MENU

祈り合い励まし合う教会に

「祈り合い励まし合う教会に」

2016年2月29日

5年前の2月22日に起きたニュージーランド大地震。地震発生から5日後、クライストチャーチにある日本人教会(JCFクライストチャーチ)の渋沢憲一牧師は、ご自身のブログに次のような「祈りのリスト」を書かれました。「(1)行方不明者の早期救出のため。(2)遺族や負傷者の方々に深い慰めがあるように。(3)人々の心に平安と癒しが与えられるように。(4)一刻も早いライフラインの回復のため。(5)JCFメンバーの間に互いのための思いやりや深い愛が育つように。(6)このような状況の中にあって神の大いなる栄光が顕わされるように」。この中で、特に5番目と6番目の祈りに心惹かれました。このような大きな試練の中にあって、教会員の間にお互いのための思いやりや深い愛が育ちますようにという祈り。そして、こういう状況の中で、神様の大いなる栄光が顕されますようにという祈りです。このように祈り合ってきたので、JCFクライストチャーチの方々は、この大きな試練を乗り越えることができたのでしょう。恐らく、この時、教会員の方々は、主の御体に繋がっている幸いを、心から感謝されたのではないかと思います。私たちも、祈り合い、励まし合う教会を目指して歩んでまいりましょう。

「息ができるから感謝」

2016年2月21日

20年ほど前、越谷教会員の佐々木純子さんが信仰の生涯を全うして天に召されました。純子さんは、血管外皮腫という大病に罹り辛い手術を何回も繰り返しました。礼拝に来ることが何よりの楽しみで「今日は礼拝が献げられて感謝」と言い、会堂の椅子に座れなくなったら「今日はソファーの部屋で礼拝ができて感謝」と言いました。教会に来ることができなくなったら「今日はお風呂に入れて感謝。台所に立てて感謝」と言い、最後には「息ができるから感謝」と言いました。そんな中でも、教会の週報を作成する奉仕を続けました。召されたのも週報を完成させた直後でした。純子さんのご主人もかつて大病を患いました。ご主人は大のキリスト教嫌いで、純子さんの受洗にも大反対しましたが、妻が「息ができるから感謝」と言って召されたことに衝撃を覚えました。死を見つめて明るく、強く生きる妻、病気の再発を恐れ、死を怯えて生きる自分。ご主人は純子さんの死後、教会に来るようになり、洗礼を受け、忠実な教会の奉仕者となりました。そのご主人も先月召されました。きっと天国での純子さんとの再会を喜ばれておられるでしょう。(「教団新報」越谷教会石橋秀雄牧師の説教より)

「主イエスの愛と犠牲」

2016年2月14日

3年前、北海道の湧別町で岡田幹夫さん(53) が9歳の長女を守って凍死しました。岡田さんと娘さんは、猛吹雪の中、車に閉じ込められていましたが、燃料が少なくなってきたので、近くの民家へ避難するため、1メートル先も見えないような状態の中を歩きだしました。しかし途中で遭難してしまったのです。岡田さんが娘さんに覆いかぶさるようにして亡くなっていました。車からおよそ300メートル離れた所で、最寄りの民家まで50メートルの場所でした。岡田さんは、風から守るように娘さんに覆いかぶさった状態で、しかし呼吸がきちっとできるように空洞をつくって亡くなっていたそうです。娘さんは奇跡的に無事でした。猛吹雪の中、ひと晩中、娘さんに覆いかぶさり、その命を守った岡田さん。近くの店でひな祭りのケーキを予約していたそうです。この父親の愛と犠牲は、主イエスの受難を想い起させます。10日(水)から受難節に入りました。毎年、必ず繰り返される教会の行事ですので、慣れてしまって深くその意味を思わなくなっているということはないでしょうか。私たちを生かすために命を捨ててくださった主の愛と犠牲に感謝しつつ、この受難節の時を過ごしたいと思います。

「本当に見えるということ」

2016年2月7日

今朝の御言葉は、主イエスが、生まれつき目の見えない人を癒される出来事を伝えています。江戸時代の国学者の塙保己一という人は、盲目であるにもかかわらず一流の学者でした。彼にはこのようなエピソードがあります。ある日の夜、生徒たちに『源氏物語』の講義をしているときのこと。風が吹いて、ろうそくの火が消えてしまいます。生徒たちは教科書が見えません。盲目の保己一はそれとは知らず講義を続けたのですが、弟子たちが慌てているので、何が起こったか悟ります。そこで、保己一が発した一言が傑作です。「目あきというのは不自由なものじゃ」。明治時代の中頃から昭和初期にかけて、青森県や秋田県にいくつかの教会を立てて、伝道に献身した藤田匡牧師は、小さいときから神童と呼ばれるほど聡明でしたが、19歳の時に病気のために完全に失明してしまいます。藤田牧師が残した有名な言葉に、「肉眼盲なりと雖も心眼明らかなり」という言葉があります。たとえ、肉体の目は見えなくても、心の目は主イエスの光をはっきりと見ているというのです。ある牧師の言葉、「目を開けて見えるのは物質、目を閉じて見えるのは本質」。これも、同じことを言っていると思います。