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12時の訪問客

「12時の訪問客」

2017年6月25日

老紳士のジムは毎日昼の12時になると教会にやって来て、数分間会堂で過ごして帰っていきます。不思議に思った管理人が何のために来ているのか尋ねました。ジムは「祈るために来ています」と答えました。「祈るためにしては短すぎませんか」と尋ねる管理人に、ジムは言いました。「私は毎日ここに来て『イエス様、ジムでございます』と祈って、暫くお話しするのです。それで十分なのです」。暫くしてジムは交通事故に遭って入院しました。その病院の患者たちは不平不満ばかり言って看護士たちを悩ませていました。ところがジムが入院してから雰囲気が一変しました。不思議に思った看護士がその訳を尋ねると、患者たちが口を揃えて言いました。「それはジムのお陰だよ。彼はいつも嬉しそうにしていて、決して文句を言わないからね」。そこで看護士はジムに、いつも幸せでいられる理由を尋ねました。ジムが答えます。「それは私の訪問客のお陰です」。でも誰もジムを訪ねて来ていません。ジムが続けます。『毎日12時になるとその方はここに来て『ジム、イエスだよ』と仰るのです』。私たちもこの老紳士のように、毎日イエス様とお会いすることを大切にしたいと思います。

「聖書の正しい読み方」

2017年6月18日

塩谷直也牧師の著作から引用します。『聖書は、ただあなたに向けて書かれた、神の直筆の手紙です。太郎君と次郎君がそれぞれ違う女性からラブレターをもらいました。太郎君は机に向かって冷静にラブレターを分析します。「この文の主語はどこにかかるのかなあ?これは誤字だ。この慣用句の使い方も間違っている。」一方、次郎君はもらったラブレターを大切に折りたたみ、胸ポケットにしまい込みました。どんなに頑張っても、お金を積んでも買うことのできない宝物を手に入れたようでした。時々ラブレターをもらったのは夢だったのかと不安になる時もあります。その時は胸に手を当てて、ラブレターのふくらみを手のひらで感じます。するとみるみる新たな力が与えられ、微笑みがあふれます。早く返事を書かなきゃ、と思うのでした。説明するまでもなく、二人のうちラブレターの正しい使用法を知っているのは次郎です。聖書本文に対する分析も大事。けれどそれだけで終わるなら、その人は太郎と同じ。不明なところや疑問の部分を残しながらも、次郎のように差出人の心を胸に受け止めながら共に歩く書物、それが聖書ではないでしょうか。』さて、あなたは太郎、それとも次郎?

「認知症に寄り添う」

2017年6月11日

先週に続いて藤井圭子さんの講演記録から引用します。『認知症を発症していた私の母は、遠い昔の世界に生きているかのように、しばしば何十年も前の知人の所へ「これを持って行ってちょうだい」とお使いを頼みました。私はそれを受け取る格好をして、一旦部屋の外に出て,2、3分して中に入り、「行って来ましたよ」と言うと、母は「そう、ありがとう」と言って、とても嬉しそうに満足していました。ある老人医学の研究者は、次のように述べています。「患者さんの世界を壊さないように、その役割を演じる。認知症の患者さんにも、自分の内的世界があり、それに従って行動しておられるのだということを把握すれば、患者さんとのコミュニケーションもうまくいき、良い協力体制がつくられる」。本当にその通りです。役割を楽しく演じればいいのです。「ごまかす」というのではなく、相手の内的世界に共に生きるのです。寄り添って生きるのです。そうすればどちらも幸せなのです。感謝し合えるのです』。パウロの言葉「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです(Ⅰコリント9:22)」。この御言葉と重なっていると思わされました。

「時が解決するとは」

2017年6月4日

小児科医で、尼僧からクリスチャンとなり、現在は信徒伝道者として広く用いられている藤井圭子さんの講演記録からの引用です。『今から17年前、医師になって1年足らずの息子が事故死し、その3ヶ月後に、私をこよなく愛してくれた母が相次いで主の御許に召されました。愛する者と別れる悲しみ、苦しみは言語に絶するものがあります。世間ではしばしば「時」が悲しみを薄れさせてくれると申しますが、それは「時」が漠然とそうしてくれるのではなく、実は周囲の愛する人々とのやさしい触れ合い、交わり、出来事が「時の経過」のなかで、積み重ねられていくことによって、初めて悲しみ、苦しみが癒され、和らげられるのだということを、私は知りました。神様は、私の周囲に、こんなにいっぱい愛する者を与えてくださり、そして私もこんなに皆から愛されている。神様から愛されているという幸せ、神様の愛を実感しました』。悲しみを薄れさせてくれるのは、単なる時の経過ではなくて、その間に積み重ねられた周囲の人々の愛の業だというのです。教会において、そのような愛の業に、とりわけ主イエスの愛に取り囲まれている幸いを覚えます。教会は愛と慰めの家なのですから。