MENU

「凶」と「安」

「「凶」と「安」」

2015年12月27日

吉野弘さんという詩人の作品は、漢字を題材にしたものが多くあります。「同類」という短い詩も漢字を題材にしています。「脳も胸も、その図らいも/凶器の隠し場所」。脳や胸には「凶」の字が隠れている。人間は善人そうに見えても、誰もが、凶器のような野蛮な思いを心の奥底に抱いている。そんな人間の悲しい姿を詠った詩です。2015年を表す漢字に「安」という字が選ばれました。安全保障関連法案をめぐる激しい論争や、隣国との緊張や頻発するテロで、人心が不安になったことなどが理由に挙げられました。確かに平和の大切さを、より身近に感じるようになりました。世界の人々が、互いに違いを認め合い、受け入れ合って生きることができれば、どんなに素晴らしいでしょうか。過去の出来事で、間違っていたことは素直に認め、謝るべきことは謝ることが必要でしょう。もし私たちクリスチャンが、その先頭に立つことができれば、どんなに幸いでしょうか。クリスチャンだからできるのではありません。クリスチャンであっても、主を見上げて祈らなければできません。私たちの罪を赦すために十字架にかかってくださった主イエスを見上げて、新しい年に向かって歩み出しましょう。

「犬を愛したおじいさん」

2015年12月20日

昔々、とても優しいおじいさんが、独り息子と一緒に幸せに住んでいました。そのおじいさんには犬を造るという特技がありました。一匹一匹、心を込めて造っていました。自分の幸せを犬たちと分かち合いたいと願っていたのです。やがて家は犬でいっぱいになりました。息子と相談して、犬たちを近くの野原に放して、餌をふんだんに与えて、自由に伸び伸びと、幸せに過ごすように計らいました。数日後、息子と一緒に犬を見に行きました。近づくにつれて、犬たちの吠え声が聞こえてきました。なんと犬たちは皆争って、噛みつき合い、殺し合っていました。深く心を痛めた親子は、どうしたら犬たちを救うことができるか話し合いました。息子が言いました。「お父さん、僕が犬になります。そして犬たちに、お父さんに愛されていることを知らせます」。父親が、「そんなことをしたら、犬たちに噛み殺されてしまうよ」と言いました。息子が答えます。「恐らくそうなるでしょう。しかし何匹かは、お父さんの愛を信じて、他の犬たちに教えてくれるでしょう。そしていつか、全世界の犬たちが愛し合って生きられる社会に変えてくれるでしょう」。クリスマスの出来事を象徴する例話です。

「サンタクロースはいるの?」

2015年12月13日

友達から「サンタクロースなんていない」と言われたバージニアは新聞社に手紙を書きました。「教えて。サンタクロースはいるの?」新聞社から返事がきました。「バージニア、サンタクロースがいるというのは決して嘘ではありません。この世の中に、愛や思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです。あなたにも分かっているでしょう。この世界に満ち溢れている愛や真心こそ、あなたの毎日の生活を美しくし、楽しくしているものだということを…もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中はどんなに暗く寂しいことでしょう。あなたのような可愛らしい子どもたちのいない世界が考えられないのと同じように、サンタクロースがいない世界なんて想像もできません。サンタクロースがいなければ、私たち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手で触れるもの、感じるものだけになってしまうでしょう。サンタクロースを見た人はいません。けれども、それはサンタクロースがいないという証明にはならないのです。この世界で一番確かなこと、それは子どもの目にも、大人の目にも、見えないものなのですから。」あなたならバージニアになんと答えますか。

「楽しみもあるクリスマス」

2015年12月6日

牧師であり神学者であった佐藤敏夫先生の話です。佐藤先生は若くして太平洋戦争で南方に派遣され、厳しい軍事訓練で心身ともに疲れ果てていました。その日も厳しい訓練を経て、上官の革靴を磨いていました。その時ふと、「あ、明日はもうクリスマスだ」と思い出しました。緊張の毎日でクリスマスのことも忘れていたのです。クリスチャンの彼はクリスマスの意味がよく分かっていました。その時、戦争がもたらす苦悩や不条理で心がいっぱいだったのに、それらの越えて不思議な喜びが起こってきました。その喜びは、魂の深みから起って来るすべてを包む喜びでした。戦後、平和な時代となり、牧師となった彼は、教会でクリスマスの礼拝と共に祝会も守るようになりました。しかし楽しいクリスマスはしっくりゆかなかったのです。本当のクリスマスはこのように浮かれたものではない。罪と死に支配されているかに見える、人間の存在そのものを、最も深いところで支える深い喜びそのものである筈だ、との思いがあったからです。でも、楽しそうにしている子供たちや教会員の姿を見て、彼は、「楽しみさえもある、喜びのクリスマス」を、素直に受け入れられるようになっていったのです。