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安心して眠る幸い

「安心して眠る幸い」

2018年8月26日

河野進牧師が作られた「忘れる」という題の詩があります。『愛して すぐ忘れますように/施して すぐ忘れますように/怒って すぐ忘れますように/ゆるして すぐ忘れますように/裏切られて すぐ忘れますように/苦しんで すぐ忘れますように/悲しんで すぐ忘れますように/夜ねむるときは なにも持ちませぬように』 この詩のように、夜、床に就く時には、その日の様々な喜怒哀楽をすべて忘れて、ただ感謝の祈りのうちに眠ることができたら幸いですね。詩編127:2は、「主は愛する者に眠りをお与えになる」と言っています。この御言葉を、口語訳聖書は「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならないものを与えられる」と訳していました。思い悩みや心配事があると、眠れなくなることがあります。でも神様は眠っている時にも、必要なものを備えてくださるのです。ですから、何も心配しないで安心して眠ってよいというのです。同じ詩編121:4はこう言っています。「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」。私たちは眠れないと嘆きつつも、いつしか寝ています。でも神様は、まどろむことも、眠ることもなく、私たちを見守ってくださるお方です。

「聖書のメインメニュー」

2018年8月19日

先日、興味深い譬え話を聞きました。数人の人が有名なステーキハウスに入って、全員がステーキではなく、スープやサラダだけを注文したなら、そのステーキハウスのシェフはどう思うでしょうか。しかも、彼らが何日も続けてスープやサラダだけを注文し続けたらどうでしょうか。きっとその店のシェフは、気を悪くすると思います。しまいには怒り出すかもしれません。そのステーキハウスのメインメニュー(看板料理)はステーキだからです。スープやサラダはメインメニューではなくオプションのサイドディッシュ(脇役の料理)なのです。それなのに、メインメニューを注文せず、サイドディッシュばかり注文したら、シェフは怒るでしょう。私は、礼拝において、いつも主イエスの十字架の愛を語るように心掛けています。皆様の中には、飽きてしまったので、少しは他の話をして欲しいと思われる方もおられるかもしれません。しかし、聖書のメインメニューは十字架の愛なのです。それを注文しないならば、聖書レストランのシェフである神様は、がっかりするのではないでしょうか。そういうことで、これからもメインメニューにこだわっていきたいと思います。

「木々の緑に教えられる」

2018年8月12日

クリスチャン作家の高見沢潤子さんの文章の要旨を紹介させて頂きます。『かつてラジオ放送の脚本を担当していた時に、プロデューサーから酷評を受けたことがあった。「これはひどく低調ですね。ああいうテーマはいただけませんね。全体が投げやりで最低です」と、「最低」を繰り返された。納得がいかず怒りとショックに打ちひしがれてスタジオを出て、師走の銀座通りを歩いていた時、ふと美しい緑の葉をつけた柳の木が目に映った。間もなく終る緑の命を精一杯の誠実さで生きている。短い命を惜しみなく出し切って、懸命に生きている柳の木を見て、いつしか気持ちは静まっていった。』この文章を読んで、私の父を想い起こしました。1945年8月15日終戦の日、父は「これから日本は、そして私たちはどうなるのだろうか」という不安を胸に、空襲で焼け焦がれた町をさまよったそうです。その時、戦火の中を生き抜いて緑の葉を茂らせている木々の姿を見て、「人間は愚かにも殺し合っているが、この木々はそんなこととは無縁に誠実に自然の営みを続けているではないか」と思わされたそうです。それから12年後に父が創造主なるお方と出会う準備が、この時ひそかに整えられたのでした。

「キリストの平和」

2018年8月5日

私が属する群の婦人牧師がこのようなことを書いておられます(抜粋)。『キリストの平和、それは教会の本質です。「教会の中にどうしても好きになれない人がいるのですが、どうしたらいいでしょうか」。ある牧師はそう問われ「それこそ私たちが神様に選ばれてここにあるしるしです」と答えたそうです。教会は仲良しの集まりではありません。ただキリストゆえに選ばれ召されたお互いですから、ひとり一人の性格も価値観も異なります。ですから中には合わない人もいるのです。それなのに一つになれるのは頭なるキリストが先んじて存在してくださるからです。教会は頭であるキリストによって一致を得ます。その時、「違い」は「多様性」となって主の栄光のために用いられるのです。キリストの平和とは「違い」を排除して「同じものだけ」になることではなく、キリストの血潮によって敵意が滅ぼされ(エフェソ2:14)、先ず神との和解が与えられることです。その時、気の合わなかった者たちが共に、この方の前にひれ伏し拝みます。それが教会です。』平和聖日のこの日、まず私たちの心の中の隔ての壁を取り除くことから始めようではありませんか。それが平和への第一歩です。