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ヤコブ書を読み始めました

「ヤコブ書を読み始めました」

2018年4月15日

「賢者は真実を発見して喜び、凡人は間違いを発見して喜ぶ」、という言葉があるそうです。確かにそうだな、と思わされます。しかし、真実を発見して、素直に喜ぶことができる人は、実はそう多くはないのではないでしょうか。特にその真実が、自分にとって都合が悪い場合などは、それを発見しても喜ぶどころか、無視したり、否定したりしようとするのではないかと思います。水曜日の聖書講読・祈祷会では、時間をかけて読み進んできたマルコによる福音書の学びを終えて、先週からヤコブの手紙を読み始めています。ヤコブの手紙には、かなり厳しい戒めや勧めが集められ、まとめられています。これを読んで、ある人は「わが意を得たり」という思いで賛同するでしょうが、もう一方では、厳しい言葉に戸惑いを覚え、反発する人がいるかもしれません。ヤコブの手紙を読んだ、当時の教会はどのような思いで、この手紙を受け止めたのでしょうか。ヤコブの手紙に限らず、聖書の戒めを読む者に求められるのは、主の前にひざまずく謙虚さです。ある人が言っています。「真理は自分が多くの罪を犯したことを知っていて、それを認める罪人だけが受け入れることができるのです。」

「立ち止まるわけ」

2018年4月8日

カウンセラーの荻野ゆう子さんが、その著書の中で、不登校や引きこもりの若者たちの、生の声を引用しています。「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」不登校やひきこもりの若者が立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけない訳があるのだと言っています。他の言葉も紹介します。「涙をいっぱいためると、気持ちが動かなくなっちゃうから、今日は泣かせてほしい。」 /「自分が涙を流す場所を持っていれば、誰かの涙の受け皿になれるよね。」/「人それぞれ、けっこう無理してそこにいることもある。でも、そんな自分に気づいてくれる人がいれば、そこが私の居場所。」本当に人を慰め、励ますのは、苦しみや悩みの外にいる人の言葉ではなく、その只中にいる人の言葉なのだと、改めて思わされました。今朝の御言葉は、マグダラのマリアが主の墓の外に立って泣いていた、と書いています。マリアもまた、悲しみの涙をいっぱいためて、気持ちが動かなくなって、立ち止まらざるを得なかったのです。けれども、そんなマリアに、主イエスは「マリアよ」と優しく呼び掛けて、振り向かせてくださり、新しい命を与えてくださったのです。

「イエスは生きている」

2018年4月1日

カトリックのG.ネラン司祭が主イエスの復活についてこう語っています。(抜粋)「私にとってキリストの復活は史実でなく、真実である。正確に言うなら、信仰の対象は、復活という出来事よりも、イエスが今も実在しているということである。キリストの復活というよりも、ルカが書き記しているように『イエスは生きている』と表現した方がいい。生きているイエスの姿は目に見えないが、その臨在は真実である。福音書記者もパウロも、イエスの復活を信じていた。彼らの信仰それ自体が、疑いのない史実である。そして、彼らは描写に絶する出来事のすべてを、各自の才能に応じて描出しようとした。私が信じるのは彼らの信仰宣言によるのである。復活を無視して、福音書の描き出すイエスのみを、亡き教師として尊敬している人々を、信者と見做すのは難しい。『わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる』というイエスの言葉を、私は信じる。こうしたイエスが、私たちと共におられるという状況の基礎は復活に他ならない。もしも私がイエスの臨在を信じなくなったら、直ちに無神論者になる。私にとって生きているキリストか、無か、という二者択一しかないのである。」