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難しい試験問題

「難しい試験問題」

2019年8月25日

ある看護学校の試験で予想外の問題が出ました。「学校をいつも掃除してくれている女性の名前は何でしょう」。この問題は冗談のように思われました。そういえば、学校を掃除しているその女性を、学生たちは何度も見たことがあります。彼女は背が高く、髪は黒色で、50歳位でした。しかし学生たちはその時まで、彼女の名前まで知ろうと思ったことはありませんでした。すべての学生が最後の質問には何も書かずに答案を提出しました。そのクラスが終わる前に、一人の学生が「最後の問題も試験の点数に影響するのですか」と先生に質問しました。「当然です!」と先生は答えました。「学校に入学して以来、あなたたちは日々多くの人たちと知り合いながら、ここまでやってきました。そのすべての人たちは、あなたたちにとって大切な人たちです。その人たちに対して関心を寄せたり、心配りをしたりするのは当然のことです。ほんの少しでも優しい気持ちをこめて、その人たちに笑顔を返したり、『こんにちは』と声をかけるだけでもいいのですから。」この時、学生たちは彼女の名前はドロシーということを知りました。私たちも会堂清掃の奉仕者への感謝を忘れないようにしましょう。

「あなたの弱さをささげなさい」

2019年8月18日

たった一人で聖書全巻をラテン語に翻訳したヒエロニムスは、その若き日、砂漠での修行中にひどい落ち込みを体験した。その時キリストが彼に現われて、十字架の上から優しくお尋ねになった。「ヒエロニムス、私に何を捧げてくれるのか」。ヒエロニムスは勇んで答えた。「すべてをお捧げします、特にこの辛い砂漠の孤独を」。主は彼に感謝され、またお尋ねになった。「他にまだ何か捧げてくれるものがあるか」。彼はまた答えた。「断食と渇きを」。主はその後も何度かお尋ねになった。「他に何を捧げてくれるのか。」ヒエロニムスはその度によどみなく答えた。徹夜の祈り、霊的読書等々。十字架上の主は、その一つ一つに微笑みながら礼を言われ、また同じ質問をなさるのだった。「独身生活を捧げます。この荒れ地の不便さ、日中の熱さ…」。しかしいよいよ最後にはアイデアも底をつきヒエロニムスは憂鬱になった。これほどの英雄的な犠牲のリストにも主はまだ満足しておられないようなのだ。沈黙が訪れた。その時、主がヒエロニムスを愛しげに見つめて口をお開きになった。「ヒエロニムス。一つ忘れているよ。お前の弱さも私に捧げなさい。お前を赦すことができるように。」

「主を迎える準備をしよう」

2019年8月11日

先週の祈祷会ではルカによる福音書12章35節以下の御言葉を学びました。やがて私たちは再臨の主にお会いする。それはこの世の「終末の時」とする解釈が一般的ですが人生の終末である「死の時」とする見方もあります。日野原重明先生は癌で苦しむ35歳のクリスチャン女性から「いったい私の体は何時までもつのですか」と尋ねられました。日野原先生はそれに直接は答えずにルカ12章40節の御言葉を読みました。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」医師としてこの女性に死期を明確に告げることはできなかった。仮に死期が分かったからと言って、それを告げることがその女性の慰めになる訳でもない。それよりも、日野原先生は、いつでも死ねる用意をするようにと促したのです。日野原先生は信仰を持っている患者に「死を迎える用意」ではなくて「主を迎える用意」をしようと告げたのです。「死」と「主」。発音はあまり変わりませんが、意味は全く違います。「死を迎える」のではなくて、「主を迎える」のです。いえ、主に迎えられるのです。「いつも主に迎えられる用意をしていなさい」。日野原先生は精一杯の慰めを与えられたのです。

「祈るなら待たなければなりません」

2019年8月4日

先週の礼拝では、パウロがカイサリアで二年間も監禁され、ローマへの伝道を待たされた出来事から御言葉に聴きました。パウロはひたすらに祈りつつ待ったのです。このことで想い起す詩があります。ポーランドのトゥヴァルドフスキー司祭の詩です。「祈るなら、ちょっと待たねばなりません。すべてのものには時があります。絶えずおねだりばかりしているような人は望みに生きることをやめています。待つこともできないならば、祈らないでください」という詩です。ドイツと旧ソビエトに挟まれて非常に厳しい困難の歴史を歩んだポーランド。そういう中で生きた神父が「祈るなら、ちょっと待たねばなりません」と言っています。この「ちょっと」という言葉の現実は、どれほど重たいものであったのでしょうか。度重なる困難の中を歩んだキリスト者の言葉です。神を信じるものにとって、言葉にし難いほどの困難も「ちょっと」なのです。そしてその「ちょっと」を待てないくらいならば「祈らないでください」と言っているのです。「待つこともできない」とは祈りの答えを聴く耳を持っていないということ。そういう祈りは祈りではない。せっかく祈るのなら、ちょっと待ちましょう。