「主がおられる」
2013年04月14日 聖書:ヨハネによる福音書 21:1~14
先ほど読んでいただきました御言葉は、新訳聖書の中でも最も描写的な箇所の一つです。私は、この御言葉を読みますと、いつも何故か不思議に、熱いものが胸に心に込み上げてくるのを感じます。
イエス様の温かい愛に、全身が覆い包まれているような気持ちにさせられるのです。
今朝、皆様も、そのような思いへと導かれますなら、まことに幸いに思います。
今日の箇所は、復活のイエス様が、三度目に弟子たちにそのお姿を現された出来事を記しています。
この三度目の時、弟子たちは一体何をしていたのでしょうか。既にもう、力強く伝道していたのでしょうか。或いは、そのための準備に励んでいたのでしょうか。
既に、復活のイエス様に二度もお会いし、宣教の業を託されたのですから、きっとそうであるに違いないと思うのが当然です。
ところが、実際は、そうではありませんでした。この時、弟子たちは、ティベリアス湖で漁をしていたのです。ティベリアス湖というのは、ガリラヤ湖のことです。
3節に、ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも、「わたしたちも一緒に行こう」と言った、と記されています。
「わたしは漁に行く」。ペトロは、張り切ってそう言った訳ではありません。ペトロはここで、イエス様にお会いする以前の自分、つまり漁師に戻っていこうとしているのです。
すると、そのペトロを見て、他の弟子たちも、「わたしたちも一緒に行こう」と言って、ついて行ったのです。
「ゼベダイの子たち」というのは、ヤコブとヨハネのことです。彼等は、ペトロと同じ漁師でした。ですから、一緒に行くのは分かります。しかし、漁師ではなかったトマスや、ナタナエルまでもが、一緒に行かせてくれと言ったのです。
復活のイエス様に、二度もお会いし、聖霊の息を吹き掛けて頂いた弟子たちです。
イエス様から、「あなた方を遣わす」と、尊い伝道の使命を託された弟子たちでした。
そのような弟子たちであっても、故郷のガリラヤに帰り、暫くの間、イエス様にお会いしないでいると、もとの自分に戻っていこうとしてしまうのです。
復活の主に出会ったにも拘らず、弟子たちは一直線に伝道の道を進んで行ったのではないのです。ここで弟子たちは後戻りをしています。
そして、そのような「後戻り」は、その後の教会の歴史の中でも、しばしば見られました。
教会だけではありません。私たちの信仰生活にも、そのような「後戻り」があります。
人生に浮き沈みがあるのと同じ様に、私たちの信仰生活にも、浮き沈みがあります。
明治・大正期を通じて、日本の教会の指導者であった植村正久という牧師が、この時の弟子たちのことを、このように語っています。
「復活のイエス様にお目にかかってはいるが、これから自分が何をしたらいいのか、まだ良く分からない。心配で、落ち着かない。心苦しい。そう思っているときに、漁にでも行こうか、というのは、我々もよくすることではないだろうか」。
植村先生は、このときの弟子たちの行動の中に、私たちの信仰の姿を見ています。
そして更に続けて、こう言っています。
「一晩中漁をしても何も取れなかった弟子たちと同じように、我々も、皆、疲れ果てている。
なかなか思うようにいかない。途方に暮れているその我々を、我々自身が知らないうちに、主イエスが、既に岸辺に立って、食べ物まで用意して待っていてくださる。
このことを思い起こすことは、まことに深い慰めである」。
当時、植村先生は、所属する教団の指導者であり、富士見ヶ丘教会という大きな教会の牧師であり、また神学校でも教えておられました。
まさに、東奔西走して、ひたすら伝道・牧会に専念しておられました。
ですから、疲れ果てている、というのは、先生ご自身の切実な言葉でもあったと思います。
本当に疲れておられたと思います。しかし、それでも尚、伝道にいそしむことが出来たのは、復活の主イエスが、先生の知らない間に食べ物を用意してくださり、もてなしてくださるからだ、と言われているのです。
復活の主の息吹きによって始められた教会は、そのように、復活の主のもてなしによって養われてきました。そして、イエス様は、今も、私たちが夜寝ている間に、準備をしてくださり、毎朝恵みの食卓を整えて、待っていてくださいます。
朝毎のディボーションの時は、イエス様が用意されたそのような朝食のときです。
ディボーションの持ち方は、それぞれ違っていると思います。違っていてよいのです。
しかし、どのような持ち方であっても、イエス様が用意してくださる朝毎のもてなしは、欠かさずに頂き続けたいと思います。
もし、私たちが、その朝食抜きで一日を始めるなら、折角用意してくださった養いの糧は、無駄になって、ゴミ箱に入れられてしまいます。そんなもったいないことはありません。
毎朝イエス様は、「さあ、私が心を込めて作った朝ごはんをここに来てお食べなさい」と招いてくださっています。そのイエス様のお心を、悲しませることがないようにしたいと思います。弟子たちは、ガリラヤ湖に漁に出ました。「しかし、その夜は何もとれなかった」と書かれています。一晩中網を打っても、何も取れなかったのです。
そんな弟子たちを、岸から、じっと見つめている人がいました。他ならぬイエス様です。
恐らく、イエス様は、その夜、弟子たちが、湖の上で悪戦苦闘しているのを、夜通し、じっと見守っておられたのだと思います。
夜が明けるころ、弟子たちにも岸辺に誰かが立っているのが見えました。
でも、それがイエス様だとは分かりませんでした。 弟子たちの心は鈍っていたのです。
イエス様は、弟子たちに声を掛けられます。 「子たちよ、何か食べる物があるか」。
空しさと、不安と、疲れの中にいる弟子たちに、イエス様は「子たちよ」と親しく呼び掛けられました。
同じように、私たちが、空しい生活に明け暮れている時、失意の中にある時、疲れて、希望を見失っている時、イエス様は、私たちを見つめられて、「子たちよ」と、呼び掛けて下さいます。今朝の礼拝もそのような時です。
今朝、私たちが礼拝に集ったのは、この主の呼び掛けを聞くためです。
「何か食べる物があるか」。このイエス様のお言葉は、どちらかと言うと「食べるものは何もないだろうね」というような意味の言葉です。
私の子たちよ、何も獲れなかっただろうね。私に食べさせてくれる物はないだろうね、と尋ねておられるのです。責めておられるのではありません。
これから弟子たちが担っていく宣教の業の厳しさを、ここで示しておられるのです。
あなたたちが、これからしようとしている仕事は本当に厳しい。何日も、何週間も、いや何ヶ月働いても、何の成果もないような空しい思いに捕らわれるかもしれない。
ただ、挫折感と疲れだけが残るような、生活が待っているかもしれない。
しかし、あなたがたは、決して一人ではない。私が、この私が、見守っている。
そして、あなた方のために食事を整えてあげる。あなたがたは、私のもてなしによって養われて、力を得なさい。イエス様は、そのように言われているのです。
「子たちよ、何か食べる物があるか」という、イエス様の問い掛けに対する、弟子たちの答えは、ただ一言です。「ありません」。
原語では、この言葉は、もっとぶっきらぼうな言葉です。「ないよ」、「あるわけないだろう」、というような意味合いの言葉です。
しかし、このような弟子たちの言葉に対して、イエス様は愛に満ちた指示をなさいます。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」
弟子たちが、網を降ろすと、網を引き上げられないほどの魚がとれました。
イエス様なしではうまくいかなかったことが、イエス様のお言葉に従って行動した時に、大きな収穫を得ることができたのです。伝道の業とはそういうものです。
この時、ぼんやりとしていた過去の記憶が、はっきりと弟子たちに迫ってきました。
弟子としての召命を受けた、その最初の時に、彼らはガリラヤ湖の上で、同じような体験をしています。その時のことを、彼らは想い起こしたに違いありません。
そして、その時、岸辺に立っておられる方が、イエス様であることが分かりました。
イエスの愛しておられたあの弟子、恐らくゼベダイの子ヨハネであろうと言われていますが、その弟子が、ペトロに、「主だ」と言いました。
「主だ」、「あれは主だ」、「主がおられる」と、思わず叫んだのです。
今日の御言葉の最初の1節と、最後の14節に、二度繰り返して出てくる言葉があります。
「主が、弟子たちに、ご自身を現された」という言葉です。
この言葉が、最初と最後に出てきて、今日の御言葉全体を囲い込んでいます。
その中で、丁度その真ん中の7節で、やはり二回繰り返されている言葉があります。
それが、この「主だ」という言葉です。
この言葉が、今日の御言葉の中心に位置しています。
ご自身を現されたイエス様に対する、弟子たちの応答の言葉です。
ご自身を現された主に対して、「主よ、あなたは確かに、ここにおられます」と、応答していくのが、主の弟子たちの姿です。それが教会の姿です。
復活の主は、マグダラのマリアに対して、「マリア」と呼び掛けられました。彼女は、それに対して、「ラボニ、私の先生」と応えました。
疑い惑うトマスに対して、復活の主は、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り掛けられました。それに対して、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と応えました。
そして、ここでは、「子たちよ」と呼び掛ける主に対して、「主だ」、「主がおられる」と弟子たちが応答しているのです。
同じように、この礼拝において、私たちが気付こうと、気付くまいと、復活の主は、今、ここにおられます。ご自身を現わしておられます。
私たちが、主のご臨在を、最もはっきりと確認するのは、この主日礼拝においてです。
「子たちよ」との主の呼びかけに、「はい主よ、あなたは確かにここにおられます」と応える。
私たちの礼拝は、このような主との生きた交わりの時です。
私たちが、礼拝に来るずっと前から、未だ暗いうちから、主は、私たちをもてなそうと、食卓を整えて、待っていてくださるのです。
そして、私たち一人ひとりに、「子たちよ」と呼びかけてくださるのです。
その主に、「はい、主よ」と応答していく。それが礼拝です。
「主が、確かに、ここにおられる。共にいてくださる」。これが、教会の信仰告白であり、教会の喜びと、慰めのすべてなのです。
「主がおられる」と聞いて、ペトロは、喜びに溢れ、一刻も早くイエス様にお会いしたいと、上着をまとって、湖に飛び込み、泳ぎました。
裸同然だったので、このままでは、失礼だと思ったのでしょう。
しかし考えてみれば、ペトロが裸同然で漁をしているところは、以前にもイエス様に何度も見られていたと思います。イエス様は、そういう姿のペトロに対して、「弟子となって私に従って来なさい」、と呼び掛けられたのです。
正装してかしこまっているペトロを招かれたのではなく、日常の生活の現場で、声を掛けられたのです。
ペトロもその時は、恥ずかしいなどとは思わず、そのままの姿で喜んで従って行ったのです。では、なぜ、この時は、恥ずかしいと思ったのでしょうか。
ここでのペトロの姿は、創世記3章のアダムとエバの物語を想い起こさせます。
アダムとエバは罪を犯した後に初めて裸を恥ずかしいと思うようになりました。
ペトロは3度も主イエスを否定し、自分の罪深さをいやと言う程知らされました。
その罪の意識が、裸を覆う行動に出たのではないか、と思うのです。
そうであれば、このペトロの気持ちは良く理解できます。これは、私たちの中にもある思いだからです。しかし、主イエスは、そんなペトロを、幼な子を見るような目で見ておられました。
「ぺトロ、私は、お前以上に、お前のすべてを知っているんだよ。だから、私の前でそんなに繕わなくても良いのだよ」とイエス様は言っておられるのだと思います。
私達は、どんなに立派な上着を着ても、主の御前に出るには相応しくない者なのです。
しかし、主は、「良いのだ。そのままのお前で良いのだ。」と言って、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。本当に感謝です。
陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。
それから、イエス様のお言葉です。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。
私が、心を熱くさせられるのは、このイエス様のお言葉です。何と愛と、優しさに満ちたお言葉でしょうか。
自分勝手に、もとの生活に戻ろうとして、漁に出た弟子たち。しかし、イエス様不在の漁では、収穫がある筈はありません。一晩中、悪戦苦闘し、何の成果もなく、疲れ果てた弟子たちを、憐れみの目で、じっと見守っておられたイエス様。
そのイエス様が、寒くて、疲れ果てて、空腹の弟子たちのために、火を起こし、パンを用意し、魚を焼いて、待っていてくださる。弟子たちのために、魚を、ひっくり返しながら、焼いているイエス様のお姿を、想像してみてください。
心に暖かいものが、込み上げて来ないでしょうか。
その、イエス様が、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださる。
この時、弟子たちの心は、言葉に表せないほどの、喜びと平安に満たされていたと思います。そこでの朝食は、決して豪華な食事ではありませんでした。
しかし、この上もない恵みの食卓でした。どんな立派な宮殿で出される、贅を尽くした料理も、足元にも及ばないくらい素晴らしい、そして清らかな食卓でした。
このようなイエス様のことを、フランスのカトリック作家であるモーリャックという人は、「イエスの生涯」という本の中で、「待ち伏せをする神」と、表現しています。
モーリャックは、復活のイエス様が、ダマスコ途上で、使徒パウロに現れた時のことを、このように書き記しています。
「イエスが、弟子たちの群れから離れて、天に昇り、光の中に、その姿が溶けてしまった時、それは二度と帰らぬ旅立ち、というべきものではなかった。
常に主は、エルサレムからダマスコに行く道の曲がり角で、待ち伏せをし、パウロを、彼の最愛の迫害者を狙っておられる。」
自分を迫害するパウロを、イエス様は深く愛しておられ、「愛の待ち伏せ」を企てて、パウロを捕えてしまわれたのだと言うのです。
続いて、モーリャックは更に、こう書き加えています。
「この時以後、すべての人間の運命に中に、この待ち伏せをする神がいたもうのである。」
待ち伏せをする神がおられる。私たちが、全く気付かない時に、思い掛けない所に、主が「愛に待ち伏せ」をしておられる、と言うのです。
ガリラヤ湖畔で、弟子たちは、この待ち伏せをしていたイエス様に捕らえられました。
私たちが、人生の旅路で、疲れ、さ迷い、もう一歩も進めない、と思うような時。まさにそのような時に、主は、私たちを待ち伏せしておられるのです。
それは、丁度、駅伝のゴールで大きなタオルを持って、走ってくる選手を待っている人の姿に似ています。
走ってくる選手は、私たちの姿でもあります。私たちは、駅伝の選手のように、もう一歩も走れないほど、疲れきり、弱り果てて、倒れこみます。
しかし、そこには、私たちを、待ち伏せしておられる主が、大きな愛のタオルを持って、待っていてくださるのです。
「さぁ、ここに来なさい。倒れこんでも良い。私が支えているから」。
私たちは、この主の御声を聞くことができるのです。
この主の、御腕の中に、全身を委ねてよいのです。
主は、今日も、私たちのために、朝の食事を用意してくださっています。
御言葉という、素晴らしいご馳走を食卓に備えて待っていてくださいます。
そして、愛のタオルを広げて、私たちを、待ち伏せしてくださっています。
この主の愛に、生かされている恵みを、心から感謝するお互いでありたいと願います。