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教会の交わり

「教会の交わり」

2014年7月27日

ある牧師が教会の交わりに3つのタイプがあると言っています。第一は「砂漠タイプ」。砂漠のように掘っても掘っても、水が出てこない。大地を潤してくれる水のような、真実な交わりが与えられない。兄弟姉妹と言いつつ赤の他人に過ぎない時、教会の交わりは形骸化する。第二は「湿地帯タイプ」。湿地帯のように始終ベタベタくっついていなければ不安という不健全な交わり。余りに過剰な交わりは腐敗を招く。第三は「地下水タイプ」。普段は淡々としている。しかし、いつまでも淡々としているのではない。荒野のような世界にあって、いざという時、真実の兄弟姉妹の交わりが、地下水の如く噴き出し、人生を潤す交わり。その牧師は、エフェソ書2章19節の「神の家族」という言葉を引用して、「そうなのだ。教会は神の家族なのだ。家族にもトラブルや破れもあろう。しかし、それらを愛によって修復する訓練場として教会は鍛えられ、成長していくのである」と説いています。その通りだと思います。「教会は愛と慰めの道場」なのです。私たちの交わりが、お互いを成長させ、そして教会全体を造り上げていくものでありたいと願います。そのためにも、愛を追い求めていきましょう。

「折りが良くても悪くても」

2014年7月20日

12日のキッズチャーチで、使徒言行録6~7章を通して、ステファノの信仰について子どもたちと共に学びました。その時、担当したリーダーがこんな例話を紹介してくれました。羽鳥明牧師がどのようにして信仰に導かれたのか、という話です。太平洋戦争が始まる直前のある日、中学校の教室に軍事教練の教師がいきなり入ってきて、声を荒げて「この学級に椰蘇(ヤソ)はおるか、椰蘇がおるなら、出て来い!」と怒鳴ったそうです。教室がシーンと静まり返り、まさか誰も応じる者がないだろうと思ったのに、ひとりの生徒がすくっと立ち上がって「私はキリスト教徒です。私は、私の罪のために十字架にかかり死んで下さった主イエス・キリスト様を信じています」と答えたそうです。その堂々とした態度に、教練の先生は面食らって、何の言い返す言葉もなくその場を立ち去ったというのです。羽鳥先生はこの級友に誘われて教会に導かれ、キリスト者となったと証しておられます。ひとりの友人の命がけの証をとおして、神が生きておられることが分かり、信仰に導かれたのです。私たちも、誰に対しても、どこででも、折りが良くても悪くても、御言葉を伝えていく者でありたいと思わされます。

「恵みの呼吸」

2014年7月13日

先週に続いて、河野進牧師の詩を紹介させていただきます。とても短い詩です。『天のお父さま どんな不幸を吸っても はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから』。辛いことも、悲しいことも、「すべては恵みの呼吸」であって、その中に神の愛が隠されていると信じる。これが生きる喜びを生み出す秘訣である、ということなのでしょう。ところで、ある人がこんなことを言っていました。「人が吐く息は、決してどこかに消えて無くなってしまうことはない。私たちが吐く息は、薄められながらも世界中に広がって行く。そして、一息の息が世界中に行き亘るのに約千年掛かる」。この言葉が科学的に正しいかどうかは分かりません。しかし、もし正しいとしたら、イエス様が吐かれた息は、今もこの地上を覆っており、私たちはイエス様の吐かれた息を、ほんの僅かでも、日々吸っていることになります。それを聞いてから、私は、何かで落ち込んだ時には、思い切り深く息を吸い込む事にしています。イエス様の吐かれた息を胸いっぱい吸い込むと、イエス様がすぐ側におられる思いに導かれ、力が湧いてくるような気がするのです。これも「恵みの呼吸」と言えるのでしょうか。

「病まなければ」

2014年7月6日

教会員の梅田和彦兄が6月25日に天に帰られました。73年のご生涯の内、実に40年近くも週3回の人工透析を続けられながら、与えられた命を精一杯生き抜かれました。60歳まで勤務を続けられましたが、夜間透析を終えて深夜に帰宅する日々は本当にお辛かったと思います。ご自身がお体に弱さをお持ちでしたので、病人や苦しんでいる人の気持ちをよく理解され、親身になって寄り添い、社会福祉のお仕事に力を尽くしてこられました。河野進と言う牧師が書いた『病まなければ』という詩があります。『病まなければ ささげ得ない祈りがある/病まなければ 信じ得ない奇跡がある/病まなければ 聞き得ない御言葉がある/病まなければ 近づき得ない聖所がある/病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある/おお 病まなければ 私は人間でさえあり得ない』。梅田兄も同じような思いであったのかもしれません。主イエスは、神であられるのに人間となられ、私たちと同じ悩み、苦しみを負ってくださいました。そして最後は、十字架の死という最も低いところまで降りてくださいました。だからこそ、私たちの弱さ、苦しみを分かってくださり、どのような時にも慰めを与えてくださり、助けてくださるのです。