「カリスマを活かそう」
2015年09月20日 聖書:ペトロの手紙一 4 :7~11
ご一緒に、ペトロの手紙一を読み進んでいます。繰り返して申し上げていますが、この手紙は、迫害の中にあるアジア州の諸教会に対して、ペトロが書き送った、励ましの手紙です。
今朝の御言葉は、唐突のように、「万物の終わりが迫っています」、と語り出しています。
何か、ギョッとするような、恐ろしげな言葉です。
でも、この言葉は、ペトロが、迫害に苦しむ、教会の信徒たちを、励ますために、送った言葉なのです。脅かすための、言葉ではありません。
「万物の終わりが迫っている」。これは地球に寿命があるとか、核戦争によって破局が訪れるとか、温暖化によって人類が滅亡するとか、そういうことを言っているのではありません。
聖書は、その一番初めで、神様が、この世界のすべてを、創られたと語っています。
この世界は、神様によって始められた。だから、いつかは神様によって、終わらせられるものなのだ。これが、聖書が語っている終末論です。
神様は、愛の対象として、人間を造られました。ですから、人間は、その創造の始めから、神様の愛に応答する、という目的を与えられていたのです。
それにも拘らず、人間は神様の愛から離れ、神様を神とせず、この世の物や、自分自身を神とする罪を犯しました。
しかし神様は、そのように背き続ける人間を、なおも愛され、救おうとされています。
この神様の救いのご計画が、完成する時。それが、終末なのです。
神様が、愛の対象として、創られた人間が、ご自身に背いて、離れていってしまっている。
その人間を、再びご自身のものとして、神様が取り戻してくださり、明るく終わらせてくださる時。それが終末なのです。
この神様の救いの御業は、主イエスがこの世に来てくださり、私たちの罪の贖いとして、十字架に掛かってくださった時に、既に始まっています。
主イエスが、ガリラヤにおいて、福音を語られた時の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。この御言葉でした。
「神の国は近づいた」。この「近づいた」という、主イエスのお言葉と、同じ言葉を、ペトロはここで使っています。それがここでは、「迫っている」、と訳されています。
「近づいた」、或いは「迫っている」という言葉は、「もう既に来ている」、という意味を含んでいます。
ですから、御言葉はここで、「万物の終わりが、もう既に来ている。もう既に始まっている」、と言っているのです。
主イエスが来てくださり、十字架で私達の罪を贖ってくださった。このことによって、終末の救いの御業は、もう既に始まっている。御言葉は、そう告げています。
しかし、現実には、私たちは、未だこの地上にあって、肉の生活をし、罪の中に置かれて、悩み、苦しんでいます。
ですから、私たちの救いは、始まってはいるけれども、未だ完成してはいません。
私たちの救いは、終わりの時、主イエスが再び来られる時に、完成する。
それが聖書のメッセージです。
そうしますと、私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、「既に救われている」いう現実と、その救いは「未だ完成していない」、という二つの現実。
「既に」と「未だ」という、二つの現実の中を、旅している者である、という事ができます。
私たち一人一人も、また教会も、いつもこの「旅の途上にある」という性質、未完成の性質があることを、覚え続けなければならないと思います。
私たちも、また教会も、絶えず御言葉によって、新しくされながら、終わりの時、救いの完成の時を目指して、旅をしている者なのです。
ハイデッカーという哲学者は、「終わりから今を生きなさい」、と言っています。
「終わりから見た今を生きる」。今日という日が、単に昨日の繰り返しである、と考えるならば、それは特に重要な意味を、持たないと思います。
しかし、終わりから見るならば、今日と言う一日は、再び戻って来ない、かけがえのない日です。無駄に過ごすことができない、大切な日です。
ある信仰の友は、出張に出かける時、必ずトラクトを持って行き、新幹線や飛行機で、隣に座った人に、伝道を試みています。
この兄弟は、「もし今日、終末が来るなら、この人にとって、今は救われる、最後の機会かも知れない。そう思うと伝道せずにはいられない」と、口癖のように言っています。
また、私が敬愛するある牧師は、「キリスト者は、今日、主イエスの再臨があるかも知れない、今の礼拝が最後かもしれない、そのような思いで礼拝をささげ、日々の業に励むべきである」と述べておられます。
与えられた時と場所を、かけがえのないものとして、今、この場所で、なすべき事を一つ一つ、着実に行っていくことが、大切だと言っておられるのです。
アメリカにCNNというテレビ局があります。24時間、世界中で起こった、ニュースだけを、放送しているテレビ局です。
CNNの放送が開始される時、ターナーという会長は、こう言いました。
「私たちは、世界の終わりまで、放送を止めない。世界の終わりの出来事をも、生中継する。放送の開始に、1回だけアメリカの国歌を流す。そして、世界の終わりの時には、讃美歌の『主よみもとに近づかん』を流し、放送を終了する」。
ターナー会長も、終末に向かって、一日一日、一時一時を、大切にしながら、仕事をしていきたいと、願っていたのだと思います。
では、旅する教会は、そして私たちは、かけがえのないこの時を、どのように生きて行けば良いのでしょうか。
今朝の御言葉は、終末に向かって旅する、私たちの生き方について、教えてくれています。
御言葉は語っています。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」
ペトロが、この言葉を語る時、私は、ある場面を想い起こします。それは、主イエスが、血の滴りのような、汗を流して祈られた、あのゲツセマネでの、祈りの場面です。
その時、主イエスは、ペトロに対して、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」、と言われました。ところがペトロは、眠りこけてしまったのです。
そのペトロが、今、教会に対して、目を覚まして、祈る事を勧めているのです。
「万物の終わりが迫っている」。聖書の中で、この言葉は、しばしば「主は近い」、という言葉に置き換えられています。
私のために悩み、苦しんでおられる主が、すぐ近くにおられる。本当に身近におられて、必死に祈っておられる。
だからペトロは、誘惑に陥らないで、祈っていなければ、ならなかったのです。
今年与えられた主題聖句のように、目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈って、いなければならなかったのです。
しかし、ペトロは、それが出来ずに、眠ってしまったのです。
その後、復活の主イエスに出会って、全く変えられたペトロは、「あぁ、あの時、なぜ私は、眠ってしまったのか。なぜ、もっと真剣に、祈らなかったのか」と、深く後悔したと思います。
しかし、ペトロがいくら後悔しても、もうそこには、ゲツセマネで苦しみ、悩まれる主イエスは、おられません。
だからこそペトロは、思慮深く、身を慎んで、熱心に祈りなさいと、心から勧めるのです。
「目を覚まして祈っていなさい」と言われた、主イエスのお言葉を、想い起しながら、熱い思いをもって、祈ることを勧めているのです。
「あぁ、あの時、なぜもっと真剣に祈らなかったのか」、と後悔することがないようにしなさい、と言っているのです。
そして、ペトロは、祈ることの難しさだけではなく、その大切さをも、よく知っていました。
祈りは人を変えます。祈りは教会をも変えます。ペトロは、それをよく知っていたのです。
ある中世の教会に、教養のあまり高くないお手伝いさんが、入会したいと申し出ました。
その教会は、きわめて誇り高い教会だったので、みすぼらしい身なりをした、その婦人を快く思わず、牧師は入会に際して、面接試験をしました。
「あなたは教会のために、何が出来ますか。主のために何をしていますか」、と牧師が質問しました。その婦人は、「私は、毎晩ベッドに入る時に新聞を持っていきます」と答えました。
牧師はけげんな顔をして、「それが一体、何になるのですか」、と聞き返しました。
婦人が答えます、「はい、私は先ず、一ページ目を見て、その日に誕生した赤ちゃんが健やかに育つようにと祝福を祈ります。次に、2ページ目を開いて、その日に結婚した人達のために、どうか主に、祝福された家庭を、持てますようにと祈ります。最後に3ページ目を開いて、その日に召された人の家族のために、主の慰めを祈ります」。
この教会は、この一人の婦人によって、全く変えられたということです。
真実の祈りは、その人を変え、また教会をも変えます。だからペトロは語るのです、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。
次に愛です。ペトロは、更に続けて勧めます。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。
ここで「何よりもまず」、と訳されている言葉は、直訳すれば、「すべてのものに優先して」、という言葉です。「すべてのもの」。これは、7節にある、「万物の終わりが迫っています」、の「万物」と同じ言葉です。
ですから、ここでペトロは、「すべてのものの終わりが迫っています」。だからこそ、「すべてのものに優先して」、愛し合いなさい、と説いているのです。なぜでしょうか。
「愛は多くの罪を覆う」からです。
罪あるままに、終わりの時を迎えることがないように、心を込めて愛し合いなさい。
愛し合うことによって、多くの罪を覆いなさい、と勧めているのです。
罪とはなんでしょうか。罪とは、神様との関係が、断絶した状態のことです。
神様との絆が、断たれていることです。神様との絆が、断たれてしまうことによって、私たち人間同士の絆も、断たれてしまいます。
その断たれた絆を、結び合わせるもの。それは、愛です。
コロサイの信徒への手紙で、御言葉は、「愛は、すべてを完成させるきずなです」、と言っています。断絶した絆を結び合わせるものは、愛だけです。
私たちは、まず、神様との絆を修復しなければなりません。神様との絆が回復されると、結ばれた絆を通して、神様の豊かな愛が、私たちに尽きることなく、注ぎ込まれます。
そして、私たちは、その頂いた愛をもって、他の人との絆を、回復することが出来るのです。
そのような愛の、一つの形として、「不平を言わずに、もてなし合いなさい」、とペトロは勧めています。ここで言われている「もてなす」とは、単にご馳走をする、ということではなくて、旅人を受け入れ、休息を与えてあげなさい、と言う意味です。
この時代の教会には、巡回伝道者を始めとして、旅人が多く訪問したようです。
そのような旅人をもてなす事は、初代教会の信徒の、大切な義務でした。しかし、キリスト者であると紹介されても、見知らぬ人を、泊めて、もてなすことには、危険が伴います。
ですから、それをなすには、相手を信じ、相手を愛することが、必要になります。
そのような、相手を信じる愛を、実践して欲しい、と言っているのです。
今朝の週報の【牧師室より】にも、バングラデシュで、そのようなもてなしを受けた、ある牧師の話が記されています。異教の地で、聖書の教えを、そのまま受け入れて、実践しているキリスト者がいる。そのことに、私は、深い感動を覚えました。
現代の日本では、教会が、旅人を泊めて、もてなすということは、少なくなりました。
それでは、この御言葉は、私たちにとっては、どのような意味を持つのでしょうか。
ここで旅人を、「教会に始めてこられた方」、と捉えてみては、如何でしょうか。
新しく教会にこられた方は、教会の頭である主イエスが招かれたお客様です。主イエスのスペシャルゲストです。
主イエスが招かれた方を、心を込めておもてなしをしないなら、招かれた主イエスは、どんなにか悲しまれる事でしょう。
教会におけるもてなしとは、ご馳走を振舞うことではありません。私達が振舞うべきものは愛です。主イエスから頂いた愛を振舞うのです。
優しい一言の言葉、温かい歓迎の挨拶、親しみを込めた微笑。それが、主イエスが、私たちに託された、おもてなしの行為です。
折角、主イエスが招かれたお客様が、教会で温かい声も掛けられずに、淋しい思いで、教会の門を出て行くようなことがあれば、一番悲しまれるのは、主イエスご自身です。
ラブ・シャワーという言葉があります。愛をシャワーのように降り注ぐことです。
歓迎のラブ・シャワーを茅ヶ崎恵泉教会の名物にしてみては如何でしょうか。きっとシャワーのしぶきを受けて、私たち自身も、大きな恵みを受けるのではないかと思います。
10節、11節で、ペトロは、教会において、最も大切なことを、私たちに勧めています。
「あなた方は、それぞれ賜物を授かっているのだから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」。
御言葉は、私たちは、それぞれ異なった賜物を、神様から頂いている、と語ります。
皆が賜物を頂いている。与えられていない人はいないのです。
一人一人に、違った賜物が与えられているのです。ですから、一人一人が教会にとって必要不可欠な存在なのです。一人として欠けてはならない存在なのです。
何度も言うようですが、ジクゾーパズルの一齣一齣のように、どれ一つ欠けても、神様が描こうとしている、茅ヶ崎恵泉教会という絵は、完成しないのです。
一人一人が、それぞれ違った賜物を与えられている。それをお互いのために役立て、お互いに仕え合う時、賜物が最も生かされる、とペトロは言っています。
賜物と言う言葉の、原語のギリシア語は、カリスマという言葉です。
カリスマと言うと、何か特別な力を持った人のことを、思うかもしれませんが、もともとの意味は、神様からの恵みの贈り物と言う意味です。
自分は、このような賜物を、受けるに相応しくないにも拘らず、神様からの恵みとして、一方的に与えられている贈り物。それが、カリスマです。
ですから、この贈り物は、自分勝手に使ってはならないのです。
なぜなら、自分は、その贈り物の管理を、委ねられているだけだからです。
贈り物として与えられた賜物は、贈ってくださった方の、御意志に従って用いるのが、正しい用い方です。
御言葉は、「互いに仕え合う」ことが、贈り主である、神様の御心に沿った、用い方であると語っています。賜物を、お互いのために、生かしていく時に、教会は豊かになります。
教会は、神様から頂いた、様々なプレゼント、賜物で満ち満ちています。
教会の豊かさとは、財政的に恵まれていることではありません。
そうではなくて、教会の豊かさとは、互いに仕え合うことによって、与えられた恵みの賜物が、最大限に生かされることです。
ペトロは、この恵みの活かし方について、具体的な教えを二つ語っています。
一つは神の御言葉を語る人に対する教えであり、もう一つは奉仕する人に対する教えです。教会の外に向かって伝道する時にも、或いは、教会の中で証しする時にも、語る時に大切なことは、自分を誇るのではなく、ただ神様が崇められるように語ること。そのことが勧められています。
奉仕をする者も、自分の力に頼るのではなく、神様の力によりすがって、仕えていく事が勧められています。
語る者、奉仕する者、両方に共通している、大切なこと。それは、自分を限りなく小さくし、主に栄光を帰していく姿勢です。
主に栄光を帰する。このことが教会にとって最も大切なことだと、ペトロは結んでいます。
私たちが教会においてなすことは、どんなことであっても、最終的には、主に栄光を帰すことでなければならない、とみ言葉は語っています。
茅ヶ崎恵泉教会が、そのような教会の使命に、堅く立って、主の栄光が輝き、満ち溢れる、神の家となりますように、お互いに励まし合い、祈り合ってまいりましょう。
御言葉は語ります。
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」