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空っぽの手に

「空っぽの手に」

2018年5月27日

代田教会の平野克己牧師が次のような文を書いておられます。「わたしは北陸の金沢にある教会で、8年間、牧師として仕えました。ある時、近くにある教会の説教を助けに行きました。説教が終わって献金が行われました。一人の背中が丸くなった年老いた女性が祈りを捧げてくれました。『神様、今私たちは、捧げ得るものをすべて捧げて、この手を空にしました。この空っぽの手に、あなたの恵みを与えてください。』わたしはびっくりしました。わたしたちはどうも、空っぽな自分ということを恥じてしまいます。けれど、その時わたしたちは忘れているんです。神様、そして主イエスキリストが、どんなに豊かな方であるかということを。信仰というのは、空っぽになることです。空っぽになって、自分の中に信仰を探すことさえやめてしまうことです。神よ、空っぽのこのわたしに、あなたが恵みを満たしてください。わたしの信仰は弱いのです。どうか満たしてください。あなたは豊かな方でいてくださいます。だからわたしはあなたと共にいたいのです。あなたのおそばにいさせてください。そしてどうぞ、わたしを満たし続けてください。主イエスキリストによって祈ります。アーメン」

「涙の重み」

2018年5月13日

今朝の説教では、涙について語ります。以前、あるご婦人から、ご主人を亡くされた時の証しを聞きました。ご主人は五十代半ばに、日本企業の工場をフランスに造る仕事を任され赴任しましたが、一年目を終えたところで胃ガンを発病、帰国して治療に当たりました。ご主人は病床洗礼を受けて、天に召されるのですが、闘病の最後の方で、ふと奥様にもらされたそうです。「シーザーに会いたい」。それは、ずっと飼っていた愛犬でした。フランスに行くために友人に預けてあったのです。一階の救急看護室にベッドを降ろしてもらって、そこで愛犬と久しぶりに対面しました。シーザーはベッドに手をかけて、飼い主の顔を親しくなめて、涙を浮かべていたというのです。その光景は奥様の脳裏に深く刻み込まれました。闘病の思い出は、他にもたくさんあったとは思いますが、愛犬が飼い主の変わり果てた姿を見ながら、涙を浮かべる場面を思い出深く話されました。ご婦人の証しを聞きながら、私は改めて涙の重みというものを感じました。それだけ涙は尊いのです。主はそのような私たちの涙を受け止めてくださいます。武信正子姉が詠まれた句を想い起こします。「流れ星 神持ちたもう 涙壷」。

「祈りの生活」

2018年5月6日

かつて鎌倉雪ノ下教会の牧師であった加藤常昭師は3年前に奥様のさゆり牧師を天に送られました。最後まで、ホームに入れることをされずに、ご自宅で介護されました。奥様の認知症が進む中で、3度のご飯を作って食べさせ、オムツの取り替えもされました。辛い、本当に辛い介護をしている時、加藤先生はしょっちゅう神様に文句を言っていたそうです。でも一方ではそうしている中で、だんだんと神様と仲良くなっていったそうです。「神様、どうしてこういうことになるのですか。どうしてこんな経験をしなくてはいけないのですか」。先生は文句を言いながら、ふと気がついたそうです。「ああ、僕はいつも祈っている」。祈りというものは、必ずしもかしこまってするものではないのです。四六時中いつも神様と話をしている。「つらいです」。「ああ今、妻が食事をしてくれました。ありがとうございます」。いつも神様の方を向いて、文句を言ったり、感謝をしたりする。それも祈りなのです。大切なことは、いつも神様を相手にし、神様に話しかけているということなのです。「どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ(詩編」62:9)」。これが祈りの生活なのです。