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聞き間違いをプラスにするユーモア

「聞き間違いをプラスにするユーモア」

2018年11月25日

あるプロ野球の選手がインタビューを受けました。「あなたの座右の銘は何ですか」。その選手は胸を張って「1.5と1.2です」と答えたそうです。質問した記者はびっくりしましたが、やがて気付きました。この選手は、「あなたの左右の目(の視力)は何ですか」と聞かれたと勘違いしたことが分かったのです。聞き間違いにまつわるもう一つのエピソードがあります。70歳を超えて尚も元気で働いている熱心なクリスチャンがいました。会社の宴会に出ても酒を飲まない。人々が流行歌を歌う中で、讃美歌を歌う。そんな彼が、ある酒の席で「あなたは神にそむいたことがありますか」と聞かれました。その人は少々慌てましたが、しかし胸を張って「私は主イエス・キリストに背いたことなどありません」と答えました。相手の人はびっくりして「いや、私は、あなたに髪を染めているのかと聞いたのです」と言ったそうです。その人は、しまったと思いましたが、直ぐに気を取り直して「この髪の毛は神様に頂いたものだから、そのままありがたく頂戴して生きています」と証ししたそうです。このようなユーモアのある応答が、すっと出てくるような心の余裕を持っていたいものだと思わされます。

「一番遠く感じる人」

2018年11月18日

ある婦人牧師がCCC(キリスト教カウンセリングセンター)の講座を受講しました。10人ずつのグループに分かれての学びを何回か続けた後、講師がこんな課題を出しました。「このグループの中で、一番近く感じる人と、一番遠く感じる人をそれぞれ書いてください」。この婦人牧師はいつも皆のことを思って色々と気を使っていました。ですから10人中7~8人が、自分のことを「一番近くに感じる人」に選んでくれるだろうと思っていました。ところが結果は全く逆でした。次に講師がその理由を尋ねました。すると意外な答えが返ってきました。一番遠く感じる理由、それは「いつもニコニコしている」、「いつも冷静だ」、「いつもまとめ役になる」、「良い人過ぎる」ということでした。これらは本来ほめ言葉です。でもこれらが遠く感じる理由なのです。要するに「立派過ぎる」というのです。私たちは立派でなくても良いのです。欠けをさらけ出しても良いのです。なぜなら欠けがあるから、人は近づくことができるからです。教会はお互いが安心して欠けをさらけ出せる場である筈です。神様の前では誰もが欠けだらけであり、神様がその欠けを補ってくださることを知っているからです。

「まことの愛とは」

2018年11月11日

ポーランドのヴァーサ公爵と夫人カタリーナの愛は、今でも人々に語り継がれています。ヴァーサ公爵は反逆罪の寃罪を被って終身刑を宣告されます。するとカタリーナは「私も夫と一緒に服役させてください」と王に嘆願しました。驚いてその訳を尋ねる王に、夫人は「私たちは結婚式の時、死別するまで一緒にいると約束しました。ですから私も夫と一緒に監獄に入れてください」と答え、夫と同じ監獄で服役しました。そして17年後に即位した新しい王が、その愛に感動し二人は釈放されました。出エジプト記21章にはヘブライ人の奴隷は6年間主人に仕えれば、7年目には自由になれると定められています。しかし、もし奴隷がその後も、自由になることをよりも引き続き主人に仕えることを望むならば、彼は生涯主人に仕えることができると書かれています。奴隷がそう望むということは、きっとその主人が誠実で慈しみ深い人であるからだと思います。私たちの主なる神様は、そのような愛と慈しみに満ちたお方です。その主の愛を受けた者は、どんな試練や患難があっても主から離れることができないのです。ヴァーサ公爵の夫人カタリーナのように生涯主と共に歩む者とされるのです。

「自立と依存」

2018年11月9日

4年前の秋にアレセイア湘南高校3年生の修養会に招かれ、二度の講演をしました。講演の後、クラス別のディスカッションにも参加しました。そこでのテーマは「自立」でした。経済的自立と精神的自立について、或いは、自立のための自律について、卒業を間近に控えた3年生が、熱心に話し合っていました。そこで私から一つ質問をしました。「物事の意味は、反対概念と比較すると、明確になる。それでは、自立の反対語は何だろうか」。なかなか答えが出てこなかったので、私の考えを述べました。「自立」の反対語は、「依存」ではないだろうか。でも、人間は何かに依存して生きざるを得ないものである。家族?友達?学校?仕事?お金?だから何に依存して生きているかが大切。薬物とかアルコール等、変なものに依存すると人生はめちゃくちゃになる。確かなものに、しっかりと繋がって依存していることが大切。それが真の自立であり、真の自由だと思う。そのようなことを話しました。そして、その確かなものこそが、聖書が語っている神様であることを、暗に示しました。秋が深まると、あの修養会のことを思い出します。果たして、彼らの内の何人が、分かってくれただろうか。