MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「私たちは離れません」

2015年06月21日 聖書:ヨハネによる福音書 6:60~71

世界のプロテスタント信徒の間で、最も多く読まれた、宗教書と言われている、ジョン・バニヤンの『天路歴程』という本があります。

この本は、キリスト者の生涯を、天国への旅として、描いています。

主人公は、クリスチャンという名前の若者です。ある時、彼は、旅の途中で、「解説者」という人の家に、泊まります。見ると、この家の、ある部屋の、壁の前に、火が燃えています。

一人の人が、火に水をかけて、一生懸命に、それを消そうとしています。

ところが火は消えるどころか、ますます高く、明るく燃え上がります。

クリスチャンが、この様子を、不思議そうに眺めていると、その家の主人が、彼を壁の後ろ側に、連れて行きます。

すると、そこに、油の入った器を、持った人がいて、絶えず、火に油を注いでいました。

主人は、これは人間の心の中で、隠れて働いている、神様の恵みを示している、と説明してくれます。そして、悪魔が、恵みの火を消そうと、水をかけますが、キリストが、恵みの油を注ぎ続けてくださるので、その火を消すことができないのだ、と教えるのです。

この話は、神様の恵みは、人生のある時に、一度だけ、与えられるのではなくて、日々新たに、与えられるものである。だから、私たちは、弱い者であっても、信仰の旅を、続けることができる、ということを、教えてくれています。

今朝の御言葉は、私たちも、信仰の戦いの中で、同じように、日々新たな恵みに満たされ、日々新たな力を、与えられなければならない、ということを教えてくれています。

主イエスは、御自分を「命のパン」と言われました。「命のパン」、それは「世を生かすためのわたしの肉のことである」。だから、「この、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を、終わりの日に復活させる」、と言われたのです。

まことの神である主イエスが、私たちと同じ、「肉」を伴った、人間となられて、この世に来てくださった。そして、私たちの罪を贖うために、私たちに代わって、十字架にかかり、ご自身の御体を献げてくださった。あの十字架において、裂かれた主イエスの肉、流された主イエスの血。それは、この私のためなのだ。

この救いの言葉を、信じる者は、永遠の命に生かされ、終わりに日に、復活することができる。主イエスが仰ったことは、そういうことです。

主イエスは、私たちの魂の救いのことを、仰ったのです。

肉を食べ、血を飲む、ということも、主イエスの十字架の贖いを、自分の救いとして信じる、という霊的な事柄として、語られたのです。

あなた方は、五つのパンと二匹の魚だけで、5千人の人を養った、あの出来事を見て、あそこにこそ救いがある、と思っているのか。

しかし、そのようなパンは、食べても、また直ぐに、お腹が空いてしまって、あなた方の、まことの救いにはならない。あなた方の、魂の救いには、何の役にも立たない。

あなた方を、本当に救い、あなた方に命を与えるのは、私が語る言葉なのだ。

私の言葉こそが、あなた方を、まことに生かす、霊の息吹なのだ。この霊の息吹によって、生かされ、救われなさい。主イエスが、伝えたかったのは、そういうことです。

ところが、この主イエスの言葉を聞いて、弟子たちの中でさえ、これを実際に、生の肉を食べることだと誤解して、つまずくものが現れました。

そして、弟子たちの多くが、主イエスの許を、離れ去っていきました。

主イエスの許に、留まったのは、僅か12人だけに、なってしまったのです。

新共同訳聖書は、今朝の御言葉に、「永遠の命の言葉」、という小見出しをつけています。

ところが、ある人は、この箇所に、「分離」、という題を付けています。

「永遠の命の言葉」、という小見出しは、主イエスの宣教活動が、力強く前進しているかのような、印象を与えます。しかし、ここに書かれていることは、その逆です。

主イエスが、「永遠の命の言葉」を、語られた時、人々は喜んで、主イエスの周りに、群がって来た訳ではなかったのです。

そうではなくて、逆に、次々と主イエスのもとを去って、僅か12人の弟子たちだけになってしまったのです。

今朝の箇所は、ヨハネによる福音書が書かれた当時の、教会の実状を、背景として書かれていると考えられています。

この福音書が書かれた時、クリスチャンたちが、ユダヤ教の会堂から、締め出されてしまう、という出来事が起こっていました。

ユダヤ教と、キリスト教の違いが、いよいよはっきりしてきたからです。

それは、ただ会堂で、礼拝することが、できなくなった、ということだけではありません。

村八分を、意味したのです。ユダヤ人社会全体から、締め出されることを、意味していました。今日、私たちは、日曜日毎に、ここに集まるからといって、茅ヶ崎の市民から、「お前たちはここから出て行け」、という扱いを、受ける訳ではありません。

しかし、かつて、日本の国でも、信仰を持った人たちが、「ヤソ、ヤソ」と呼ばれたり、「非国民」となじられたりして、村八分に遭ったことが、しばしば起こりました。

今週の金曜日、6月26日は、ホーリネスの弾圧記念日です。73年前の、この日、全国のホーリネス系諸教会の教職が、治安維持法違反の容疑で、一斉に検挙されました。

最終的に、海外も含めて教職134名が検挙され、そのうち75名が起訴されました。

拷問のような厳しい取調べと、過酷な獄中生活のために、6名の牧師が、獄中で命を失い、1名が釈放直後に、召されました。

投獄された牧師も苦しみましたが、その家族も苦しい、辛い時を過ごしました。

ある牧師の家族は、商店に食べ物を買いに行ったら、「あんたの所に、売るものはないねぇ」、と断られたそうです。まさに、村八分のような目に遭ったのです。

そういう戦いの中で、信仰が試され、練られていったのです。

ヨハネによる福音書が生まれた頃にも、同じような戦いがあって、人々は、その信仰を問い直されたのです。

ユダヤ人たちから、迫害を受けるようになった結果、多くの人が、教会から離れていきました。あの人も来なくなる、この人も来なくなる。

村八分になることを恐れて、主イエスから、離れてしまった人が、多くいたのです。

恐らく、ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会は、ずいぶんと、寂しくなっていたのではないかと思います。

今朝の御言葉と、同じように、多くの人々が、キリストから、離れていってしまったのです。

迫害によって、分離が起こってしまったのです。

しかし、今朝の御言葉にある分離は、迫害によるものではありません。

主イエスのお言葉が、理解できないために、起こった分離でした。

分離のきっかけになったのは、「実にひどい話だ」、という言葉が示しているように、主イエスのお言葉そのものです。主イエスのお言葉に、躓いてしまったのです。

「実にひどい話」、という言葉は、ある翻訳では、「固い話」と訳されています。

こんなに固くて、飲み込むことができないような話には、とてもついて行けない。

そう言って、多くの人が、離れていったのです。

この箇所から、私は、「神様を信じることは戦いなのだ」、ということを、深く示されました。

何よりも、一番大きな戦いは、自分自身との戦いです。自分自身の不信仰との戦いです。

例えば、祈り一つとってみても、それは分かります。今年の主題聖句のように、私たちは、どんな時にも、「ひたすら祈る」ことを、勧められています。なぜ、ひたすら祈るのか。

祈りは、必ず聞かれるからです。神様は、必ず、私たちの祈りを、聞いてくださいます。

もし、かなえられないなら、それが神様の答えなのです。

でも、私たちは、つい自分の願いに、神様を従わせようとしてしまいます。そんな祈りをしていることが、多いのではないでしょうか。

神様の思いに心を向けず、自分の願いを通そうとする。そういう祈りが多いのです。

でも、皆さん、私たちは、自分の願いが実現するから、救われるのではありませんよね。

神様のご計画が、実現するから、救われるのです。そうですよね。

自分本位な、目先だけの願いを、全部聞いてくれるのは、神様ではありません。

それは、むしろ、サタンです。そこを、間違えると、信仰がおかしくなっていきます。

私たちは、自分の中にある、常識や、思いと、戦わなくては、ならないのです。戦いながら、神様の仰ることを聴いて、神様のなさることを、見ていかなければならないのです。

たとえ、それが、自分の常識や思いと、違っていても、「神様がなさることなら」と、受け入れていかなければならないのです。ですから、主イエスを信じることは、戦いなのです。

今日の箇所でも、多くの弟子たちが、主イエスの仰ることを、常識や、自分の思いで評価して、「これはおかしい。実にひどい話だ。固くて飲み込めない話だ」、と言って、去って行きました。主イエスは、本当に、悲しかっただろうと思います。

悲しみつつ、主イエスは、更に言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に、上るのを見るならば……」。

62節に、「……」と記されていますが、これは、主イエスの溜息を、表しています。

主イエスは、深い溜息を、つかれたのです。

恐らく、この言葉の後には、「もっとつまずくだろう」、という言葉が、続く筈です。

「それでは、人の子がもといた所に、上るのを見るならば、もっとつまずくだろう」。

「人の子」というのは、主イエスご自身のことを、指している言葉です。

そして、「もといた所」とは、父なる神様のおられるところです。主イエスが、もとおられたところです。そこに上っていかれるのです。

しかし、主イエスは、すんなりと、天の父なる神様の許に、上られたのではありません。

その前に、まず十字架に、上げられたのです。十字架で、殺され、陰府に下られ、そこから復活されて、天に上られたのです。

まず十字架に上られ、そして、その次に、陰府の底から、天に上られたのです。

ですから、もといた所に上る、ということは、その前提となっている。十字架に上げられる、ということを、含んでいるのです。

私は、十字架に高く上げられ、そこで殺されることによって、天に向かう道を開くのだ。

しかし、もし、そのことが明らかになったら、もっとあなた方は、ついて来れないだろう。もっと激しく、躓いてしまうだろう。

救い主だと思っていた人が、十字架に上げられる。それを見たら、どんなに大きく、あなた方は、躓くことだろうか。

そのことを、深い悲しみをもって、溜息のように、語られた主イエスは、御許に留まった、12人に向かって、「あなたがたも離れて行きたいのか」、と問い掛けられました。

この問いは、「まさか、あなたがたも、離れて行くことは、ないだろうね」、と訳した方が良い言葉です。

そして、実は、この問い掛けは、今日、私たち、一人一人にも、投げ掛けられているのです。

主イエスは、「あなたは、どうなんですか。あなたも、私から離れたいですか。そんなことは、ないでしょうね」と、私たち一人一人に、問い掛けられています。

この問い掛けに、「いいえ、私たちは、離れません」、と応えていくのが、私たちの信仰です。信仰とは、主イエスからの問い掛けに、応答していくことです。

主イエスが、愛をもって、呼び掛けてくださいます。主イエスからの、愛の迫りがあります。

それに、積極的に、応答していくのです。

信仰とは、この主の招きに応えて、主の御手の中に、自分を投げ込んでいくことなのです。

そしてそれは、一時のことではなく、絶えず、新しく、決断していくものなのです。

昨日の決断ではなく、今日も、主の招きに応えるのです。日々、応えていくことによって、主との交わりが、新しくされるのです。

でも、私たちが、歯を食いしばって、毎日、大変な思いをして、決断するのではありません。

毎日、主イエスが、新しい恵みを、くださるのです。私たちは、その恵みに、毎日、応えていけば、良いのです。主イエスの恵みが、いつも先行しているのです。

主イエスが、いつも、恵みの油を、注いでくださっているのです。そこに、目を注いでいけば、良いのです。冒頭の「天路歴程」の物語は、このことを、私たちに示しています。

主イエスの問い掛けに対して、シモン・ペトロは、「主よ、私たちは、誰のところへ、行きましょうか。あなたは、永遠の命の言葉を、持っておられます。あなたこそ、神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」、と答えています。

この箇所を、昔の文語訳聖書は、格調高く訳しています。

「主よ、われら誰にゆかん。永遠の生命の言は汝にあり」。

これは、ヨハネによる福音書における、ペトロの信仰告白です。

ペトロだけではありません。私たち一人一人が、この言葉を語るべきなのです。

私たちは、他の誰のところへも行きようがありません。

ですから、私たちも、こう応えなければなりません。

イエス様、私たちは、あなた以外のところに、行く訳にはいかないのです。

あなたから、離れて生きる訳には、いかないのです。

なぜなら、「あなたは、永遠の命の言葉を、持っておられる」からです。

私たちを、永遠の命に、生かしてくださるのは、あなたのお言葉だけです。

あなたは、その永遠の命の言葉を、持っておられます。

あなたこそ、まことの神であると、私たちは信じ、また知っています。

イエス様、私たちは、あなたから、離れません。これが、私たちの、信仰告白です。

人々が離れ去る中で、はっきりと信仰告白した、12人の弟子たちに対して、主イエスは、彼らの中に、自分を裏切る者がいる、と語られます。これは、ショッキングなことです。

ここで主イエスは、驚くようなことを言われています。「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか」。

11人ではないのです。選ばれている者の中に、ユダもいるのです。これは、驚きです。

主イエスは、ここで、「その中の一人は悪魔だ」、と言われました。

しかし、私たちは、ペトロもまた、主イエスから、「サタンよ」、と言われたことを知っています。ペトロが、主イエスに向かって、「あなたこそ、生ける神の子、メシアです」、と力強く信仰告白をしました。

しかし、そのすぐあとで、主イエスが、十字架について、語られると、ペトロは、それを押しとどめて、「そんな馬鹿なことを、言わないでください」、と言い出しました。

その時、主イエスは、ペトロに対して、「サタンよ、退け」、と厳しく言われたのです。

つまり、ペトロもまた、「悪魔」と言われたのです。

そのことを思うと、私たちは、誰もが、主イエスから、「サタン」と呼ばれる、可能性を秘めていると、思わざるを得ません。

誰もが、主イエスを、裏切る可能性を、秘めていることを、否定することはできないのです。

事実、ペトロも、主イエスを三度も、「あんな人知らない」と言って、否みました。

しかし、そのペトロは、主イエスのお言葉を、想い起して、立ち直ることができました。

これは信仰が、最後まで、新たな決断の連続であることを、示しています。

恵みと応答。この、神様との、活きた交わりは、生涯続くのです。

この後、讃美歌510番を、ご一緒に賛美いたしますが、この讃美歌は、イギリス人のジョン・ボード牧師が、作詞したものです。

彼の3人の子供が、同時に、堅信礼を受けることになった時、子供たちのために、作った讃美歌です。堅信礼とは、幼児洗礼を受けた人が、成長して、その信仰を、自分のものとして告白し、新たに主に従う決心を、言い表す式のことです。

ジョン・ボード牧師は、子供たちが、堅信礼を受けるに当たって、「生涯、覚え続けて欲しい、大切な真理を、すべて含んだ讃美歌を書いた」、と述べています。

この讃美歌は、1節で、「主よ、終わりまで、僕として、あなたに仕え、従います」、と歌い始めています。

そして4節では、「私はここに、誓いを立て、主よ、終わりまで、従います」、と結んでいます。

父の、わが子に対する、切なる願いと、祈りが、込められています。

しかし、これは、主イエスの、私たち一人一人に対する、切なる願いと祈りでもあります。

そして、その願いに、応えていくのが、信仰です。

今朝、私たちは、自らの信仰の、出発点を想い起し、その信仰を、今、ここで再確認しつつ、この讃美歌を、共に歌いたいと思います。

そして、新しく、信仰の旅に、出発したいと思います。

「主よ、われら誰にゆかん。永遠の生命の言は汝にあり」。

この告白の上に、しっかりと立ち、私たちは、あなたのもとを離れませんと、力強く宣言していきたいと思います。