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本当の証し

「本当の証し」

2018年7月29日

ある牧師がこのようなことを書いておられます。『先日、自分の半生記を書いたところ、それを読んだノンクリスチャンの方から、「あなたの人生には挫折がないようですね。あなたはすばらしい人ですね」と言われた。この言葉を頂いて、私の書き方が甘かったと、反省させられた。「あなたはすばらしい人ですね」と言われる証しは、本当の証しではない。人間がほめたたえられるのではなく、神がほめたたえられる証しが本当である。「あなたをそのように変えてくださった神様はすばらしい方ですね」と言われる時に、クリスチャン冥利に尽きると言わねばならない。しかし、「あなたには挫折がないようですね」という言葉を聞いて考えさせられた。挫折と言うなら、主イエスの十字架以上の挫折があるだろうか。人間の目から見れば完全な挫折である。しかし、神はその挫折を用いて、我らを罪から救う「救いの道」をひらき、復活によって挫折を覆して栄光を顕された。だから十字架と復活を信じる信仰の道には明るさがある。その明るさがクリスチャンの証しにはある筈である。私の拙い証しにも、幾分かその明るさを感じて「挫折がない」と言ってくれたのなら、素直に喜ぼうと思う。』

「だぶだぶの洋服」

2018年7月22日

私の恩師の週報短文からの引用です。『遠藤周作さんは、母に連れられて教会に行き、12歳の時に洗礼を受けたそうだ。だから、よく分からないままに、だぶだぶの洋服を着せられたようなもので、着こなすのに苦労したと書いておられる。…だぶだぶの洋服と言えば、牧師が説教することもそうだ。説教は聖書を語らねばならない。しかし果たしてどこまで自分の言葉で聖書を語ることができるか、これは説教者の一生の課題である。無理をしないで自分で語れることを語ればよいのだが、それが果たして聖書を正しく語ることになるかどうかは別の問題だ。だから我々はいつも聖書から問われ続けている。しかし、もう少し根本的に言えば、キリスト教自体が、我々の理解を超えているのである。神のことを我々人間がどこまで理解できるだろか。我々の理解を超えている神との関わりをあえて問題にするのがキリスト教である。初めからだぶだぶの洋服なのだ。それを上手に着こなすことができると考えること自体が不遜とも言える。』今、着こなすのに苦労されている方はおられるでしょうか。でも大丈夫です。皆、苦労しているのです。でも着ているうちに、いつの間にか馴染んでくるのです。

「砂漠に植えられた木」

2018年7月15日

鳥取大教授を退官した遠山正瑛という人がゴビ砂漠にポプラの木三百万本を植えようと決意しました。思い立ってから7年後遠山氏72歳の時、日本からのボランティア数十人と現地へ飛び立ちました。現地の人からバカにされながらも遠山氏とボランティアはひたすらポプラを植え続けました。最初の年は八千本しか植林できませんでした。これでは二百年かかります。計画は日本人中心から現地の人を使っての植林へと変わっていきました。現地の人を忍耐強く教育・指導し、植えた木の剪定をする。そういう根気の要る仕事を黙々としていく内に、先ず日本人ボランティアが変わっていきました。そして現地の人たちも将来に希望を持ち始めました。2001年遠山氏95歳の時、植林は目標の三百万本に到達しました。かつての砂漠はポプラの森が広がる緑地となり動物たちが住むようになりました。今ポプラの森の中では畑がつくられ農業が始まっています。ポプラは砂漠になど植えられたくなったかもしれません。しかしそこで一生懸命に生きた結果、そこは緑の森となり人々や動物が集まってくるようになりました。私たちも置かれた場所で精一杯生きるなら神様は尊く用いてくださるのです。

「重すぎる罪」

2018年7月8日

スチュアートというアメリカ人が飲酒運転をしてスーザンさんという18歳の女の人をひき殺してしまいました。スーザンさんの家族から訴えられ、判決で150万ドル(1億6千万円)の賠償金の支払いを命じられました。ところが家族は奇妙な要望を出してきました。150万ドルではなく、935ドル(10万円)だけ支払えばよい、と言ってきたのです。但し18年間(つまり935週間)毎週金曜日に家族宛に小切手を書いて1ドルずつ払って欲しいというのです。金曜日はスーザンさんが亡くなった日です。150万ドルの大金を払わずにすんだスチュアートはほっとして、毎週1ドルの小切手を送りました。しかし毎週繰り返していくうちに段々と苦痛になってきました。小切手を書く度に自分の罪を思い出すからです。彼は次第に憂鬱になり、とうとう小切手を書けなくなりました。そこでまた裁判になりました。スチュアートはこの罰は重すぎると訴えましたが、判決は毎週1ドルずつ払い続けなさい、というものでした。自分の罪をずっと負い続けなければならないということは本当に苦しいことです。しかし主イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言って下さいました。私たちはこの恵みに生かされています。

「受けることで与える」

2018年7月1日

青山学院大学宗教部長塩谷直也師の文章から引用します。『教誨師をしている僧侶がアルコール依存症になった。死刑囚の更生の手助けをしても結局は絞首刑になる。彼はその現実に翻弄され、苦悩したのである。治療のために病院に通い、その後で死刑囚との面談を続けていた。仏の道を説く自分がアルコールで苦しんでいるなどとは、とても言えないと思っていたが、ある時、思わず「実はアルコール依存症で病んでいる」と漏らしてしまった。すると死刑囚の態度が変わった。「よく分かる」と共感し、「お坊さん、頑張れ」と励ましてくれる死刑囚が現れた。僧侶は気付いた。今までは自分が援助を与え、死刑囚はそれを受けるという一方向の関係であった。その時には本当の死刑囚の苦しみに寄り添えなかった。しかし自らの弱さに気付いた今、初めて隔ての壁が消えた。主イエスも子どもからパン五つと魚二匹を受け、それを人々に分け与えた。お互いに受け、そして与える交わりの中で、私たちは生かされるのだ。』茅ヶ崎恵泉教会においてもお互いに受け、そして与える交わりが実現しますように。そのために、兄弟姉妹が神様に心を注ぎ出して、お互いに祈り合う群れとなりますように。