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あなたは何が見えますか

「あなたは何が見えますか」

2014年9月28日

藤木正三という牧師がこんなことを書いています。「こういう格言があります。『十代は無知、二十代は夢、三十代は無謀、四十代・五十代は恥、六十代で人が見え、七十代で自分が見える。』私も七十代後半になって、自分の中にある自分中心なとらわれが、見えてきました。(中略)この年になって、罪が見えてきます、弱さが見えてきます、あさましさが見えてきます。もうどう仕様もない自分が見えてきます。そして、私の罪が、気付かぬままに、どうしようもないままに、既にイエスによって取り上げられている、ということを思うのです。イエスは、私の実態を、私よりも深く、私よりも早く、私よりも正確につかまえてくださっている。それ故に、私の手付かずの身勝手さを執り成して、ご自分を食い尽くし、十字架につかれたのです。」藤木師は、七十代後半になって自分と、自分の中にある罪が見えてきた、と言っておられます。私も七十代に突入しました。どんな自分が見えてくるのか、怖いような気がします。では、八十代、九十代になったら、何が見えてくるのでしょうか。キリストがもっとはっきり見えてくるのでしょうか。もしそうなら、歳を取ることが楽しみとなりそうです。

「共生できる社会」

2014年9月21日

北海道、浦河町にある「べてるの家」という施設に長く関わってきた向谷地生良氏の言葉を紹介させていただきます。「蟻の社会は、よく働く蟻と普通の蟻と働かない蟻が、6対3対1の割合で構成されている。働かない蟻を実験的に排除すると、残りの蟻がちゃんと6対3対1に再配分される。それが自然のなりゆきで、蟻の社会は、働かない(働けない)というポジションが、いかに大切な存在かを知っています。様々な理由で1になった人たちが、実は地域社会の中では大切で必要な存在なのです。あらゆる生き物の世界では、そのようなダイナミックな共生のメカニズムがあるのに、人間社会だけがそれを失いつつある。頭と体がよく働くガンバリ屋だけで構成される社会は、生態系としては著しくゆがんだ社会だと思います。学校では、誰もがガンバリ屋を目指し、正しく生きようと努力する。しかし、正しいことをしようとする人たちの〈正しさ〉の激突はすさまじいものです。多くの場合、内部分裂したり、仲間割れしたりする。私は学校でのいじめの問題も、正しい子どもを育てようとした結果生じた、群の中の共食い現象と見る」。反対のご意見をお持ちの方もおられるかもしれませんが鋭い指摘だと思います。

「最上の業」

2014年9月14日

54年に亘って日本で活動され、上智大学の学長も務められたヘルマン・ホイヴェルス神父は、ドイツに帰国後、友人から次のような詩を送られました。「最上のわざ  この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、 働きたいけれど休み、 しゃべりたいけれども黙り、 失望しそうなときに希望し、 従順に、平静に、おのれの十字架をになう。  若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、 人のために働くよりも、 謙虚に人の世話になり、 弱って、もはや人のために役だたずとも、 親切で柔和であること。  老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後のみがきをかける。 まことのふるさとへ行くために。 おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、 真にえらい仕事。 こうして何もできなくなれば、 それを謙虚に承諾するのだ。  神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。 それは祈りだ。 手は何もできない。 けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。  すべてをなし終えたら、 臨終の床に神の声をきくだろう。 『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』 と。」 ホイヴェルス神父は、人生の秋を楽しむ秘訣をこの詩の中に見ています。

「最後だとわかっていたら」

2014年9月8日

あれから12年が経ちました。9.11 同時多発テロの追悼集会で読み上げられた、わが子を亡くした母親の詩、『最後だとわかっていたなら』の一部を紹介します。「・・・そして わたしたちは 忘れないようにしたい/若い人にも 年老いた人にも、 明日は誰にも約束されていないのだということを/愛する人を抱きしめられるのは、今日が最後になるかもしれないことを/明日が来るのを待っているなら、 今日でもいいはず/もし明日が来ないとしたら、 あなたは今日を後悔するだろうから/微笑みや抱擁やキスをするための、 ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと/忙しさを理由に、その人の最後の願いとなってしまったことを、どうして してあげられなかったのかと/だから 今日、あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう/そして その人を愛していること、 いつでも いつまでも大切な存在だということを、そっと伝えよう/『ごめんね』や 『許してね』や 『ありがとう』や 『気にしないで』を、伝える時を持とう/そうすれば もし明日が来ないとしても、あなたは今日を後悔しないだろうから」。この詩は、最愛の人を既に天に送られた方には、読むのが辛いかもしれません。しかし、あなたの周りには今も大切な人がいる筈です。その人にこのような気持ちで接することは今からでもできるのです。

「婆子焼庵」

2014年9月7日

禅宗に「婆子焼庵」という公案があります。昔一人の老婆がおり、20年にも亘り一人の修行僧の面倒を見ていた。いつも若い娘に食事などの世話をさせていた。ある日、老婆はその娘を使って修業僧を試そうとした。娘は修業僧に抱きつきこう尋ねたのだ。「どんな感じがしますか」。すると、彼は平然と答えた。「枯れ木が凍り付いた岩に寄りかかったようものです。真冬に暖気がないように、私は何も感じません」。娘は帰って老婆にありのままを伝える。すると老婆は烈火のごとく怒り狂った。「私は、20年をかけて、こんな俗物を育てていたのか」。老婆はたちまち修業僧を追い出し、汚らわしいと言って彼が住んでいた庵を焼いてしまった、というのです。さて、この僧の何がいけなかったのでしょうか。様々な説があります。恐らく、この僧は無感動になることが修行だと勘違いしたのです。執着しないということに執着して、人間らしく、活き活きとした生き方が、できなくなっていたのです。この僧の生き方は、ファリサイ人の生き方と重なります。主イエスは、思い悩む私たちの、そのままを受け入れ、救ってくださいました。私たちが、活き活きと生きる道を開いてくださったのです。

「チャペルの意味」

2014年9月1日

教会堂のことをチャペルと言いますが、この言葉はシャペルというフランス語からきているそうです。もともとは外套(マント)を意味する言葉です。なぜ外套がチャペルの語源になったのでしょうか。それは、4世紀にフランス・トゥールの司教をしていた聖マルティヌスが、自分の外套を半分に裂いて、貧しい人に分け与えたという故事から来ているのだそうです。この話は、困っている人たちに手を差し伸べていくことが、教会に課せられた本来の務めであることを私たちに覚えさせてくれます。先日、「聖書を読む会」で次のような話を紹介させていただきました。“男は森で、ぼろをまとい、寒さに凍えている一人の少女に出会った。満足に食べてもいないらしい。彼は腹を立て、神に向かって言った。「どうしてこんなことを許しておかれるのですか。何とかなさったらいかがです」。神は何も言われなかった。しかし、その夜不意にお答えになった。「私が何とかしたのは確かだよ。お前を造ったではないか」。” この話には、誰もが降参してしまうのではないでしょうか。そして、「神様、愛の足らない私をお許しください」と祈らずにはおれないのではないかと思います。