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聖書ー矢嶋楫子の心の舵

「聖書ー矢嶋楫子の心の舵」

2016年4月24日

熊本大地震の震源地、益城町は林誠兄の祖母、矢嶋楫子(かじこ)の出身地です。矢嶋楫子は日本基督教婦人矯風会の初代会頭として、また東京の女子学院の初代院長として、日本の婦人運動や教育のために大きな貢献をした女性です。しかし故郷の益城町における40歳までの日々は決して幸せではありませんでした。結婚した相手(林七郎)は酒乱で、10年間の結婚生活は恐怖の連続でした。楫子は夫と離縁して上京することを決意します。東京行きの船に乗るために波止場に行き、将来のことを考えていた時、港に浮かぶ船の大きな舵が目に留まりました。彼女は、「どんなに順風であっても、舵がなければ目的地に行けない。自分の心の舵をしっかり保っていこう」と堅く決心し、名前を「勝子」から「楫子」へと改めました。東京で、トゥルー宣教師と出会い、彼女の愛に深く感動した楫子は、46歳の時に受洗しました。それから92歳で召されるまで、彼女は心の舵を聖書にしっかりと据えて生涯を送ったのです。90歳近い楫子が、ワシントンへ旅立つのを心配する人々には、こう言ったそうです。「天国は日本からでもアメリカからでも距離は同じでしょう」。楫子の気迫と覚悟のほどが窺われます。

「キリストの愛の広さ」

2016年4月17日

今朝の礼拝説教で、B’zというロックバンドの「愛のままに、わがままに、僕は君だけを傷つけない」という曲について触れさせて頂きます。歌詞のある部分に少々「異議あり!」だからです。この部分です。「そう 信じる者しか救わない せこい神様拝むよりは 僕とずっと一緒にいる方が 気持ちよくなれるから」。以前、B’zのメンバーの一人がクリスチャンだと聞いたことがあったので、余計にこの歌詞が引っかかりました。B’zは稲葉浩志さんが作詞とボーカルを担当し、松本孝弘さんが作曲とギターを担当しているユニットです。この二人の内、松本さんが母の代からのクリスチャンであるようです。先ほどの「信じる者しか救わない せこい神様」という歌詞は稲葉さんの作詞です。アーティストはお互いの作品を尊重しますので、稲葉さんが作った歌詞に対して、松本さんが反対するということはしなかったのでしょう。しかし、いつの日か「無限の愛を知らずに、わがままに 僕はキリストを傷つけた」という曲を作って頂きたいと秘かに願っています。そして、その中で「信じる者はどんな人でも救ってくれる優しい神様を一緒に賛美しようよ」と歌ってくれたら素晴らしいなぁと勝手に夢見ています。

「誰々の何々という表現を考える」

2016年4月10日

14歳にして金メダルを獲得した平泳ぎの岩崎恭子選手。その姉上も一流の水泳選手でしたが、彼女は「岩崎恭子のお姉さん」と言われるのが一番嫌だったとか。3歳上の私の兄は、中学時代、生徒会長で、ラグビー部のエース、その上、映画会社からスカウトされるくらいハンサムでした。ですから、私が同じ中学に入学した時、たくさんの女子の先輩が、「ねぇ、柏先輩の弟ってどの子?」と教室に覗きに来ました。そして、「わー、似てない。がっかり」と言って帰っていきました。確かに「誰々の何々」という表現は、自分が一人の人格として扱われていない、という気持ちにさせます。教会でもよく耳にします。「○○先生の息子さん(娘さん)」と言われると一番傷つくという牧師の子弟。 「○○さんのご主人」と教会で呼ばれ、プライドを傷つけられた女性教会員の夫君。「○○先生の教会」と呼ぶことは、教会の頭であるキリストを悲しませているかもしれません。イエス様は「桑の木の上に座っている背の低い人」とは呼ばず、「ザアカイ」と名指しで呼びました。人をその名前で呼ぶことも、愛の表れの一つだと思います。お互いに、なるべく名前を憶えて、名前で呼ぶように心掛けましょう。

「本当に正しい人とは?」

2016年4月3日

立川談志師匠の在りし日の言葉。「正しい人ってーのは、自分の言ってることが、もしかしたら間違っているかも知れないと思っている人のことだ。自分の言っていることが、もしかして間違っているかも知れないと思うからこそ、その人は正しい人なんじゃないか?」名言だと思います。真理を相対化する必要はありませんが、真理を握っているという思いが、その人を独善的な裸の王様にしてしまう危険があります。特にクリスチャンは、聖書という絶対的真理を所有しているからこそ、そうした落とし穴に陥り易いのではないかと、私自身も自戒しています。聖書が絶対正しいからと言って、クリスチャンである自分の言動や判断が絶対正しいとは限りません。聖書の言葉を全体の教理や文脈から切り離して、自分の願いを達成するために用いるのはよくある間違いです。聖書は真理を語っています。しかし、その聖書の真理を自分は十分理解しているか?正しく解釈し、適用できているか?真理を語るに際して心に愛はあるのか?これらを疑うことは、弱気なのではなく、謙遜であると思うのです。真理を語るには大胆であるべきでしょうが、語る者はどこまでも謙遜でなければならと思わされます。