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慈しみ深い友なるイエス様

「慈しみ深い友なるイエス様」

2013年4月28日

ボストンマラソンにおける爆弾テロの首謀者は、「米国人の友達なんか一人もいない」と語っていたそうです。これを聞いて、島秋人という死刑囚のことを思い出しました。獄窓において島秋人は、自分の一生を想い起こしました。自分は今まで、一度も人にほめられたことがなかった。そう思っていましたが、小学校の時、図画の先生から「お前は絵は下手だが、構図はクラスで一番よい」と、たった一度だけほめられたことを思い出しました。懐かしさのあまりその先生に手紙を出すと返事が来ました。やがて、その先生の奥様の勧めで短歌を作るようになり、その豊かな才能が開花します。そして、彼の短歌に感動した千葉てる子さんという人の養子になります。クリスチャンであった千葉さんの影響で彼も洗礼を受け、信仰に支えられて獄中生活を送りました。33歳で処刑された時、彼の顔は死刑場に行く人とは思えないほど輝いていたそうです。主イエスという最高の友が傍にいることを信じたからでしょう。もし、ボストンのテロリストが、「慈しみ深い友なるイエスは、世の友すべてが捨て去る時も、祈りに応えて慰めてくださる」と知っていたなら、と思わずにはいられません。

「まことの役者と偽善者の違い」

2013年4月21日

俳優の三國連太郎さんが亡くなりました。三國さんの役作りにかける情熱の激しさは有名でした。32歳の時、老け役を演じるために上の前歯を全部抜いてしまったそうです。しかし、三國さんは役者としての限界もわきまえておられたと思います。どんなに鬼気迫る演技をしても、その役の人間そのものに成ることはできない。そのことを知っておられたと思います。だからこそ、その限界に挑戦し続けたのではないでしょうか。まことの役者とはそういうものだと思います。聖書に出てくる「偽善者」という言葉は、もともとは「役者」という意味の言葉です。限界をわきまえていない役者は、自分が他人に成ることなどできないのに、成り切ったと思い上がる過ちを犯します。それが偽善だというのです。私たちは、主イエスの十字架の贖いなしには、とても神様の目に義とされるような生き方は出来ません。その事を十分に知った上で、尚もその限界の中で、精一杯の聖さを追い求めていくことが求められています。役者としての限界を知りつつ、尚もその限界に挑戦して生き抜いた三國さんの生き方から、改めてそのことを教えられました。

「桜の詩」

2013年4月14日

今年は例年になく桜が早く散ってしまいました。いつもは今ごろが満開の福島の桜はすでに散り始め、宮城の桜はすでに満開と聞いています。被災地にも春は訪れ、桜は咲きます。「桜」という題の短い詩があります。「さくらだといふ/春だといふ/一寸、お待ち/どこかに/泣いてる人もあらうに」。この詩の作者、山村暮鳥(1884~1924)は、聖公会の伝道師として東北地方での伝道の傍ら詩作を続け、当時の若い詩人たちに大きな影響を与えたと言われています。残念なことに、35歳の時に結核に罹り、40歳の若さで天に召されています。病魔との戦いの中にいたからこそ、桜の花を咲かせてくださる主によって生かされている命の大切さに、胸が熱くなるような思いをもって一日一日を過ごしたのではないかと思います。今、この時にも、私の命を育んでおられるお方が確かにおられる。そのお方が、この桜の花も咲かせていてくださる。そのことを感謝し、そのお方に希望を見出していく。今もなお困難な中にある被災地の方々が、そのような思いへと導かれますように切に祈ります。

「復活の希望に生きる」

2013年4月7日

先週、アメリカ人の旧友と30年ぶりで再会しました。東京見物をしていた時、五重の塔を見て、「あれは何か」と質問してきたので、「あれは仏舎利塔、つまりお釈迦様の遺骨を収めた建物だ」と説明しました。キリスト教と仏教の違いの一つは、遺骨がないことです。「仏舎利」はあっても「基督舎利」はないのです。なぜなら、イエス様の遺体がないからです。イエス様は、復活されました。この確かな事実が、弱かった弟子たちを全く変えました。復活の主に出会い、再臨の主に再びお会いすることが出来るという希望に生きたために、弟子たちは、激しい迫害にも耐え、殉教していったのです。弟子たちにとっては、復活の希望は、将来のことではなくて、現在のことであったのです。復活を信じ、死が終わりではないことを信じるからこそ、この地上での今の時をどう生きるか、ということが決まって来るのです。それが復活信仰だと思います。