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天国での姿

「天国での姿」

2014年10月26日

今日から11月9日まで、会堂後方において『武信正子姉102歳おめでとう俳句展』を開催します。その中の一句、「天国の 夫はアロハ 着てるかも」。武信さんらしいユーモアをもって、召されたご主人に対する深い愛を詠っておられます。天国で再会するとき、愛する人はどのような姿をしているのでしょうか。ある神学者は「天国では、極めて善いものとして造られた一人一人が、その最も善い時の姿でいるのだ」と言っています。では、聖書は何と言っているでしょうか。「どのようになるかは、未だ示されていません。しかし、御子に似た者となるということを知っています」(第一ヨハネ3:2)。聖書は、それは、未だ示されていないから分からない。でも心配することはない。なぜなら「御子に似た者となるということ」は分かっているからだ、と言っています。神様は、ご自分のお姿に似せて私たちを造ってくださった。しかし、私たちの罪のために、その姿が損なわれてしまった。天国では、それが回復するのだ、というのです。私たちは、最終的には、キリストに似た者とされていくのです。そのことが確かなのであれば、それ以外の何も知る必要はないではないか。聖書はそう語っています。

「まことの美しさ」

2014年10月19日

4年前、茅ヶ崎恵泉教会での初めての説教で、ベー・チェチョルさんというテノール歌手の話をしました。ベー・チェチョルさんは、甲状腺がんの手術によって、アジア音楽史上最高と言われた歌声を失いました。しかし日本人の友人の協力によって、日本で声帯回復の手術を受け、徐々に声を取り戻していきました。私は、6年前にパシフィコ横浜で開かれた「ラブソナタ横浜」集会において、何とか歌えるまでに回復したチェチョルさんの歌を間近に聞きました。それは全盛期の声とは比べ物にならない声でした。しかし、神様を賛美できる喜びが、チェチョルさんの体全体から溢れ出ていました。アンコールで「輝く日を仰ぐとき」という賛美歌を歌う前に、彼は言いました。「この曲は、私が、手術台の上で歌った歌です」。歌声を失うかもしれないという手術の前に歌ったのが、神様の大いなる恵みを讃える歌であったというのです。私は、あんなに美しい歌声を今まで聞いたことがないように思いました。人の心を揺り動かす本当の美しさに出会った思いがしました。休暇を頂いたので「テノール」というチェチョルさんの映画を見に行きました。久し振りに泣きました。是非お勧めしたい映画です。

「独り子を与える愛」

2014年10月12日

9月28日の礼拝で、ヨハネによる福音書3章16節から「限りない愛」と題して説教させていただきました。その説教の中で引用しようと思いましたが、時間が足らないため取り止めた例話を紹介させていただきます。『自慢の一人息子を、海の事故で失ったある父親は、もし時間を巻き戻すことが出来たら、あの時、何としても息子を止めたのにと何度も思った。しかしある時、ハッと気づかされた。神様もまた、ご自分の独り子を亡くされたのだ。しかも、独り子を人間の世界に送り込んだら、どんなにひどい目に遭うのか、予め分かっていたにも拘らず、送り出すのを止めなかった。どんなに愛を尽くしても理解されず、逆に人々から裏切られる。そして最後は、十字架に釘づけられて呪い殺される。そういうことがすべて分かっていても、「さあ行っておいで」と送り出してくださったのだ。私なら絶対に行かせなかっただろう。でも、神様は送り出された。なぜか。それ以外に、私たちが罪の裁きから逃れる方法がないからだ。 神様は、あの十字架の上で、独り子をお見捨てになるほどに、私たちを愛してくださったのだ。』 何という大きな愛でしょうか。ただ感謝して受け取るしかできない愛です。

「孤独と一人でいること」

2014年10月5日

先週の「めぐみの集い」で、あるご婦人が孤独について質問されました。上手く答えられませんでしたので、ヘンリ・ナウエンの最晩年の著作からの言葉で捕捉させていただきたいと思います。ナウエンは、自分自身が深刻な孤独に悩んでいることを告白し、こう言っています。「愛情に対する限りない飢え。見捨てられてしまったのではないかという不安。この傷が癒えるとは思えない。だが、この痛みは、私の救いへの入り口かもしれない。この傷は、傷のかたちを借りた恩寵だということを、私は知っている。人から拒まれるという経験は、恐れを乗り越えること、限りなく受け入れてくれる神の手の中に、自分の魂を委ねる過程であることが分かった」。ナウエンは、空しさ、寂しさを内容とする「孤独(ロンリネス)」から、「神と共に独りでいること(ソリチュード)」の世界に向かう旅路へと心を向けているのです。堀肇先生は、ロンリネス(孤独)からソリチュード(独りでいること)への実現のためには、第一に、神の前で静まる黙想が必要であり、第二に、霊的旅路の同伴者(信仰の友)を持つことが必要であると言っておられます。教会が、その旅路の出発点となれますなら幸いです。