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先立って行かれる復活の主

「先立って行かれる復活の主」

2016年3月27日

復活された主イエスは、弟子たちに、「ガリラヤに行け。そこでわたしに会うことになる」と言われました(マタイ28;10)。ガリラヤは、弟子たちの故郷です。ですから、ガリラヤに帰れ、というべきところです。でも主イエスは、「帰れ」ではなく「行け」と言われました。復活の主に出会った者は、新しい使命を与えられて、そこから遣わされて「行く」のです。ガリラヤは、あらゆる人間の問題に満ちていた所でした。貧しい地域であり、政治的には、常に蹂躙され続けた地域でした。そこに「行け」と主イエスは言われたのです。しかし、続けて「そこでわたしに会う」とも言われました。問題に満ちていたガリラヤに、復活の主は先に行かれ、そこで待っていると言われたのです。問題が渦巻く地で、復活の主と会うことになると言われたのです。「先に」という言葉は、時間的に先にという意味に加えて、「先導する」という意味も含まれています。人間の問題の只中に、復活の主イエスは先立って行かれるのです。その復活の主の後に従っていくから、私たちは、問題が渦巻くこの世にあっても、生きていかれるのです。私たちは、そのことを、今一度深く覚え、感謝したいと思います。

「両手いっぱいの愛」

2016年3月20日

子どもたちが大好きなワーシップソングに「両手いっぱいの愛」という歌があります。私はこの歌を歌うたびに涙してしまいます。この歌は、アメリカで愛されている、大変短い詩がもとになっています。日本語に訳されていませんが、このような意味の詩です。『ある時、私は、イエス様に尋ねた。「イエス様、どれくらい私を愛してくださっているのですか」。イエス様は「これくらいだよ」と優しく答えられて、静かに両手を広げられた。見ると、その手には、十字架の釘跡が生々しく残っていた。』 ある人が、こんなことを言っています。「クリスチャンは十字架を見上げるたびに二つのことを思い起こします。一つは、キリストが血を流すほどに、私たちを愛してくださったこと。もう一つは、自分たちは、自分を心から愛してくれる人を、傷つけずにはおかない人間であること。」 私たちは、命がけで私たちを愛してくださったイエス様も、そしてその主に愛されている隣人をも、傷つけずには生きていけない者です。しかし、十字架の恵みは、そのような者を、なおも赦し続けてくださいます。その十字架みを見上げつつ、お互いに赦された者同士として、共に生きていきたいと願わされます。

「前向き以外には意味がない」

2016年3月13日

福島第一原発に一番近かった福島第一聖書バプテスト教会。この教会の佐藤彰牧師と信徒数十名は、2年間に亘る流浪の旅の末に、3年前にいわき市に新しい教会堂と教会員のための共同住宅を建てて、新たな歩みを始められました。新しい会堂は、かつて自分たちが暮らしていた大熊町の方角に向かって、翼を伸ばした鳥をイメージして「翼の教会」と名付けられました。3年前の新会堂献堂式の時に詩編37編24節が読まれました。『人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。』この御言葉は新改訳聖書ではこのように訳されています。『その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。』教会の人たちは、未曾有の困難に倒されたのです。しかし振り返ってみると、確かに倒されはしたけれども、まっさかさまに倒れたのではなかった。打ち捨てられてはいなかった。主が手を支えてくださっていた。そのことに気づかされたのです。佐藤彰牧師は、故郷を慕う思いを大切にしながらも、「前向き以外は意味がない」と言っておられます。失ったものを主に委ね、新しい道を備えてくださる主と共に歩まれているのです。

「寄り添う力」

2016年3月6日

東日本大震災が起きてから間もなく5年になります。5年前、私たちは何度も「なぜ」と問い掛けました。何故このような不条理が起こるのか理解できない。しかし、その「なぜ」に対する答えは与えられませんでした。もし私たちが、そのような不条理の中で、なお生きることができるとするならば、その「なぜ」を共有する存在を持つ時ではないでしょうか。十字架の上で、「父よ、なぜわたしを見捨てたのですか」と叫ばれた主イエスに生きる根拠を見出す他にないのではないかと思うのです。ハンセン病によって失明した吉成稔氏は、自分を襲った不幸が理解できずに苦しみました。自分がどんな悪事を働いたというのか。自分より悪い人間はいくらもいるではないか。こんな矛盾はないと苦しみました。しかし、病める者、弱い者のために生きた主イエスが、十字架につけられ、殺された事実を知った時、この十字架にまさる矛盾はないと示されたそうです。そして、自分が抱えている矛盾が非常に小さいものに見えたそうです。その十字架の主がどこまでも寄り添ってくださいます。その愛を胸いっぱいに受けて、私たちも寄り添うことができる者にならせていただきたいと心から願います。