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ボクシング・デー

「ボクシング・デー」

2014年12月31日

クリスマスの翌日の12月26日はボクシング・デー(Boxing Day)と呼ばれていますが、拳闘をする日ではありません。クリスマスボックスを開ける日という意味です。ボクシング・デーは、イギリスを始め旧英連邦諸国や北欧諸国で守られている祭日です。アメリカでは祭日とされていませんから、アメリカ文化の影響が強い日本ではあまり知られていません。ボクシング・デーの由来にはいくつかの説があるようですが、その中の二つを紹介します。教会がクリスマスの前に、貧しい人たちのために寄付箱を設置して寄付を募り、クリスマスの翌日に箱を開けて人々に配ったという説。もう一つは、クリスマスの日も主人の為に仕えなくてはならなかった召使いたちに、その見返りとして翌日を休日にして家族と一緒に過ごすことを許し、箱にギフトとボーナスを入れて召使いたちに配布したという説。現在でも、この日に、クリスマスでも働かなければならなかった郵便配達の人や、新聞やミルクを配達する人などに、箱入りのプレゼントを贈る習慣が一部に残っているそうです。ボクシング・デーとは拳闘をする日ではなく、貧しい人たちや弱い人たちのことを考える心優しい思いから起こった祝日なのです。

「行かないで」

2014年12月28日

アメリカのある村の教会の教会学校に、一人の知的障害の男の子がいました。先生たちはクリスマスページェントで、その子にも役を用意しました。セリフはただ一つ、「満員で部屋はありません」。そして家畜小屋を指す役でした。男の子は嬉しくて毎日練習しました。当日、いよいよ男の子の出番です。皆が祈るような気持ちで見守っていました。「満員で部屋はありません」、そして家畜小屋の方を指しました。皆は、ホッと安心しました。ところが、とぼとぼと家畜小屋に向かうマリアとヨセフを見ていた男の子の目に涙が溢れ、泣きながら二人の後について叫んだのです。「行かないで。家畜小屋は寒いし汚いよ。僕の家においでよ。イエス様を暖かい所で産んであげて。」ページェントはめちゃくちゃになりました。しかし、どんなページェントよりも深い感動を皆の心に残しました。私たちの心は、そして私たちの家庭は、イエス様をお迎えする用意がなされているでしょうか。イエス様をお迎えするために、愛、喜び、平和、希望の火が、暖かく灯されているでしょうか。マザーテレサは問い掛けています。「もしマリアとヨセフが現代、宿を求めている時、あなたの家庭を選ぶでしょうか。」

「はやぶさ、ロウソク、イエス様」

2014年12月21日

12月3日に小惑星探査機「はやぶさ2」が打ち上げられました。太陽系や生命の起源に一筋の光を当てるために、6年がかりで往復52億キロを旅して、小惑星から岩石を持ち帰ります。先代の「はやぶさ」は、最後には自らを燃やし尽くして、その大切な使命を果たしました。この「はやぶさ」の姿はロウソクを想い起させます。ロウソクは世の中に光をもたらすために、自らを燃やし尽くします。アドベントの期間、私たちはロウソクの温かい光から、慰めと平安を与えられています。この「はやぶさ」とロウソクは、どちらも主イエスを想い起させます。「はやぶさ」は、命の起源に一筋の光をもたらすために、何十億キロという距離を旅して、宇宙の遥か彼方から帰ってきます。主イエスも、私たちに永遠の命の光をもたらすために、無限の距離を超えて来てくださいました。そして、この世の暗闇を照らすために、ロウソクのように、ご自身の命を十字架において燃やし尽くされました。美智子皇后が詠まれた歌、「その帰路に 己を焼きし 「はやぶさ」の 光輝かに 明かるかりしと」。不遜ながら、これをこのように替えてみました。「十字架に 己を焼きし キリストの 光輝かに 明かるかりしと」。

「クリスマスカード」

2014年12月7日

メリー・クリスマスの「メリー」とは、「楽しい」という意味ですが、元々は「勇敢な」という意味を持っていました。ですから「メリー・クリスマス」とは、単に楽しいということだけでなく、困難な状況にあっても主イエスが共にいてくださるので勇敢に生き抜くことが出来る、という意味も持っているのです。皆さんの中には、家族を亡くされた方にクリスマスカードを送るべきか、迷われた経験をお持ちの方もおられるでしょう。しかし、悲しみの中におられるからこそ、慰めを届けることに意味があるのではないでしょうか。「メリー・クリスマス」とは、悲しみの中にあっても、主イエスが共にいてくださるので前を向いて生きていく、という意味があることを覚えて、慰め主なる主イエスがあなたと共にいますように、という祈りを込めて送ることは許されると思います。『クリスマスは、…どんな悲しみ、苦しみの底にいる人でも打ち勝つことができる慰めが与えられた出来事の祝いです。だから闇にうずくまっている人のところにこそ届けるべきなのです。私たちが天使になり、その喜びの歌声を届けましょう!』(今年奥様を天に送られた加藤常昭師の言葉、「信徒の友」12月号より)。

「宝石よりも大切なもの」

2014年11月30日

一人の巡礼者が村外れで野宿していた。そこへ突然、村の男が駆けつけてきてこう言った。「宝石、宝石。宝石をください!昨夜、夢で天使のお告げがあったのです。夕暮れに村外れに行けば巡礼者に会える。その人が宝石をくれるから、私は大金持ちになれると」。巡礼者は袋の中から石を一つ取り出して男に差し出した。「それは多分このことでしょう。二、三日前に森の小道で見つけたのです。どうぞ持っていって下さい」。男は石を見て驚いた。何とそれは、大きなダイヤモンドだった。彼はダイヤモンドを受け取り村に帰った。しかしその晩、一睡もできずに夜を過ごした。日が昇ると、男は巡礼者のところに行ってこう言った。「あれほど喜んでダイヤモンドを手放せるのだから、あなたはよほどすごい宝をお持ちに違いない。私はその宝の方が欲しいのです」。今日の午後、バザーが開かれます。もし収益が与えられるなら、その恵みを感謝して頂きたいと思います。しかしバザーを通して、主は、収益以上の恵みを与えてくださると思います。教会と地域との絆が強められ、そして教会員相互の信頼と一致が更に深められるという恵みです。その方が遥かに大切な宝なのではないでしょうか。

「言葉に宿るいのち」

2014年11月23日

クリスチャン作家の椎名麟三は、「言葉のいのちは愛である」と言いました。言葉によって愛が伝えられ、人を生かすことになるからです。こんな恐ろしいエピソードがあります。ある皇帝が何とも残酷な実験を思いつきました。もし赤ちゃんが何も言葉を聞かされなかったら、一体何語を話し出すだろうか。それを知るために、多くの赤ちゃんを集めてこう命令しました。「ミルクや食事は十分に与えよ。しかし絶対に話しかけるな」。一年、一年半と時が経ちました。赤ちゃんたちは何かを話し出したでしょうか。当然ですが、何も話し出しませんでした。そして可哀そうなことに、二年くらいの内に赤ちゃんは皆、死んでしまったのです。人は食べ物がないと生きてはいかれません。でもそれだけでなく、言葉を掛けられなければ、生きていけないのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、と主イエスが言われた通りです。言葉なしには人は死んでしまうのです。ということは、「言葉のいのちは愛」なのですから、愛がなければ人は生きていけないということです。私たちが活き活きと生きるために、お互いに愛の言葉を掛け合う群れとなりましょう。

「神の子として生きる平安」

2014年11月16日

どの親でも、一度はお子さんの反抗期に悩まれたと思います。子どもに期待すればするほど、期待を裏切られた時に、悲しみと怒りと焦りが湧いてきます。上手く乗り越えていく秘訣の一つは、親自身が幸せに生きる事ではないでしょうか。親が上に立って、子どもをよく育ててやろうと乗り出すと、かえって問題がややこしくなっていくように思います。自分は子どもにとっては親であるけれども、自分も神様にとっては一人の子どもに過ぎない。そして神様は、キリストにあって、私を一人前の大人にするために、子どもを用いて訓練してくださっている、と受け止めたらどうでしょう。私は何でも分かっている万能の親ではなく、神様の前には一人の人間、一人の子どもです。ですから、神様の子どもとして、神様に心を注ぎ出し、約束を信じ、決して、神様は悪いようになさらないと信頼して生きることが、平安の秘訣ではないかと思います。お子さんは、反抗しつつも、親の反応を確かめています。そして、自分の反抗に対しても、平安をもって応えてくれる親に安心するのです。そして、いつの間にか親の平安が、子に転嫁されていきます。善にして、善をなされる主に、委ねてまいりましょう。

「天国での姿」

2014年10月26日

今日から11月9日まで、会堂後方において『武信正子姉102歳おめでとう俳句展』を開催します。その中の一句、「天国の 夫はアロハ 着てるかも」。武信さんらしいユーモアをもって、召されたご主人に対する深い愛を詠っておられます。天国で再会するとき、愛する人はどのような姿をしているのでしょうか。ある神学者は「天国では、極めて善いものとして造られた一人一人が、その最も善い時の姿でいるのだ」と言っています。では、聖書は何と言っているでしょうか。「どのようになるかは、未だ示されていません。しかし、御子に似た者となるということを知っています」(第一ヨハネ3:2)。聖書は、それは、未だ示されていないから分からない。でも心配することはない。なぜなら「御子に似た者となるということ」は分かっているからだ、と言っています。神様は、ご自分のお姿に似せて私たちを造ってくださった。しかし、私たちの罪のために、その姿が損なわれてしまった。天国では、それが回復するのだ、というのです。私たちは、最終的には、キリストに似た者とされていくのです。そのことが確かなのであれば、それ以外の何も知る必要はないではないか。聖書はそう語っています。

「まことの美しさ」

2014年10月19日

4年前、茅ヶ崎恵泉教会での初めての説教で、ベー・チェチョルさんというテノール歌手の話をしました。ベー・チェチョルさんは、甲状腺がんの手術によって、アジア音楽史上最高と言われた歌声を失いました。しかし日本人の友人の協力によって、日本で声帯回復の手術を受け、徐々に声を取り戻していきました。私は、6年前にパシフィコ横浜で開かれた「ラブソナタ横浜」集会において、何とか歌えるまでに回復したチェチョルさんの歌を間近に聞きました。それは全盛期の声とは比べ物にならない声でした。しかし、神様を賛美できる喜びが、チェチョルさんの体全体から溢れ出ていました。アンコールで「輝く日を仰ぐとき」という賛美歌を歌う前に、彼は言いました。「この曲は、私が、手術台の上で歌った歌です」。歌声を失うかもしれないという手術の前に歌ったのが、神様の大いなる恵みを讃える歌であったというのです。私は、あんなに美しい歌声を今まで聞いたことがないように思いました。人の心を揺り動かす本当の美しさに出会った思いがしました。休暇を頂いたので「テノール」というチェチョルさんの映画を見に行きました。久し振りに泣きました。是非お勧めしたい映画です。

「独り子を与える愛」

2014年10月12日

9月28日の礼拝で、ヨハネによる福音書3章16節から「限りない愛」と題して説教させていただきました。その説教の中で引用しようと思いましたが、時間が足らないため取り止めた例話を紹介させていただきます。『自慢の一人息子を、海の事故で失ったある父親は、もし時間を巻き戻すことが出来たら、あの時、何としても息子を止めたのにと何度も思った。しかしある時、ハッと気づかされた。神様もまた、ご自分の独り子を亡くされたのだ。しかも、独り子を人間の世界に送り込んだら、どんなにひどい目に遭うのか、予め分かっていたにも拘らず、送り出すのを止めなかった。どんなに愛を尽くしても理解されず、逆に人々から裏切られる。そして最後は、十字架に釘づけられて呪い殺される。そういうことがすべて分かっていても、「さあ行っておいで」と送り出してくださったのだ。私なら絶対に行かせなかっただろう。でも、神様は送り出された。なぜか。それ以外に、私たちが罪の裁きから逃れる方法がないからだ。 神様は、あの十字架の上で、独り子をお見捨てになるほどに、私たちを愛してくださったのだ。』 何という大きな愛でしょうか。ただ感謝して受け取るしかできない愛です。