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木々の緑に教えられる

「木々の緑に教えられる」

2018年8月12日

クリスチャン作家の高見沢潤子さんの文章の要旨を紹介させて頂きます。『かつてラジオ放送の脚本を担当していた時に、プロデューサーから酷評を受けたことがあった。「これはひどく低調ですね。ああいうテーマはいただけませんね。全体が投げやりで最低です」と、「最低」を繰り返された。納得がいかず怒りとショックに打ちひしがれてスタジオを出て、師走の銀座通りを歩いていた時、ふと美しい緑の葉をつけた柳の木が目に映った。間もなく終る緑の命を精一杯の誠実さで生きている。短い命を惜しみなく出し切って、懸命に生きている柳の木を見て、いつしか気持ちは静まっていった。』この文章を読んで、私の父を想い起こしました。1945年8月15日終戦の日、父は「これから日本は、そして私たちはどうなるのだろうか」という不安を胸に、空襲で焼け焦がれた町をさまよったそうです。その時、戦火の中を生き抜いて緑の葉を茂らせている木々の姿を見て、「人間は愚かにも殺し合っているが、この木々はそんなこととは無縁に誠実に自然の営みを続けているではないか」と思わされたそうです。それから12年後に父が創造主なるお方と出会う準備が、この時ひそかに整えられたのでした。

「キリストの平和」

2018年8月5日

私が属する群の婦人牧師がこのようなことを書いておられます(抜粋)。『キリストの平和、それは教会の本質です。「教会の中にどうしても好きになれない人がいるのですが、どうしたらいいでしょうか」。ある牧師はそう問われ「それこそ私たちが神様に選ばれてここにあるしるしです」と答えたそうです。教会は仲良しの集まりではありません。ただキリストゆえに選ばれ召されたお互いですから、ひとり一人の性格も価値観も異なります。ですから中には合わない人もいるのです。それなのに一つになれるのは頭なるキリストが先んじて存在してくださるからです。教会は頭であるキリストによって一致を得ます。その時、「違い」は「多様性」となって主の栄光のために用いられるのです。キリストの平和とは「違い」を排除して「同じものだけ」になることではなく、キリストの血潮によって敵意が滅ぼされ(エフェソ2:14)、先ず神との和解が与えられることです。その時、気の合わなかった者たちが共に、この方の前にひれ伏し拝みます。それが教会です。』平和聖日のこの日、まず私たちの心の中の隔ての壁を取り除くことから始めようではありませんか。それが平和への第一歩です。