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苦難の後には祝福がある

「苦難の後には祝福がある」

2019年5月26日

ロシアの作家ドストエフスキーの人生は苦しみの連続でした。信仰心の篤い母親は父親の虐待によって肺結核で死にました。その父親は農民たちを暴力的に支配したため、農民たちから殴り殺されました。また持病のてんかんに、生涯苦しみ続けました。青年時代には文学と社会主義思想に傾倒し、キリスト教を権力にへつらう宗教と考えていました。革命組織に加わり逮捕され、死刑を宣告されましたが、処刑の寸前で皇帝の特赦を受けて、シベリヤに流刑となりました。流刑地に行く途中、一人の婦人が彼に小さな聖書を渡してくれました。酷寒と強制労働の厳しさと戦いながら、彼は聖書を取り出しては繰り返して読みました。そしてイエス様を心に迎え入れます。彼はこう告白しています。「だれかがキリスト教は真理ではないと言っても、私はイエス様と一緒にいたい。私は真理よりも、私のために十字架で血を流して死んでくださったイエス様と共にいたい」。彼は4年間の収容所生活を終えて故郷に帰ってきた後に、苦しみを通して得た体験を通して、人間の深層心理を深く捕らえたいくつもの珠玉の小説を書きました。悲しみはそのままでは終わりません。涙の祈りは神様を動かすのです。

「小さなことに感謝する幸い」

2019年5月19日

ナポレオンの時代に、シャロネットという男が無実の罪で牢獄に入れられていました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。 その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、シャロネットは気が付きました。驚いたことに、固い土の中から小さな草が、芽を出しているのです。彼にはそれが、神様が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。 やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫と白の花を咲かせました。この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に持ち帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼の疑いは晴れて釈放され、自由の身となったのです。私たちも、小さなことに感謝することを始めてみましょう。きっと大きな幸いに導かれると思います。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編103編2節)

「母の願い、妻の願い」

2019年5月12日

一人息子が父親と大喧嘩して家出をしました。母親は息子に戻るように働きかけましたが息子は「お父さんが謝らなければ僕は家には戻らない」と言い続けました。母親は心を痛め体調をすっかり崩してしまいました。そして死を間近に控えるようになりました。そんな妻のために何かしたいと願う夫に彼女は言いました。「あなたの名前で息子を呼んで下さい。赦していると書いてあげて下さい」。しかし夫は妻の名で手紙を出すのが精一杯でした。手紙を読んで驚いた息子が家に戻って来ましたが、父親は彼を迎えず別の部屋に籠っていました。母親は息子に言いました。「あなたの方から謝ったら解決します」。しかし息子は断固拒否します。彼女は枕元に二人を呼びました。そして右の手で夫の手を取り、左の手で息子の手を取り和解させようとしました。それでも二人は仲直りしません。彼女はとうとう和解を見届けることなく息を引き取りました。夫は心から後悔しました。「わしが悪かった」。そして息子を抱きしめたのです。彼は和解のために命を使い切った妻の姿に打たれたのです。人間関係のひずみを修復するには誰かの仲介が必要です。その完全で永遠の仲介者こそ主イエスなのです。

「キリストの香り」

2019年5月5日

ある人がコーヒーを初めて飲んで感動し、「どうしたらこんなに香り高い、コクの深い飲み物ができるのですか」と聞きました。すると、コーヒーをいれてくれた人が、「コーヒーの豆にお湯を注ぐだけですよ」と言いました。それを聞いて、その人は、コーヒーの豆を採ってきて、それにお湯を注ぎました。でも、出てきたのは、ただのお湯で、香りもコクもありませんでした。そこで再び尋ねると、「そのままではだめですよ。豆を焼いて、焙煎して、細かく砕いた後に、お湯を注がなければ、香りもコクも出ませんよ」という答えが返ってきました。私たちも、キリストの香りを放ち、味わい深いキリスト者になるためには、自我が焼き尽くされ、焙煎され(練られ)、砕かれなければならないのです。自分を大きくすると書いて、「臭」という字になります。自分が、自分がと言って、自分を大きくしようとする人には、嫌な臭みが漂います。私たちが、主イエスの熱い愛によって焼かれて、自分を大きくしようとする思いが砕かれた時に、私たちはキリストの香りを豊かに放つコクの深いキリスト者に整えられるのです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊(詩編51:10)」なのです。