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新しい聖書ー翻訳のプロセス

「新しい聖書ー翻訳のプロセス」

2019年2月24日

新しい聖書(聖書協会共同訳)の翻訳は「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語を目指す」ことを基本方針としました。そのため最初の段階から原語担当者と日本語担当者が協力して訳文の作成に当たりました。新共同訳では翻訳者45名に対して国語委員は6名(9対1)でしたが、新しい聖書では原語担当者43名に対し日本語担当者19名(7対3)になっています。原語担当者が作成した訳稿が第一稿、日本語担当者がこれを日本語面から改訂した訳稿が第二稿、両者が話し合って作成した訳稿が第三稿です。第三稿は別の原語担当者と日本語担当者によるチェックを受け、翻訳者委員会での検討を経て第四稿となりました。更に朗読にふさわしい訳文となっているかをチェックするため、朗読者と聴き手のペアによる朗読チェックを受けて、原語担当者が改訂したものが第五稿。それを様々な分野の専門家による検討によって改訂されたものが第六稿。更にそれが外部モニターによって、翻訳方針に従っているかどうか再度検討されたものが第七稿で、これで漸く翻訳作業が終了しました。このように新しい聖書の翻訳に当たっては長年に亘る多くの方々の努力と祈りが捧げられたのです。

「新しい聖書ー翻訳方針」

2019年2月17日

新しい聖書「聖書協会共同訳」は、翻訳作業をするに先立ち「諮問委員会」を設置しました。国内32教派、1団体に議員の推薦を依頼し、17教派、1団体が議員21名を推薦しました。この17教派の信徒数は日本のクリスチャン人口の75.3%に相当するそうです。その諮問委員会で翻訳の基本方針が決められました。その第一に、新しい聖書は、日本の教会の標準訳聖書となること、またすべてのキリスト教会での使用を目指すことが掲げられました。第二に、礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指すことが挙げられています。更に、将来にわたって日本語、日本文化の形成に貢献できること、原典に忠実な翻訳を目指すこと、統一性を保つこと、などが決められています。読売新聞の「編集手帳」で新しい聖書が紹介されましたが、そこでは「格調高く美しい日本語を目指したというが、詩編などを読むと、確かに文章が引き締まっている」と評されています。信者ではなく、中立的な立場から読んだ人にもそう言われていることは評価されるべきでしょう。新しい聖書の翻訳で特記すべき点は女性の貢献です。翻訳委員の中の女性の比率は新共同訳の時の3%から23%に増えています。

「新しい聖書」

2019年2月10日

近代日本における福音宣教の開始後、聖書はいち早く日本語に翻訳されました。それは教会の正典として用いられただけでなく、言語、文学、思想など日本文化全体の発展にも大きく貢献してきました。聖書協会による翻訳だけでも、1887年の「明治元訳」、1917年の「大正改訳」、1955年の「口語訳」、1987年の「新共同訳」と、およそ30年おきに改訂あるいは新訳がなされてきました。新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントが初めて共同で翻訳したという点で画期的でした。あるアンケートでは日本のクリスチャン人口の80%が新共同訳聖書を持ち、教会数ではカトリック教会を含めて70%が新共同訳を採用しています。しかし、最近の聖書学、翻訳学の進展、ヘブライ語・ギリシア語の原本(底本)の改訂、日本語や社会の変化、訳語の不統一性の問題、などを背景に新しい翻訳への要望が高まり、昨年12月に31年ぶりに新しい聖書が刊行されました。「聖書協会共同訳」と名付けられた新しい聖書は、新共同訳の改訂ではなくゼロから翻訳し直した新しい聖書です。当教会でもいずれ使用することになる可能性が高いと思われますので、これからこのコラムで新しい聖書について紹介していきます。

「神様に近づく」

2019年2月3日

ある人がこんなことを言っています。「人はみな、1本のひもで、神様とつながっています。このひもは、私たちが罪を犯すと切れ、私たちが悔い改めると、神様がそこに結び目を作ってくれます。すると、ひもは前より短くなります。こうして、罪びとは、だんだん神様に近くなっていきます。ですから、だれでも、あやまちと悔い改めの結び目をつづりながら、神さまに近づいていくのです。」先々週の聖書講読・祈祷会において、ルカによる福音書7章36節~50節の御言葉から、罪の赦しと主に対する愛について学びました。そこには金貸しから、500デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人と、50デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人では、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか、という譬え話が語られていました。ここでの借金は人間の罪を表しています。神様(金貸し)に対する人間の罪(借金)は莫大で、誰もが返済不可能なのです。500デナリオンと50デナリオンの差は、借金の額の違いではなくて、どれだけ罪を自覚しているかの違いなのです。罪を多く自覚している人ほど、その罪を赦してくださった神様を愛するのです。冒頭の「ひも」の譬えと繋がっていると思いました。