宿した貧しい田舎の少女に、目を留めてくれる人など、恐らくいないだろう。

しかし、マリアは祈りを通して示されていました。救い主である神様が、このはしために目を留めていてくださる。

偉大なる神様が、無きに等しいこの私に目を留めていてくださる。そのことが、マリアの救いでした。マリアの喜びでした。

クリスマスは、私たちが、そのような喜びを確認する時です。この私に、神様が目を留めてくださり、この私のために、御子イエス様を生まれさせてくださった。

そのことを喜び、祝う時です。

「マリアの賛歌」は、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」、と歌っています。

「偉大なこと」とは何でしょうか。ほかのことを言っているのではありません。

「神様が目を留めてくださった」こと。それこそが「偉大なこと」なのです。

神様が目を留めてくださり、御子イエス様を、私たちに与えてくださった。

これが偉大なことなのです。これよりも偉大なことはありません。これ以外に救いはありません。この救いの恵みに、マリアは精一杯の応答をしています。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。

これがマリアの応答です。「あがめる」とは「大きくする」という意味です。

偉大なことをしてくださった神様を、私の中で大きくする、それがマリアの応答です。

今朝、私たちは問われています。果たして、私たちの中で神様は大きくあるでしょうか。

神様本来の大きなお姿でおられるでしょうか。

私たちは、直ぐに自分の方を神様よりも大きくしてしまう者です。自分の方を大きくしている時、私たちは、自分の思いで小さくなった神様を動かそうとしてしまいます。

都合のいい時だけ神様に出て来ていただき、都合が悪くなると神様に引っ込んでいただく。

そんなことを、いとも簡単にしてしまいます。

しかし、神様というお方は、そんな自分勝手な思いで動かすことが出来るようなお方ではありません。もっと大きなお方です。もっと偉大なお方です。

その神様の大きな愛の御手の中に、私たちがすっぽりと包まれる時、私たちは救われるのです。私たちの中で神様が、その本来の大きさを顕しているとき、憐れみの神様として大きくあるとき、私たちの不幸は小さくなります。私たちの悩みは小さくなります。

そして神様を「喜びたたえ」ます。

ここにある「喜び」という言葉は、ただの喜びではありません。聖書のほかの箇所では「大いに喜ぶ」と訳されている言葉です。

「救い主である神様を大いに喜ぶ」のです。

それがアドベントの時を過ごす私たちの信仰です。

私たちの心の中で、大きなお方として御姿を顕してくださる神様を大いに喜ぶのです。

これがマリアの賛歌の信仰です。

この信仰こそが、どんな境遇にあっても、どんな苦しみ、悩みの中にあっても、私たちを支え、私たちの力となります。

偉大な神様の大きさをそのまま受け入れ、その憐れみの大きさを素直に喜ぶ信仰。

この信仰に私たちも生きたいと思います。そしてそれを伝えたいと思います。

神様は、無きに等しいようなこの私にも、そしてあなたにも目を留めてくださっているのです。その主を心からあがめましょう。