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加害者としての自分

「加害者としての自分」

2013年8月25日

ドイツ文学者の小塩節さんは留学のためにドイツに渡った際、ナチが設けたユダヤ人強制収容所を訪れ、あまりに残虐な歴史の跡を見て強い衝撃を受けました。彼は一遍にドイツが嫌になり、日本に帰ろうと決心して荷造りをしている時に、日本人の訪問客からドイツの教会の礼拝に出たいから案内してくれと頼まれます。小さな集会所で夕礼拝が行われていることを知り、一緒に出席しました。その礼拝で、説教者が涙を流してこう祈りました。「私たちは6百万の罪のないユダヤ人を殺しました。神よ、私たちの手はあの人たちの血で血塗られています。私たちは罪にまみれています。あなたに対し、世界に対し大きな罪を犯しました。神よ、信じます。信仰のない私をお助けください(マルコ9:24)」。礼拝後、この説教者は、かつてナチのユダヤ人虐殺に反対して収容所に入れられ、処刑寸前に終戦となって救い出された人であると聞かされました。彼は、自分も収容所に入れられた被害者であるなどとは一言も語らず、自分も加害者のドイツ人の一人であることを神の前に悔い改め、赦しを願ったのです。小塩は深く感動し、ドイツに留まって勉強することを決意し、やがて日本を代表するドイツ文学者になったのです。

「開通」

2013年8月18日

第一次世界大戦の時、カテリック陣地に描き残された有名な絵には、一人の通信兵が無人地帯で死んで横たわっている姿が描かれていました。彼は砲火によって破壊された通信線を修理するために派遣されたのです。彼はそこで死んで、冷たく横たわっています。しかし、彼はその使命を全うしたのです。なぜなら、彼は硬直した手の中で、切れていた通信線の両端をしっかりと握りしめていたからです。その絵の下には「開通(Through)」と一語書かれています。これは、主イエスが成し遂げられた救いの御業について、私たちキリスト者が信じていることを描き示しています。罪は、神様と人との接続(関係)を切断しました。主イエスは、十字架の死によって罪の故に切断された交わりを回復してくださったのです。罪は、私たち人間と神様との間に、超えることのできない大きな深い溝を作ってしまいました。この溝は、私たち人間がどんなに努力しても決して超えることが出ません。それほど私たちの罪は深くて大きいのです。主イエスの十字架は、この溝にかけられた唯一の橋です。この十字架の橋が開通したので、私たちは神様のもとへと行くことができるようになったのです。

「憎しみを葬る」

2013年8月11日

第二次世界大戦が終わった翌年の1946年、ベルリン南の大きな墓地で一人の男が毎日黙々と働いていました。ベルリン攻防戦で多くの人々が命を失いましたが、死体を早く片づけなければならないというので、その墓地にまとめて埋められたのです。この人は、土の中に埋められている死体を、一人ひとり掘り起こして、認識票を調べて身元を明らかにしていきました。そして、その近親者に連絡を取って、改めて新しい墓を作って葬りました。際限ないと思われる仕事を、この人は黙々と続けたのです。この人はユダヤ人でした。「何故あなたはこんなことをするのですか。葬られているのはユダヤ人を虐殺したドイツ人なのに」。こう問われてこの人は答えました。「何としてでも私は憎しみを葬らなければならないのです」。それは憎らしい敵のドイツ人の遺体さえも葬る、ということではありませんでした。この人は、自分の中にある憎しみを葬るために、この愛の業をしたのです。憎しみは時が経てば薄れるものではありません。また報復によって消えるものでもありません。憎しみを葬ることができ唯一のもの。それは愛です。主イエスの十字架は、その愛を私たちに教えてくれています。

「憐みが大好きな主」

2013年8月4日

ナポレオンの軍隊で一人の兵士が見張中に居眠りをしたため、軍事裁判にかけられ死刑判決を受けました。それを知った彼の母親はナポレオンに直訴し、必死に助命を嘆願しました。しかしナポレオンは聞き入れません。「あなたの息子が居眠りしたのはこれが二回目です。同じ過ちを二度も繰り返した彼に憐れみを与える余地は残っていません」。すると母親は食い下がってこのように言いました。「閣下、憐れみを与える余地があるから与える憐みは、憐みとは言いません。憐れみを受ける資格も価値もないのに与えるからこそ憐みではありませんか」。この母親が訴えたように、憐みとはそれを受ける理由も資格も持っていない者が、ただ一方的に受ける恵みのことです。そして神様はこの憐みが大好きなお方なのです。但しその憐みは正当なものでなければなりません。もしポレオンが安易にこの兵士を赦せば、軍の規律は保てなくなります。軍の規律を保ちながら同時に兵士が赦されるためには、誰かがその償いを果たす必要があります。神様は私たちの罪を赦すために償いを果たしてくださいました。それが主イエスの十字架なのです。