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柏牧師:過去の礼拝説教

「被告席に立つ神」

2015年03月29日 聖書:マタイによる福音書 26章57節~68節

今朝は、棕櫚の主日の礼拝ですので、ヨハネによる福音書の連続講解から、暫し離れて、主イエスの受難の記事から、ご一緒に、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

皆さんは、「ナルニア国ものがたり」という本を、お読みなったことがおありでしょうか。

この本は、7巻からなるシリーズものですが、そのうちの3巻が、既に映画化されています。

この本を書いたのは、イギリスの神学者であり、また作家でもある、C.S.ルイスという人です。

このC.S.ルイスが書いた本の中に、「被告席に立つ神」という本があります。

信仰についての、いくつかのエッセーや、対談をまとめた本です。

この本の中で、C.S.ルイスはこのように述べています。

「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。

私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもあるし、神様を信じることもある。

しかし、問題なのは、その耳の傾け方、その信じ方である。現代人は、まるで、神様を、被告席に立たせているかのように、取り扱っている。

神様を被告席に立たせておいて、その神様に、様々な質問をして、答えさせている。

これはどういうことなんですか? なぜこうなのですか? あなたは、神として、一体何をしているのですか? このような、色々な疑問を、神様にぶつけて、それに答えさせている。

そして、その答えに、自分が納得している限りにおいて、神様を信じている。

しかし、それは、信仰ではない。なぜなら、信仰とは、神様を被告席に立たせて、自分が裁判官の席に座って、神様に答えさせることではないからである。

そうではなくて、信仰とは、自分が被告席に立って、神様を裁判官として、神様の問い掛けに、答えていくことである。」 C.S.ルイスは、このように語っています。

これは、実に見事に、現代人の問題を、言い当てていると思います。

C.S.ルイスは、現代人の問題は、神様を信じないことではないのだ、と言っています。

そうではなくて、神様を被告席に立たせておいて、自分が裁判官になっていることだ、というのです。しかし、本来、被告席に立つべきは、神様ではなくて、私たちです。

問われるのは、神様ではなくて、私たちである筈です。

あなたの生き方は、それで良いのか? あなたは何をしているのか? あなたはどこにいるのか? 私たちが、そのような神様の問いに、答えていく。それが信仰です。

それが、私たち人間の、基本的な生き方です。

ところが、今の世の中は、それが逆転してしまっている。

それが、現代における最も深刻な問題である、というのです。

今日の聖書の箇所で、祭司長たちは、まさに神の子、主イエスを、被告席に立たせて、裁こうとしています。

C.S.ルイスが、心の問題として指摘したことが、ここでは、実際の出来事として、書き記されています。

しかし、実は、ここだけではありません。旧約聖書を見ますと、人類は、その初めから、神様に対して文句を言って、神様を責めています。

最初の人アダムは、「あなたが、私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」、と言っています。

自分の罪を棚に上げて、「あなたが悪い」と言って、神様を被告席に立たせています。

人類は、その歴史の初めから、同じ過ちを繰り返してきたのです。

しかし、注意して読んでみますと、今日の御言葉は、同じ問題でありながら、大事なところが違っています。

それは、祭司長たちは、主イエスに色々と質問し、もしその答えが納得できるものなら、場

合によっては、主イエスを信じよう。 そう思っていた訳ではない、という事です。

彼らは、最初から、主イエスを死刑にすることを、決めていたのです。

この裁判は、そのことを実行するための、いわば形式的な手続きに、過ぎなかったのです。

彼らは、何が何でも、主イエスを死刑にしたかったのです。

ただ、その理由を見つけるためだけの、裁判であったのです。

一体、彼らは、どうして、そんなに、主イエスを殺したかったのでしょうか。

この先の27章18節を見ますと、ローマ総督のピラトは、主イエスを殺したいという、彼らの、異常なまでの執着の動機は、妬みであった、と見ています。

「妬み」は、人間関係のあるところには、必ず存在しています。

おおよそ、人間の悪徳の中で、妬みほど、誰でもが持っているものは、ないのではないかと思

います。

主イエスを十字架につけたのも、当時のユダヤ人指導者たちの拓みであった、とピラトは捉えていました。

指導者たちにとって最も困るのは、指導しようとしている人たちが、自分に従わないで、他の人に従って行ってしまうことです。

確かに、大祭司たちは、そのことを妬み、そのことを恐れていたと思います。

ですから、妬みから、主イエスを殺そうとした、というピラトの判断は、間違ってはいません。

しかし、実は、この人たちが、主イエスを、どうしても殺したかった。その本当の理由は、更にもっと深い所にあったのではないか、と思います。

それは、主イエスが、彼らに、変わることを求めたからです。しかも、そのことを、権威をもって迫ったからです。

彼らは、主イエスが神の子であることを、認めようとはしませんでした。しかし、主イエスの中に、他の人にはない、不思議な権威がある、ということを、彼らは感じ取っていました。

もし、主イエスが、単なる偽預言者であったなら、放っておいても、いつかは自滅すると、彼らは思ったでしょう。

しかし、権威をもって語られる、主イエスの御言葉や、主イエスの業に、彼らは、言い様の無い不安と、恐ろしさを、感じていたのだと思います。

その権威をもって、彼らに対して、「あなた方はそれで良いのか」、と問い掛けてくる、主イエスの存在が、嫌だったのです。目障りだったのです。

彼らは、自分の思うようにしたかったのです。自分の思うように、生きていきたかったのです。

裁判官としての主イエスを嫌ったのです。自分が、裁判官の席に、座り続けたかったのです。

ですから、主イエスを、被告席に立たせたのです。

主イエスが語られた、神の国のメッセージは、「悔い改めよ。神の国は近づいた」、という短い言葉に要約されます。

神の国とは、神が、神として支配しておられる、状態のことを言い表しています。

私が、この世に来たことによって、神の国が近づいた。いや、もう既に、来ている。

神が、神として支配される国が、近づいて、もう既に来ている。

あなた方が、そこで生きられるように、もう来ている。

だから、あなた方も、その国に入りなさい。神様の御支配の中で、神様のものとなって生きなさい。主イエスは、そのように言われました。

そして、そのためには、「悔い改める」ことが必要だ、と言われたのです。

悔い改める、という事は、生き方を変えるということです。方向転換をすることです。

神様の御支配の中で生きるためには、今までの生き方を、変えなくてはいけない、と言われたのです。

今までの生き方。それは、自分の思い、自分の願いを、第一としてきた生き方です。

それは、結局は、自分を神とした生き方です。それを転換しなさい、と言われたのです。

しかし、ユダヤ人の指導者たちは、自分たちの生き方を変えることを嫌いました。

そうすることによって、失ってしまう、自分の地位や、特権や、財産に、固執してしまったのです。ですから、生き方を変えることが出来なかった。

そして、生き方を変えなさいと迫る、主イエスを嫌ったのです。

そういうことを言う主イエスは、邪魔だ。居てもらっては困る。居なくなって欲しい。

そのような思いから、主イエスを、殺そうとしたのです。

C.S.ルイスは、「被告席に立つ神」の中で、このように述べています。

「主イエスの語られたメッセージは、福音、つまり「喜びの知らせ」です。自分たちが、病んでいることを知っている人々に、癒しを約束したのです。

けれども、そのためには、聴き手が先ず、不愉快な診断結果を、信じなければなりません。

そうしなければ、癒しの知らせを、喜ぶことはできないのです。」

自分には罪がある、という診断結果を受け入れることは、決して愉快なことではありません。

不愉快なことです。しかし、その不愉快な診断結果を、受け入れなければ、癒しの知らせは、その人にとって、喜びの知らせとはなりません。

大祭司たちは、その診断結果を受け入れることを、嫌ったのです。

そして、そのような、診断結果を告げる主イエスを、殺そうとしたのです。

しかし、突き詰めていくと、私たちにも、そのような思いが、心の片隅に残っているのではないでしょうか。

私たちも、自分にとつて、都合の悪い神の言葉を、殺してはいないでしょうか。

私たちも、神様のお言葉に従って、自分を変えることをためらい、素直に従えないことが多いのではないでしょうか。

自分に都合の悪い御言葉を、無意識のうちに殺している、ということはないでしょうか。

「イエス様、今、ここに、あなたが出て来られては困ります。今は、ちょっと隠れていてください」。そんな思いに、捕らわれることはないでしょうか。

御言葉の前に、いつもヘリくだって、御言葉が告げてくださる診断結果を、素直に受け入れる。そのようなお互いでありたいと願います。

さて、裁判の話に戻ります。この裁判は、あらゆる面において、異例な裁判でした。もっと言えば、無茶苦茶な裁判でした。

過ぎ越しの祭りの最中に、しかも真夜中に裁判を開いて、ろくに調べもしないで、死刑を宣告してしまう。そんなことは、当時でさえ、裁判の手順を定めた掟に、背くものでした。

しかし、それにも拘らず、彼らは、この裁判を強行しました。

60節、61節にこう書かれています。「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。」

当時、ユダヤでは、裁判の時の証人は、二人以上でなければならない、とされていました。

二人以上の、証人の証言が、一致しないと、その証言は、証拠として、採用されませんでした。

この時、大祭司たちは、金を出して、証人を雇うことまで、したかも知れません。

しかし、きちっと一致した証言を聞くことが、なかなか出来なかったのです。

ですから、いずれも、証拠にならなかったのです。

ところが、最後に二人の人が出てきて、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」、と証言しました。

この証言は、きちんと一致したため、否定されませんでした。証拠として採用されました。

大祭司は、証言が一致したのを聞いて、喜び勇んで、一気に、主イエスを追い詰めようとして問いました。

「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

この問いに対して、主イエスは、「それは、あなたが言ったことです」、と答えています。

この答えは、遠回しな言い方に聞こえますが、「あなたの言う通りです。私は神の子、メシアです」、と言っているのです。

マルコによる福音書では、この主イエスの答えは、はっきりと、「そうです」となっています。

この主イエスのお言葉を捕らえて、大祭司たちは、主イエスを有罪と決めつけ、死刑を宣告しました。

大祭司が、主イエスを有罪とした罪状。それは、神を汚す罪、神を冒瀆する罪です。

この神を冒瀆する罪というのは、マタイによる福音書では、既に9章3節に出ています。

主イエスが、中風の人に対して、「あなたの罪は赦される」と言って、その病を癒された時です。それを聞いた律法学者たちが、「この男は神を冒瀆している」、と心の中でつぶやいた、と記されています。

このように、主イエスが、神を冒瀆しているという訴えは、主イエスの宣教の最初のころから、既に、見え隠れしていたのです。

なぜ、主イエスは、神を冒瀆する罪に問われたのでしょうか。

それは、主イエスが、神の子として、当然のことを、言ったり、したりしたからです。

たとえば、中風の人を癒すということは、主イエスが愛の人である以上は、当然のことです。

また、主イエスの使命は、罪の赦しをもたらすことですから、罪を赦すという行為も、当然のことです。

ところが、病気を癒したり、罪を赦したりすること。つまり、主イエスにとっては、本来の使命であり、当然のことが、神を冒瀆する罪に、結び付いていったのです。

そして、今日の箇所では、主イエスが、ご自身を、神の子、キリストであると認めたことが、神を冒瀆する罪になっているのです。

主イエスは、神の独り子です。人となってこの世に来られた、救い主です。

しかし、その通りのことを言うと、それが神を冒瀆することになり、死刑になってしまうのです。

どこまでも真実を語り、真実を行う神様に対して、不真実な人間が、「お前は神を汚す者だ」と言って、真実なる神を殺してしまうのです。

何と、悲しいことでしょうか。愚かなまでに悲しいことです。

神の子が、自分は神の子だと言う。罪の赦しをもたらすために来られた救い主が、罪の赦しを宣告する。それが、ことごとく、神を冒瀆するとされて、十字架に結び付いていったのです。

そのことを思うと、悲しいまでに愚かな、私たちの罪が示されます。

そして、愚かなまでに悲しい、神様の愛に迫られます。

さて、今日の御言葉の中で、主イエスは、たった-度だけ、口を開いて語られています。

64節のお言葉です。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」

ここで、主イエスは、ご自身が神であることを、宣言されています。

「私は、あなた方の思いを超えた、メシアであって、やがてそのことが、誰の目にもはっきりと分かるようになる」。そのように言われたのです。

もし、このお言葉さえ言われなかったら、主イエスは、死刑になることはなかったのです。

しかし、はっきりと、そのことを言われ、その後は、ただ沈黙を守られました。

もうこの後は、こぶしで殴られ、唾を吐きかけられても、一切口を開くことをなさいませんでした。この主イエスの沈黙は、主イエスの、変わらないご意志を示しています。

主イエスの、変わらないご意志とは、何でしょうか。

それは、十字架の苦難への、ご意志です。十字架の苦難を、引き受けられるご決意です。

主イエスの沈黙は、そのことについての、断固たるご意志を、示しているのです。

主イエスは、「私は神だ。そして、いつかあなた方に、それが分かる時が来る」。

そう-言仰られて、その後はもう、何と言われても、口を閉ざされました。

主イエスは、ご自分を十字架につけて、殺そうとしている人たちに、一番大切なことだけを、語られたのです。

「私は、あなた方の神なのだ。あなた方の神であるその私が、今、ここに、こうして、被告席に立たされ、裁かれ、こぶしで叩かれ、唾をかけられている。

どうして私が、ここにいるのか、あなた方に分かるか。それは、あなた方を救うためなのだ。

神など認めるものかと、いきり立って、私を裁き、私を殴り、唾を吐きかけ、私を殺そうとしている。そのあなた方を救うためなのだ。

あなた方が、その生き方を変えて、父なる神の愛の中に生きるようになるために、私はここに、こうして立っている。

私を裁き、殴り、唾をかけ、殺そうとしている、あなた方が、生き方を変えて、神の国に入るようになるために、ここに立っている。」

主イエスは、このような思いをもって、被告席に立たれ、ただ一言話され、そして、その後は、ただ黙々として、十字架へ道を歩まれたのです。

私たちが生きている、この世の中は、激しく動いています。急激な勢いで変化しています。

しかし、その中で、たった一つ、動かないものがあります。それは、主イエスです。

主イエスが、動かないでいてくださったから、私たちは救われたのです。

その主イエスが、「悔い改めて、私の愛のうちに生きなさい。神の御支配の中に生きなさい」、と仰っておられるのです。

その呼び掛けに、喜んで答えていく者でありたいと思います。

神様を、被告席に立たせるのではなく、自分が、被告席に立って、神様からの問い掛けに答えていく者でありたいと願います。