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「勝ち組」ではなく「価値組」として生きる

「「勝ち組」ではなく「価値組」として生きる」

2015年1月25日

先週は、「3割なら上出来、1割でもOK」と書かせていただきました。「心の友」1月号で、桐生東部教会の三浦啓牧師が、同じようなことを違った切り口から書いておられますので引用させていただきます。(三浦牧師は新潟の敬和学園高校において私の長男と同級生でした。)『世の中に「勝ち組」「負け組」という言葉があります。・・・聖書にも「勝利」という言葉があります。しかしこれは自分と他人とを比べ、誰かに勝つ「勝ち組」という意味ではありません。生きていく中で本当に価値ある物は何かを見つけることで、他者と共に歩むことができることを「勝利」と言っているのです。そのように「勝ち組」ではなく「価値組」として生きることを勧めるキリスト教に触れ、私は「価値組」として歩みたいと思い、クリスチャンとなり、また牧師として歩むことを決めました。』三浦牧師が言われている「生きていく中で本当に価値ある物」とは、私たちを生かしている神様の愛でしょう。そして私たちは、その愛によって、既に「価値組」とされているのです。神様は言われています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4、新改訳聖書)

「3割なら上出来、1割でもOK」

2015年1月18日

ある人がこんなことを書いていました。「20代、30代は人生の全試合に勝てるような気がしていました。ところが40代を過ぎると、人生は全勝できないと気づくのです。負けや引き分けがあるから人生なんだと。全勝を目指していた頃はいつもピリピリしていたのですが、5勝4敗1分けでもいいのだと思うと、心に余裕が出てきます」。これは名言であると思います。ただ5勝4敗1分という目標も少し高いような気がします。野球の3割打者くらいがちょうど良いのではないかと思います。野球では3割打てば大打者です。普通はそんなに打てません。それなのに10割を目指すから辛くなるのです。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授も「1回成功するためには9回失敗しないといけない」と言っています。信仰生活も同じです。私たちが神様の御心に応えられるのはほんの僅かです。それなのに10割打者でなければならないと思うから辛くなるのです。勿論10割を目指すことは大切です。しかし、私たちはそんなに強くありません。殆どの場合、神様の御心に沿うことができないのです。ですから1割でもよいのです。大切なことは、御心に沿うことが出来なかった時に心からの悔い改めをすることです。

「終わりを始めましょう」

2015年1月11日

先月ノーベル平和賞を受賞した二人の演説から。(カイラシュ・サティヤルティさん)「私の人生の唯一の目的は、全ての子どもたちが自由に成長し、食べ、眠り、笑い、泣き、遊び、学校に行けるようにすること。そして何より、夢を持てるようにすることです。」。(マララ・ユスフザイさん)「どうして『強い』といわれる国々は戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすにはとても非力なの?なぜ銃を与えるのはとても簡単なのに、本を与えるのはとても難しいの?戦車を造るのはとても簡単で、学校を建てるのがとても難しいのはなぜ?・・・『最後』になることを決めた最初の世代になりましょう。空っぽの教室、失われた子ども時代、無駄にされた可能性。こうしたことは、私たちで最後にしよう。男の子も女の子も、子ども時代を工場で過ごすのは終わりにしよう。少女が児童婚を強いられるのは終わりにしよう。罪のない子どもたちが戦争で命を失うのは終わりにしよう。・・・女の子が、『教育は罪で、権利ではない』なんて言われるのは終わりにしよう。・・・この『終わり』を始めましょう」。2015 年が“「終わり」の始まり”の年となりますように、共に祈りましょう。

「贖いの小羊の年」

2015年1月4日

今年は、羊年です。聖書には羊の話がたくさん出てきます。その中でも、最も私たちの心に深く響くのは、主イエスが世の罪を取り除く「贖いの小羊」として、十字架に屠られたという出来事です。漢字の「義」にも、「善」にも、「美」にも、羊という字が含まれています。この羊を、主イエスの十字架の犠牲の象徴として捉えると、深い意味が伝わってきます。犠牲の羊を我の上に置いて(犠牲の羊の下に自分を置いて)生きる時、まことの義が達成されます。「善」という字は、犠牲の羊が供え物の台に献げられている形を表しています。犠牲の羊が、供え物の台に正しく献げられていること(正しく礼拝されていること)が「善」なのです。そして犠牲の羊が、大きくされている時(自分の思いよりも犠牲の羊の思いの方が大きくされている時)美しい生き方を生きることができるのです。(反対に、自分の方が大きくなると「臭」という字になります。)新しく与えられた2015年、私たちはいつも、主イエスを自分の上に置く義なる生き方を、主イエスを正しく礼拝する善なる生き方を、主イエスを自分よりも大きくしていく美しい生き方を、目指して歩んで行きたいと思います。