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だいじょうぶの小石

「だいじょうぶの小石」

2013年7月28日

病院で働くある男性の話です。この人は、いつも手のひらに握れるほどの小石を持っていて、その石には「だいじょうぶ」と書かれているそうです。病院で、これから手術を受ける人、または病気で落ち込んでいる人にこの小石を握らせてやります。病人は皆、「私の手術は大丈夫、私の病気は大丈夫」と喜びます。すると、その男の人は静かに言うのだそうです。「この大丈夫の小石は、あなたが思う通りになる大丈夫ではなくて『どっちに転んでも大丈夫』の小石なのですよ」。この人が伝えたかったのは、神様に委ねることの大切さでした。「神様のなさることに間違いはないのだから、どっちに転んでも大丈夫なのだ」、という心の平静さを保つことであったのです。イザヤ書の中で神様はこう語られています。「たとえ母親が自分の産んだ子を忘れても、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつけている」(イザヤ49:15~16)。神様は最善以下をなさいません。その神様が、あなたを御手に刻みつけておられ、決して忘れることはないと約束してくださっているのです。それが信じられる時「どっちに転んでも大丈夫」との思いに導かれるのではないでしょうか。

「視覚、聴覚、味覚で主イエスを喜ぶ」

2013年7月21日

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」。初夏を目(視覚)、耳(聴覚)、舌(味覚)をもって喜ぼうという山口素堂の句です。聖書には、キリストを視覚、聴覚、味覚をもって捕え、その恵みを喜ぼうと教えている御言葉があります。先ずガラテヤ書3章1節、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。十字架の主イエスをはっきりと見つめ続け、救いの喜びを忘れないように、という御言葉です。次に、マタイ17章5節「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。主イエスの御言葉(聖書)に聴くことを、父なる神様も切に望んでおられます。そして最後は、第一ペトロ2章3節「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」。ここにある「恵み深い」という言葉は「美味しい」という意味を含んでいます。あなたがたは、主の美味しさを味わいました、と言っているのです。さて、私たちは、主イエスを目(視覚)、耳(聴覚)、舌(味覚)をもって喜んでいるでしょうか。青葉、ほととぎす、初鰹を喜ぶ以上に、主イエスを喜ぶお互いでありたいと願います。

「信じます。不信仰な私をお助けください。」

2013年7月14日

今、もし洗礼を希望しながらも「こんな私では…」とためらっている方がおられるなら、是非この言葉に耳を傾けてください。『信仰に関して言えば、世の中には「信じる人」と「信じない人」の二種類の人がいるように思われますが、事実ではありません。全く信じ切っている人もいませんし、全く信じることのない人もいないからです。いるのは「信じる私」と「信じられない私」が葛藤している一種類の人だけです。人は、この内なる葛藤を苦しむ点において一種類です』(藤木正三師)。チイロバ牧師の榎本保郎先生も「信仰とは不信の我との戦いである」と言っておられます。主イエスから「あなたは信じるか」と問い詰められた父親が思わず叫んだ言葉、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコによる福音書9章24節)。この言葉は、私たちすべての言葉ではないでしょうか。

「理不尽の中で働かれる主」

2013年7月7日

ある無人島に流れついた男の話です。彼は発見してもらうまで何とか命をつなごうと、必死になって自給自足生活を続けます。ある日、島の裏手の海岸で漁をして帰ってくると、苦労して建てた小屋が全焼しています。火おこしを面倒がって残して置いた種火が、小屋に飛び火したのです。やけくそになった彼は、何故こんな酷い目に会うのか。神は何と自分に対して冷たい方なのかとわめき散らしていると、水平線の向こうから大きな船がやってきます。驚いた男は棒切れを振り回しながら合図を送りました。こうして彼は無事に救出されたのです。助けられた彼は、どうして自分を見つけ出す事が出来たのかを尋ねます。船長曰く「のろしです」。人のいないはずの島から煙が立ち上るのを見た時、これは漂流者が発するSOSに違いないと判断して駆けつけたというのです。自分を一番がっかりさせた小屋の焼失が、実は自分を救う働きをしていたのです。聖書には、理不尽とも思える困難が、実は恵みをもたらす備えであったという話がたくさんあります。神様は理不尽な事の中でしばしば強力に働いて下さいます。善にして善をなされる主のご計画に信頼しつつ共に歩んでまいりましょう。