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転会

「転会」

2015年5月31日

松本京子姉より、ふじみキリスト教会への転会願いが提出されました。そこに、このように書かれていました。「弱くて、欠けの多い私を、今まで愛と忍耐をもって導き、お支えくださった神様と、茅ケ崎恵泉教会の皆様に、心から感謝いたします。最近、体調が優れないことが多く、自宅のある秦野から茅ヶ崎まで、礼拝に通うことに困難を覚えるようになりました。それで、自宅から歩いて通える教会で礼拝を守っています。」ふじみキリスト教会は、とても温かく松本姉を迎え入れてくださっているとのことです。松本姉の心には、そのような新しい出会いを喜ぶと共に、長く通った茅ケ崎恵泉教会を離れる淋しさが交錯しているようです。その松本姉が、このような詩を送って来られました。『転会/ かみさまさびしいよ  20年近くお世話になった  教会を離れるの/ かみさま心細いよ  慣れた讃美歌21から  新生讃美歌にうつるの/ かみさまうれしいよ  20年の間たくさんの兄弟姉妹と  心からふれあえていた事に気づいたの/ かみさま約束します  これからもイエスさまを主とし  母教会の事をますますお祈りします』 松本姉の教会生活が主によって守られ、恵みと祝福に満ちたものでありますようにお祈りします。

「泥沼から助け出す人」

2015年5月24日

先週、泥沼から少年を救った話を紹介しました。これも似たような例話です。「ある人が泥沼にはまり込んでもがいていました。そこに哲学者が来ました。哲学者は、なぜこの人が泥沼にはまったのか、それはどう意味を持つのかを教えて立ち去りました。次に教師が来ました。彼は、こうすれば泥沼から抜け出せるかもしれないと脱出の方法を教えて立ち去りました。次に篤志家が来ました。彼は、ここまで這い上がってきたら助けようと言って手を指し伸ばしました。しかしその手は届きませんでした。最後に主イエスが来ました。主イエスはその人を見るなり、自分が泥沼に飛び込んでその人を岸に押し上げ、ご自身はそのまま沈んでいきました。」この話は、いくら人を助けたいと言葉で言っても、行動が伴わなければ何の役にも立たないことを示しています。しかし、自らは沈むことも恐れずに沼に飛び込まれた主イエスのお姿は、私たちに為すべきことを示しています。主イエスは、私たちのために命を捨ててくださいました。それによって私たちは真実の愛を知りました。この主イエスを見上げて生きるときに、私たちも真実の隣人愛に生きる生き方へと導かれていくのではないかと思います。

「フレミングとチャーチル」

2015年5月17日

イギリスにフレミングという貧しいお百姓さんがいました。ある日、野良仕事をしていると「助けて!」という叫び声を聞きました。見ると、沼に一人の男の子が腰まで沈んでもがいているではありませんか。フレミングはその子を沼から救い上げました。次の日、りっぱな馬車に乗った貴族がフレミングの家に来て言いました。「昨日、私の息子の命を救ってくださったご恩返しをさせて下さい」。フレミングは「私のしたことで何の報いもいただくつもりはありません」と固く断りました。その時、家の戸口にフレミングの息子が出て来ました。「それなら、この息子さんをお預かりして充分な教育をさせていただけませんか?」時が過ぎ、やがてその百姓の息子は、ペニシリンを発見したアレクサンダ・フレミング卿となったのでした。その後、あの貴族の息子も、ペニシリンのおかげで肺炎から命をとりとめました。イギリス人貴族の名前はランドルフ・チャーチル。そして、その息子の名前はウィンストン・チャーチル。後に、偉大な首相となった人物です。名もない貧しいお百姓さんが、泥沼から一人の少年を助けたことが、世界中の多くの人を救うペニシリンの発見につながったのです。

「ここはホテル、修道場?」

2015年5月10日

ある建物に100人の人がいます。50人はそこをホテルだと思っています。残りの50人はそこを修道場だと考えています。ホテルだと考えていた人々は皆、不平を言います。ホテルの割には居心地が悪いからです。サービスが行き届いていません。快適とはいえない様々なことが次々に出てきます。文句を言えば言うほど益々ひどくなります。しかし、修道場だと考えていた人々は、おおむね平然としています。修道場の割には居心地がいいからです。思ったよりも、ましな所です。確かにつらい待遇もありますが、思いがけない親切を受けることもあります。この世をホテルのように、行き届いたサービスが受けられる所だと勘違いしている人は、不平不満をいいながら生活します。しかし、この世を修道場だと考えている人は、感謝することが多いに違いありません。そもそも修道場とは、人を矯正し、訓練する場所です。この世は、罪人である私たちを、キリストの似姿に変えてゆくための道場のような場所です。ここでサービスのみを求めるのは勘違いしているからです。私たちのホテルは天にあります。クリスチャンにとって死とは、修道場から天国に出発することをいうのです。(C.S.ルイスの著作より)

「人的偶然、神的必然」

2015年5月3日

「信仰とは、人的偶然を神的必然と捉え直す決断である」、と言った人がいます。「たまたま」とか、「思いがけず」と捉えるのは人的偶然。しかし、このことは、神様のご計画によるのだ、神様の御心がこれを為されたのだ、と捉えるのが神的必然。言い換えれば、何事も運命だと思って生きるか、神様の摂理によると捉えて生きるか、ということです。何事も人的偶然、運命によると思っているなら、良いことがあった時には、ただ「ラッキー!」と喜ぶだけです。しかし、何事も神的必然、摂理によると捉えているなら、「神様、感謝します」という祈りに導かれます。苦しい時、辛い時には、一方は「ついてねーなぁ」と呟いて諦める。もう一方は、「神様、私を憐れんでください。苦しみを乗り越える力を与えてください」、と必死に祈る。このような違いが出ます。ある人が、「運命は冷たいけれど、摂理はあたたかい」、と言っています。摂理信仰に生きても、苦しみがなくなる訳ではありません。しかし、苦しみの中でも、共にいてくださり、苦しみを共に担ってくださっている、神様の愛の眼差しの中を歩んで行けます。「御手の中で、すべては変わる賛美に♪」と歌うことができるのです。