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ネコ型、サル型、それとも….

「ネコ型、サル型、それとも….」

2015年8月30日

北森嘉蔵という神学者は人が救われるパターンを「ネコ型」と「サル型」に二分しました。子猫は危険が迫っても何もせず、親猫が首を咥えて運ぶに任せています。自分では何の努力もせず、ただ神様の業に委ね切るというのがネコ型です。一方、子猿は危険が迫ると精いっぱいの努力をして、木によじ登って難を逃れようとします。自分にできる最大限の努力をして救われようとするのがサル型。棚村重行という神学者は、これに「コアラ型」を追加しました。危険が迫ると、親コアラが子供コアラを背中に乗せ、子供コアラが必死にしがみついた状態で退避します。子ネコのように、親ネコに無自覚なまま運ばれるのではなくて、子供コアラも親にしがつみつくという「ささやかな努力」をしている訳です。私は、これらに加えて「ヒツジ型」があると思います。子羊は、弱くてたどたどしい歩みですが何とか自分の足で歩くのです。但し、自分一人で歩くのではなくて、羊飼い(主イエス)と共に歩くのです。主イエスの歩まれる方へ、主イエスの声と杖に従って歩くのです。そして歩けなくなった時には、主イエスが抱いて歩いてくださることを信じて歩くのです。さて、あなたはどの型でしょうか。

「ぞうさん」

2015年8月23日

中村正義兄は今年2月に104歳で天に帰られましたが、その1年前、昨年2月に同じく104歳で召天された、まど みちおさんという詩人がいました。童謡作家としても活躍され、「ぞうさん」、「やぎさんゆうびん」等の素晴らしい童謡を作られました。「ぞうさん」の歌詞はこう言っています。「ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね/そうよ/かあさんも ながいのよ」。まどさんは「ぞうさん」について次のように解説しています。「ぞうの子は、鼻が長いねと悪口を言われた時に、しょげたり腹を立てたりする代わりに、一番好きな母さんも長いのよと、誇りを持って答えた。それは、ぞうがぞうとして生かされていることが、すばらしいと思っているからです。目の色が違うから、肌の色が違うから、すばらしい。違うから、仲良くしようということです。人も動物も、地球上のすべての存在が、それぞれに尊く、あるがままの姿が大切なのです。投げ掛けられた言葉に対する応え方によって、全く違ったものが生み出されるのです」。ヘイトスピーチが飛び交っている今、この歌のように違うから素晴らしい、違うから仲良くしようと応えていくことが、平和への第一歩なのではないでしょうか。

「絆と互」

2015年8月16日

東日本大震災後、「絆」という言葉が頻繁に聞かれるようになりました。あのような悲しい出来事の後で、誰が言い出すともなく「絆」という言葉が様々な機会に聞かれるようになり、それによって多くの人が励まされ、慰められました。これは本当に素晴らしい事でした。「絆」という字は、糸偏に半分と書きます。私たちはそれぞれ半分の糸しか持っていない。その半分ずつが結ばれることが「絆」であり、その半分ずつの糸を結び合わせるものこそが「愛」に他ならないと思わされます。最近届いたあるパンフレットに、「絆」と「互」という表題の短文がありました。著者は、「互」という字は、上から手を指し伸ばして、下の人を支えている形に見えると言っています。しかも、その手は、助けを求めている人の手の下に差し伸ばされ、その人を支えている。「ありがとう、支えてくれて」。「いいえ、あなたこそ私の手を信じてくれて委ねてくれてありがとう」。そんな会話が聞こえてくるようだというのです。「絆」も「互」も一人では成り立ちません。助けを必要としている人に気づき、手を差し伸べることからその第一歩が始まります。漢字の示す意味の深さに驚かされ、また教えられました。

「神様からの語り掛け」

2015年8月9日

神様は思いがけない場面で私たちに語り掛けてくださいます。私の父もそのような語り掛けを経験しました。1945年8月15日終戦の日のことです。父は終戦のラジオ放送を聞いて、訳もなく家を出て付近を歩き回ったそうです。「あぁ、生き延びられた」という思いと、「これからどうなるのか」という不安を胸に抱えて、さ迷い歩いたそうです。ふと見上げると、夏の日に輝く木々の緑が、目に飛び込んで来ました。その時父は、突然のように思わされたそうです。人間が愚かな殺し合いをしている間も、自然の営みは休む間もなく続けられていたのだ。そしてこんなにも力強く、こんなにも美しく、木々は緑の葉を茂らせていたのだ。これは人間の力や思いを越えた、永遠なる存在がなしている事に違いない。当時、父はまだ信仰を持っていませんでしたが、父が永遠なる存在からの語り掛けを聞いた瞬間でした。父が救いに入れられるまでには、それから尚も12年の歳月を要しましたが、この時の神様からの語り掛けは、父の心に忘れ難い思いを残しました。神様は思いがけない時に、私たちの心に語り掛けてくださいます。その時、その静かな細き御声を、聞き洩らすことのないようにしたいものです。

「何もできない魔法使い」

2015年8月2日

クリスチャン医師の柏木哲夫先生の言葉を紹介します。「支える」と「寄り添う」はどう違うのか。「支える」は、「下支え」という言葉があるように下からという感じを受ける。けれども「寄り添う」には横からのイメージがある。また「支える」には、支えなかったらこの人は落ちてしまうという気持ちがある。しかし「寄り添う」には、相手の力を信じるという気持ちがある。しかし寄り添って、ただ横にいるのは簡単な事ではない。そのためには力が必要である。その力こそが愛に他ならない。この言葉で想い起す例話があります。『昔、何もできない魔法使いがいた。ある所に病気の子どもがいた。偉い魔法使いは書斎にこもって治療法の書かれた本を探した。別の偉い魔法使いは、ぶつぶつ呪文を唱えながらいろいろな薬を調合した。何もできない魔法使いはじっと子どものそばにいた。苦しむ子どもの手を握り一緒に汗を流した。やがて治った子どもを見て、偉い魔法使いたちは、自分の術が効いたのだと喧嘩を始めた。子どもは自分の手を握ってくれた人を探したけれど、何もできなかった魔法使いは、自分を恥じてもう姿を消していた。』愛はどんな薬や方法よりも力強い助けなのです。