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信じるとは

「信じるとは」

2013年9月29日

ジョン・ペイトン宣教師は、南太平洋の小さな島に召されました。そこで、ペイトン宣教師は、聖書を島の言葉に翻訳しようと試みました。翻訳を始めて直ぐに、困ったことがおきました。実は、その島には「信じる」という言葉がなかったのです。途方に暮れていると、そこに畑仕事から帰ってきた一人の男が、椅子にどかっと腰掛けて、両足を机に乗せて、こう言いました。「私はいま、この椅子に全身の重みを掛けているのさ」。これを聞いたペイトン宣教師は、「これだ!この言葉だ!」と叫びました。『全身の重みを掛ける』、これが島の言葉では一言で言い表せる言葉なのです。ペイトン宣教師は、この言葉を『信じる』という言葉の翻訳として使いました。『全身の重みを掛ける』。私たちは、イエス様の救いに全身の重みを掛けているでしょうか。片足は、どこか違うところに置いて、いざとなったら直ぐに逃げ出せるような信じ方をしていないでしょうか。信じる、という事は、全身の重みを掛けることです。委ねきることです。片足だけは踏み入れても、もう一方の足は別の所に置いているのではなくて、全身を委ねるのです。それが、信じるということです。

「渇き」

2013年9月22日

 

ブラジルの沖でボートに乗っていて遭難した人たちの話です。 太陽は容赦なく頭上に照りつけ、渇きのために唇はひび割れ、舌は腫れ上がっていました。陸地はまだはるか遠く、潮の流れが強いため、逆に沖へ沖へと押し出されていたのです。岸にたどり着こうと、彼らは必死にボートをこぎ続けました。海水を飲むのは、体にも渇きにも最悪のことだと分かっていましたが、一人がとうとうこらえ切れずに、手で海水をすくって口に運びました。その人が叫びました。「奇跡だ!これは真水だよ」。彼らは、あまりに疲れ果てていて、世界最大の水量を誇るアマゾン川の河口の沖にいることに思い至らなかったのです。その水量の多さのため、河口あたりの海面は、何キロにも渡って真水になっていたのです。何日もの間、真水の上を航海していながら、喉の渇きで死にかけていたという事実が分かったのは、随分後のことでした。私たちも神様の恵みの中に置かれているのに、そのことに気が付かず、必死になってもがいていることがないでしょうか。神様が、「大丈夫、私はあなたを力強い右の手で支えている」、と仰っておられるのに、徒に不安を覚えていることはないでしょうか。主の手に委ねる幸いに生きるお互いでありたいと願います。

「ヒトデに聞いてみる」

2013年9月15日

ある作家が海辺に行くと、一人の青年が、砂浜で波が運んでくるヒトデを集めては再び海に戻していました。青年は水位が低いところではヒトデが死んでしまうと知っていたからです。作家は青年に「おまえがやっていることは意味がないよ。太平洋には、水位が低いところで死んでいくヒトデが何千匹もいるんだから。おまえはすべてのヒトデを救うことなんてできない話だよ」と言いました。すると青年は、「なぜ私が救ったヒトデにそのことを聞いてみないのですか」と答えました。その後、浜辺には、長い間一緒にヒトデを救っている二人の姿があったそうです。すべてをすることは不可能ですが、できることをすることは可能なのです。マザーテレサはよくこう言っていました。「私たちは大きなことはできません。私たちにできることは小さなことです。その小さなことを大きな愛をもってするのです」。生涯8000曲もの賛美歌を作った女性ファニー・クロスビーの墓にはこう刻まれています。「She Did What She Could」 (彼女は自分にできることを為した)。 私たちも目の前の現実の壁の大きさばかりに目を奪われることなく、自分にできることを、一つ一つなしていきたいと思います。

「最後だとわかっていたら」

2013年9月8日

あれから12年が経ちました。9.11 同時多発テロの追悼集会で読み上げられた、わが子を亡くした母親の詩、『最後だとわかっていたなら』の一部を紹介します。「・・・そして わたしたちは 忘れないようにしたい/若い人にも 年老いた人にも、 明日は誰にも約束されていないのだということを/愛する人を抱きしめられるのは、今日が最後になるかもしれないことを/明日が来るのを待っているなら、 今日でもいいはず/もし明日が来ないとしたら、 あなたは今日を後悔するだろうから/微笑みや抱擁やキスをするための、 ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと/忙しさを理由に、その人の最後の願いとなってしまったことを、どうして してあげられなかったのかと/だから 今日、あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう/そして その人を愛していること、 いつでも いつまでも大切な存在だということを、そっと伝えよう/『ごめんね』や 『許してね』や 『ありがとう』や 『気にしないで』を、伝える時を持とう/そうすれば もし明日が来ないとしても、あなたは今日を後悔しないだろうから」。この詩は、最愛の人を既に天に送られた方には、読むのが辛いかもしれません。しかし、あなたの周りには今も大切な人がいる筈です。その人にこのような気持ちで接することは今からでもできるのです。

「チャペルの意味」

2013年9月1日

教会堂のことをチャペルと言いますが、この言葉はシャペルというフランス語からきているそうです。もともとは外套(マント)を意味する言葉です。なぜ外套がチャペルの語源になったのでしょうか。それは、4世紀にフランス・トゥールの司教をしていた聖マルティヌスが、自分の外套を半分に裂いて、貧しい人に分け与えたという故事から来ているのだそうです。この話は、困っている人たちに手を差し伸べていくことが、教会に課せられた本来の務めであることを私たちに覚えさせてくれます。先日、「聖書を読む会」で次のような話を紹介させていただきました。“男は森で、ぼろをまとい、寒さに凍えている一人の少女に出会った。満足に食べてもいないらしい。彼は腹を立て、神に向かって言った。「どうしてこんなことを許しておかれるのですか。何とかなさったらいかがです」。神は何も言われなかった。しかし、その夜不意にお答えになった。「私が何とかしたのは確かだよ。お前を造ったではないか」。” この話には、誰もが降参してしまうのではないでしょうか。そして、「神様、愛の足らない私をお許しください」と祈らずにはおれないのではないかと思います。