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ファーストクラス

「ファーストクラス」

2014年1月26日

英国航空(BA)のある便で次のようなことがあました。ある中年女性が黒人男性の隣に座っていました。その女性はスチュワーデスに「これほど嫌な人のそばに座るのは耐えられないわ」と大きな声で文句を言いました。その便は満席で席の交換はできない状況でした。でも、その女性があまりにうるさく不平を言うので「ファーストクラスには空いている席があるかもしれません。見てまいります」と言ってその場を去りました。何分か経ってスチュワーデスが戻って来ました。「ファーストクラスに、一つだけ空席がありました。機長が席の変更を許可してくれましたのでご安心ください」。その女性は立ち上がって席を離れようとしましたが、スチュワーデスは彼女を押しとどめました。そして、隣の黒人男性に「ファーストクラスにご案内いたします」と言いました。それを聞いて周りの人々はスチュワーデスに拍手を送りました。その年の社長賞には、このスチュワーデスと機長が選ばれたそうです。ここで中年女性を悪役にしているのは「傲慢」です。この傲慢を捨て去ることは容易いことではありません。そのためには、神様の圧倒的な恵みの前に、自分が砕かれることが必要なのです。

「あなたが必要なのです」

2014年1月19日

教会員のM姉が投稿された詩が「信徒の友」2月号に掲載されています。(M姉の詩は、これまでも度々選ばれて掲載されています)。ご本人のご了解を得て紹介させていただきます。『教会は家から遠い/健康面でも弱い部分がある/私  教会の役に立てない/そう思った時に与えられた/聖書のみことば/「一つの体  多くの部分」の節/必要な事は全部聖書に書いてある/神様ありがとうございます』 教会に来られる一人ひとりは、イエス様によって招かれた大切なお客様です。一人ひとりが必要とされています。必要とされているということは、役に立っているということです。第一コリント12:22はこう言っています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。ばりばり仕事をしているときの腕よりも、折れて弱っている腕がかえって必要なのだ、というのです。イエス様が必要とされているのです。私は、弱さを知っているお前が大好きだよ。私はそんなお前を必要としているよ、と言って下さるお方が教会の頭なのです。教会はそのお方の体です。そして、私たちは皆、そのかけがえの無い部分なのです。誰一人欠けてはいけないのです。

「細き御声を聴く」

2014年1月12日

白人と街を歩いていたアメリカンインディアンの友達が突然立ち止まって「どこかでコオロギが鳴いている」と囁きました。白人は首を振り「君のそら耳だよ。ここにはコウロギなんていないよ。万一いたって、この騒音の中で聞こえる筈がないよ」と言いました。しかし、インディアンは「いや、僕らのすぐ近くで一匹鳴いている」と言って、近くの家の壁に生えた蔦の葉をめくってみると、そこにはコオロギがいたのです。白人は「君たちインディアンは我々より耳が良いんだね」と言いました。インディアンは笑って首を振り、ポケットから50セントのコインを取り出し、舗装してある道路に放りました。コインが落ちた金属音がすると、一斉に沢山の顔が振り向いたのです。インディアンは言いました。「ねえ、コインの音はコウロギの鳴き声よりも大きくはなかったよね。それでも沢山の白人が振り向いた。だからインディアンは白人より耳が良いというわけじゃない。いつも気にしているものがよく聞こえてしまうということだよ」。先週の礼拝説教で、御言葉を通して語られる聖霊の細き御声を聴いていくことの大切さを語らせていただきました。そのことを想い起こさせてくれるエピソードです。

「自鍛のための“つもり違い”10か条」

2014年1月5日

新しい年を迎え、皆様方の上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。元旦にはその年の誓いを立てる人がいます。私も、新年の目標を持ちたいと考えていました時、以前読んだことのある「自鍛のための“つもり違い”10か条」を想い起しました。紹介させていただきます。『高いつもりで低いのが教養/低いつもりで高いのが気位。深いつもりで浅いのが知識/浅いつもりで深いのが欲望。厚いつもりで薄いのが人情/薄いつもりで厚いのが面皮。強いつもりで弱いのが根性/弱いつもりで強いのが自我。多いつもりで少ないのが分別/少ないつもりで多いのが無駄。』 これらの10か条は、ある牧師が言った次の言葉に要約されると思います。『自分の善と、他人の悪とは、望遠鏡を逆さまにして見なさい(小さく見なさい)。しかし、他人の善と、自分の悪は、顕微鏡で見なさい(大きく見なさい)。』 聖アウグスティヌスは、「クリスチャンにとって最も大切な徳目は何ですか」、と尋ねられた時、「それは、一にも、二にも、三にも、『謙遜』である」と言いました。新しく与えられたこの年、主の前に謙遜な思いをもって歩んでまいりたいと願っています。