MENU

心の飢餓

「心の飢餓」

2018年6月24日

日本国際飢餓対策機構のニュースレターから引用します。『ある大学のアメリカンフットボール部の部員が危険なタックルを故意に行った反則事件が大きな社会的論議を呼び起こしています。「チームが勝つためには相手に怪我をさせても良い」、「従えなければチームに居場所はない」。こうした個人の意志や、相手への敬意を踏みにじる言葉が、スポーツマンシップを教えるべき監督やコーチから出たというのです。それらの言葉はそっくりそのまま、飢餓が蔓延する紛争地で、戦いの最前線に追いやられる少年兵に掛けられる言葉、あるいは日本がかつて戦争へと突き進んで行った時代に、多くの若者を死へと追いやった指導者たちの言葉と同じだと思いました。日本に飢餓はないのでしょうか。いいえ、私はここにはっきりともう一つの飢餓である「心の飢餓」の深刻さを見る思いがしました。』かつてマザーテレサも、日本には食べ物の飢餓はないけれども、愛の飢餓があると言っていました。毎日のように報道される痛ましい事件を見る度に、愛の飢餓の恐ろしさに胸が締め付けられます。教会が、今こそ、主イエスの十字架の愛を、力強く大胆に語っていかなければならないと思わされます。

「命綱を握っているのは誰?」

2018年6月17日

数人の植物学者たちが、アルプスで標本にする花を探していました。すると絶壁の下の谷底付近に、非常に珍しい花が見つかりました。花は崖の途中に突き出した小さな岩の上に咲いていました。そこは命綱をしないと下って行けない所でした。少し離れた所に羊飼いの少年がいることに気付きました。「あの少年に頼んでみよう。身軽だし、こういうことには慣れているだろう」。そして、その少年にピカピカのコインを何枚か見せて、命綱を付けて下りて行って、あの花を取ってきてくれたなら、このコインを上げようと言いました。少年は少し迷いましたが、突然何を思い付いたのか、山の方に駆けて行きました。そして暫くすると、大きくてがっしりとした体格の人と一緒に現われました。それはこの少年の父親でした。少年はこう言いました。「谷底に行って取って来てもいいよ。僕のお父さんが命綱を持っていてくれるから」。信頼する方が命綱を握っていてくださるなら、どこにでも下って行くことができます。問題は、誰が命綱を握っておられるかということです。主の御心なら、それがどんなに困難なことでも、主が成し遂げてくださいます。主の御心に生きることこそが命綱なのです。

「伝道の推進力」

2018年6月10日

関東心の友伝道講習会で東洋英和女学院院長の深井智明先生がこのようなことを言われました。『神学生の頃、漬物の行商のアルバイトをしたことがありました。訪問先でサンプルを試食してもらい、買ってもらうのです。一日目の午前、一軒ずつ訪問してお願いして回りましたが、一つも売れませんでした。お昼の休憩時間にベテランの販売員に聞かれました。「どうだ、売れたかい」。「一つも売れません。どうやったら売れるのですか」。その人の答は意外なものでした。「きみ、この漬物を食べてみたのか」。「いいえ」。「それじゃあダメだよ。食べてごらん。すごくおいしいよ」。そこで、その漬物を食べてみたのです。確かにおいしいのです。値段が高いだけのことはあります。その人が言いました。「おいしいだろう。それが分かれば午後からは売れるよ」。その日の午後、二つの漬物を売りました。なぜ売れたのか。それは売るものに確信を持てたからです。自分で食べてみて、どれだけおいしいかを自信をもって説明できたのです。おいしさを伝えたかったのです。伝道も同じです。先ず私たちが福音の喜びに生きるのです。私たち自身の信仰の成長こそが伝道の力を生み出すのです。』

「祈りの扉」

2018年6月3日

「信徒の友」6月号に、次のような詩が投稿されていました。『扉  人生の扉は/一つではない。/違う扉が開いたら/春風が吹いてくる。
思い通りに/いかない人生/だから彩りがあると/君が教えてくれた  幸せの扉が/開くように/僕の祈りよ/鍵となれ』 最後の言葉、「幸せの扉が/開くように/僕の祈りよ/鍵となれ」、に感銘を受けました。この詩を読んだ方は、思い通りにいかない人生を経験しています。失敗や挫折によって扉が閉ざされてしまう。しかし、祈りの鍵によって違う扉を開けることができる。するとそこから春風が吹いてくる。祈りは失敗も人生の彩りだと教えてくれる。電話機を発明したA.G.ベルは同じようなことを別の角度から言っています。『一つの扉が閉ざされると、別の扉が開く。しかし、閉ざされた扉の方ばかり未練がましく凝視すれば、せっかく開いた扉は目に入らない。』目の前の扉が閉ざされても、神様は必ず別の扉を開けてくださっています。私たちは祈りを通して、別の扉の存在を知ることができるのです。そして、その扉の向こう側で、両手を広げて待っていてくださる、主イエスに出会うことができるのです。